知らせ
冬の朝は、音が少なかった。
庭に残った葉はほとんどなく、梅の木も裸になっている。
障子の向こうから差し込む光は白く、部屋の中まで冷たく感じられた。
圭人はまだ眠っていた。
清二は布団の端を整え、圭人の肩からずり落ちていた掛け布団をゆっくりと引き上げてあげる。
眠っている圭人の顔をしばらく見つめる。
寝息は静かだった。
清二は少し色の抜けた頬に口付け、立ち上がった。
「……またあとで」
返事はない。
いつものことだった。
清二は玄関へ向かう。
戸を開けると、冷たい空気が頬を撫でた。
吐いた息が白くなる。
郵便受けへ歩き、届いた郵便を取り出す。
いくつかの封筒に混じって、一枚の赤い紙があった。
清二の手が止まった。
風が吹く。
紙の端が、かすかに震えた。
しばらく、その場から動けなかった。
赤い紙を見つめている。
それだけだった。
けれど、その一枚を手にした瞬間、昨夜のことが妙に鮮明に思い出された。
圭人と話した。
来年も蛍を見に行こうと言った。
庭のある家に住もうと言った。
梅の木を植えようと言った。
雪が降ったら、雪兎を作ろうと言った。
どれも、昨日までは当たり前に未来の中にあった。
清二は赤い紙を折った。
何度も折り目をつけるように、丁寧に。
それから、懐へしまった。
家へ帰る気になるず、彼の家へ戻る。
玄関を開ける音が、やけに大きく響いた。
圭人はまだ眠っていた。
清二は何も言わず、縁側へ座った。
庭を見る。
梅の木がある。
冬の枝は細く、花も葉もない。
ただ、そこに立っている。
「ん、清二くん?」
背後から声がした。
振り返る。
圭人が襖につかまりながら立っていた。
「起きてたの?」
「今起きました」
「どうしたの?」
「……なんでもないです」
圭人はしばらく清二を見ていた。
それから、ゆっくりと近づいてくる。
「寒いよ」
「そうですね」
「中に入ろう」
「はい」
清二は立ち上がろうとした。
そのときだった。
圭人の目が、清二の懐へ落ちた。
「……それ」
清二の動きが止まる。
「何?」
「…赤い」
清二は答えなかった。
圭人が一歩近づく。
そして、清二の懐からわずかに覗いていた紙を見た。
その表情が変わった。
「……赤紙?」
静かな声だった。
清二は目を伏せた。
「はい」
それだけだった。
圭人は何も言わない。
庭から風が吹き込む。
彼の瞳と障子がわずかに揺れた。
「いつ?」
「……明日の朝です」
「そう」
圭人はそれだけ言った。
清二も、それ以上は何も言わなかった。
二人とも、縁側に座った。
いつもと同じ場所だった。
いつもと同じように、肩を並べている。
けれど、今までそこにあったものが、少しずつ遠ざかっていくような気がした。
「寒いね」
圭人が言う。
清二は答えなかった。
圭人も、もう一度は言わなかった。
ただ、二人で庭を見ていた。
その夜。
清二はいつもより遅くまで卯野家にいた。
夕餉を作った。
火鉢の炭を整えた。
薬を飲んだかと尋ねた。
布団を敷いた。
どれも、いつもと同じだった。
圭人も、いつもと同じように「ありがとう」と言った。
だからこそ、何も言わないことが、二人にとって一番苦しかった。
食事を終えたあと、圭人が湯呑みを両手で包みながら言った。
「ねえ、清二くん」
「はい」
「この前の話、覚えてる?」
「……はい」
「梅の木」
「はい」
「畑」
「はい」
「蛍」
「はい」
「雪兎」
清二は少しだけ笑った。
「覚えてます」
「なら生きて。」
それ以上は続かなかった。
明日の朝には、清二はここを出る。
戻れるのか。
戻れた後、隣にいられるか。
そんなことを考えてしまえば、今夜まで壊れてしまいそうだった。
だから二人は、未来について深くは話さなかった。
ただ、これまでの話をしていた。
春の梅。
夏の蛍。
秋の干し柿。
そして、帰ったら。
圭人はふと笑った。
「干し柿、今年はうまくできたんだよ」
「本当ですか?」
「本当」
「去年は渋かったのに」
「失礼だなあ」
清二が笑う。
圭人も笑う。
いつもの笑い声だった。
けれど、二人とも分かっていた。
この夜が、いつもの夜ではないことを。
夜が更ける。
清二は布団を敷いた。
「もう寝ましょう」
「うん」
圭人が布団へ入る。
清二も、その隣に座った。
しばらく何も言わなかった。
「清二くん」
「はい」
「……おやすみ」
「おやすみなさい」
それだけだった。
清二は部屋を出ようとした。
けれど、戸に向かおうとしたところで裾を引かれ、立ち止まる。
圭人はもう目を閉じていた。
清二は諦めて隣に寝転ぶ。
暗い家の中で、清二は懐に手を入れた。
赤い紙に触れる。
冷たい紙だった。
それを握りしめることもできず、ただ指先で確かめる。
明日の朝が来れば、自分はここを出る。
それだけは変わらない。
清二は庭へ目を向ける。
梅の木の枝が、夜風に揺れていた。
花はない。
けれど、春になれば咲くはずだった。
来年も。
その次の年も。
そう思おうとして、清二は目を閉じた。
それから、何も考えないようにした。
ただ静かな夜だけが、二人に纏わりついていた。
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