第4話 印
水の中の女の指が、まぶたの裏から消えなかった。
村にはいないはずの女が、俺にだけ口元へ指を当てた。しずかに、と。化け物なら、なぜ掟を教えるような真似をする。きれいなものほど信じるな、と環は言った。それでも、あの白い顔を悪いものだと決めきれなかった。
環に、もっと訊きたかった。けれど環は、その女のことになると口をつぐんでしまう。「まだ言えん。……順番があるんよ」と。また、順番だった。
その代わりに、環は俺を淵守神社へ連れていった。
黒ずんだ木の
環は社務所の板の間に俺を座らせ、
「湊くん。口、開けてみて。上、向いて。舌の裏を見せて」
言われるまま、舌をそっと持ち上げる。喉の奥まで蝋燭の火が届くのがわかった。覗きこんだ環の顔が、こわばる。息をのみ、そっと目を伏せた。
「……ある、ね」
「何が」
「
俺は反射的に、板の間の隅の、布のかかった鏡を探した。自分の目で確かめたかった。だが環が俺の腕を強く掴んだ。
「見んの。鏡は駄目。……忘れたん? 映るもんはみんな駄目じゃ」
仕方なく、自分の指で舌の裏をなぞる。たしかに、ざらりと、しこりのような硬さがあった。昨日まで、そんなものはなかったはずだ。
「これは何だ。この痣があると、どうなる」
環はすぐには答えなかった。蝋燭の火が、その横顔をゆらゆらと揺らしている。迷って、それから覚悟を決めたように口を開いた。
「印のついた者は、あれに狙われる。夜ごと近づいてくる。……何日かかけて、じっくり、な」
「何日かかけて。……それで?」
「それで、最後に水へ引かれる。舌を、置いて」
淡々とした言い方が、かえって怖かった。「消せんのか、その印は」と訊くと、環はまた首を横に振った。「消せたら、……誰も死んどらん」
「あと、どれくらいなんだ。……この印が、育ちきるまで」
環は俺の顔を、痛ましそうに見た。「印は、夜ごと黒うなる。真っ黒に染まりきったら、その晩が最後じゃ。……長うて、七晩。凪ちゃんのときも、そうじゃった」
七晩。指を折って数えかけて、やめた。数えたところで、逃げ場はない。ただ、夜が来るたび、俺の舌の裏で黒が広がっていく。それだけは、確かなことだった。
環は懐から、白い紙に包まれた小さなものを取り出し、俺の手に握らせた。開くと、古びた木の札だ。表面に、読めない古い文字が彫ってある。
「これを肌身離さず持っときん。あれの気配を、少しだけそらしてくれる。……気休めじゃけどね」
気休め、と環は言った。この村で俺を守るものは、割れかけた鈴と、気休めの札と、それだけらしい。
「昔はもっと、ちゃんとした守りがあったんよ」と環は続けた。「社の力も、今よりずっと強かった。……けど、代を重ねるうちに細っていった。祝詞を正しゅう唱えられる者も、もう、わたしくらいしかおらん」
細っていく守りと、少しも衰えない怪異。その差がいつか埋まる日が来る。環の声には、その日を数えるような、静かな諦めがあった。
「なんで、俺なんだ」
思わず声が高くなる。環がさっと人差し指を立てた。しずかに、と。俺は慌てて声を落とした。
「なんで俺に印なんか。昨日までなかったのに」
「湊くんが、槙野の血じゃけえ」
環の目が、まっすぐ俺を見た。
「凪ちゃんと同じ。……槙野の家は、昔からそういう
筋。その言葉が、やけに重く響いた。凪も槙野の血だった。だから狙われた。俺と同じ血だから。なら凪の死は、偶然の事故なんかじゃない。そう言われている気がした。
俺は舌の裏を、舌先でそっと押した。ざらりとした異物の感触。これが育ちきったら、俺は勇のように、凪のように、水に引かれて、舌だけを残す。
「なあ、環。凪も、この痣があったのか。俺と同じ、ここに」
環はうつむいた。膝の上で握った手が、白くなっている。
「……あった。凪ちゃんも、ここに来た。湊くんと同じように、そこに座って、舌の裏を見せて」
声が震えていた。「わたしは、何もできんかった。凪ちゃんにも、何も」
俺は言葉を失った。環は知っていたのだ。凪が狙われていることを。印が育っていくことを。そして、それを止められないことを。ずっとそばで、見ていた。
「凪は、最後に何か言ってなかったか」
環はしばらく迷い、小さく言った。
「……『にいちゃんには言わんといて』って。それだけ。何度も、何度も」
俺は天井を仰いだ。そうしないと、こぼれそうだった。だがこの村では、泣いて口を開けることさえ許されない。奥歯を噛み、喉の奥へ熱いものを押し戻す。あの子は最後まで、俺を巻きこむまいとしていた。俺だけを、この村の外に置いておこうとしていた。その優しさが、今はただ、苦しかった。
東京にいた頃、一度だけ、凪から夜中に電話がかかってきたことがある。村へ帰ってしばらく経った頃だ。もしもし、と出ても、あの子はしばらく何も言わなかった。かすかな息づかいと、遠くで水の流れる音だけが聞こえた。
「凪? どうした」
訊くと、あの子は少し笑って、「ううん。声が聞きたかっただけ」と言った。それから、「にいちゃん。もし、わたしが変なこと言うても、笑わんで聞いてくれる?」と。
俺はレポートの締め切りに追われていた。「なんだよ、改まって。眠いんだけど」と軽く流した。凪は、「……なんでもない。おやすみ」と言って、電話を切った。
あれが、あの子が俺に打ち明けようとした、最後の機会だったのだ。俺はそれを、眠気で潰した。その悔いが、今も胸の底で冷たく疼いている。
帰り道は、もう日が暮れかけていた。川沿いの道を、俺は下を向いて歩いた。いつのまにか、村の人間と同じ歩き方になっている。顔を上げれば、どこかの水面に、あの黄色い眼が、あの白い女が映るかもしれない。そう思うと、上げられなかった。
正一さんの家に着き、洗面所で手を洗う。布のかかった鏡に手が伸びかけて、やめた。代わりに、洗面器に水を張った。鏡は駄目でも、これくらいは、と。どうしてもあの痣が育っていないか、自分の目で確かめずにいられなかった。
浅い水に、俺の口が映る。舌を持ち上げると、その裏の黒っぽい染みは、朝より少しだけ大きく見えた。気のせいだと思おうとした。だが、水面に映った俺の口の、そのすぐ後ろで――畳の濡れる音が、ぴちゃ、と一つした。
俺は水面から目を上げなかった。上げれば、そこにあれが映っている気がして。息を殺したまま、水の中の自分の口元だけを見つめていた。背後の畳を、じわりと水が這っていくのが、皮膚でわかる。振り向けば終わりだと、体のほうが先に知っていた。俺は動かなかった。動けなかった。
カウントダウンは、もう始まっている。あの痣が育ちきるその日まで、俺にはあと何日、残されているのだろう。逃げて夜をやり過ごすだけでは、いつか必ず追いつかれる。凪と同じ道を。ならば知るしかない。あの子が何を調べ、この村が何を隠しているのか。明日、凪の部屋をあらためよう。あいつが残した手がかりを、今度は俺がたどるのだ。眠れぬまま、俺は暗い天井を睨んでいた。あと何日。数えても答えの出ない問いだけが、胸の底でゆっくりと膨らんでいった。
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