第20話 地図から消えなかった町
一年後。
ハルムへ続く街道には、まだ工事が入っていなかった。
石畳の割れた場所も。
雨で削れた路肩も。
十五年前と同じところがある。
それでも。
道はあった。
荷車が通る。
人が歩く。
郵便配達人も。
「遅い!」
峠の下から声が飛んできた。
エリアスは足を止めた。
見下ろす。
茶色い髪。
革鞄。
去年より少しだけ大きく見える。
「時間どおりだ」
「三日前に来るって言った!」
「三日前に王都を出ると言った」
「同じでしょ」
「違う」
「相変わらず!」
ミラが坂を上ってくる。
エリアスは待った。
急ぐ理由はなかった。
*
「で」
ミラはエリアスの胸元を見る。
「ほんとに辞めたんだ」
「ああ」
王立測量院の徽章はない。
代わりに。
革鞄の横へ、小さな真鍮札が下がっている。
《測量師 エリアス・ヴァーン》
王立ではない。
階級もない。
二等でも。
一等でも。
ない。
「首?」
「自主退職」
「ほんと?」
「本当だ」
「ガイゼル院長に追い出されたんじゃなくて?」
「違う」
「じゃあ喧嘩して辞めた?」
「それも違う」
ミラが不満そうな顔をした。
「面白くない」
「何を期待してる」
「机ひっくり返すとか」
「しない」
「知ってる」
エリアスは歩き出した。
ミラも並ぶ。
*
ガイゼル・ローデンは。
半年前。
王立測量院長を辞任した。
公式には。
《正図改訂に関する一連の行政処理について、監督責任を取るため》
それだけだった。
罪に問われたのか。
問われなかったのか。
エリアスは知らない。
調べなかった。
銀が王国を支えていたことも。
過去の鉱区拡張が、誰の命令で、どこまで行われたのかも。
今も調査が続いている。
ヴァイス。
グレン。
トール。
ベッケ。
ラン。
フロウ。
エッダ。
リーデン。
失われた村が。
地図へ戻るかどうかは分からない。
人も。
家も。
十五年前へは戻らない。
戻せないものがある。
それでも。
記録だけは掘り起こされ始めた。
原測図。
郵便。
人口台帳。
退去命令。
鉱区境界。
消した線。
消した名前。
誰が。
いつ。
何をしたのか。
今度は。
書かれている。
*
「鉱山は?」
エリアスが聞いた。
「止まってる」
ミラが答える。
「旧鉱山の再調査だけ」
「王室直轄鉱区は」
「保留」
「いつまで」
「知らない」
「そうか」
「なんでちょっと嬉しそうなの」
「知らないことを知らないと言うのは正しい」
「めんどくさい」
ミラが笑う。
「でも」
少し先を歩いて。
振り返った。
「町は残った」
エリアスは答えなかった。
まだ。
その言い方には慎重だった。
鉱区計画は消えていない。
行政再編もあり得る。
十年後。
二十年後。
何が起こるか分からない。
それでも。
「今はな」
言った。
ミラが顔をしかめる。
「それ嫌い」
「知っている」
*
峠の手前に。
小さな祠があった。
エリアスは足を止めた。
軒下に。
花。
赤。
白。
黄色。
新しい。
一年前。
最初にハルムへ来たとき。
ここで帳面を開いた。
そして閉じた。
花まで記録する必要はない。
そう思った。
今も。
エリアスは帳面を出さなかった。
「書かないの?」
ミラが聞いた。
「書かない」
「前も書かなかったんでしょ」
「ああ」
「じゃあ同じじゃん」
「違う」
「何が」
エリアスは花を見る。
「書かなくても」
少し考えた。
「あると知っている」
ミラはしばらく黙った。
「それ、ちょっとは成長した?」
「知らない」
「自分のことなのに」
「測れないからな」
ミラが笑った。
*
峠を越える。
谷が見えた。
川。
橋。
家。
煙。
畑。
水車。
鐘。
一年前と。
同じ景色。
違うところもある。
橋の一つが新しくなっている。
学校の屋根も。
北側に家が三軒増えた。
エリアスは数えた。
「また数えてる」
「三軒」
「聞いてない」
「増えている」
「そうだよ」
ミラが自慢するように言った。
「人口も増えた」
「何人」
「三千百四十一」
エリアスが足を止める。
「十四人増えた?」
「出生が十九。死亡が七。転入が六。転出が四」
エリアスはミラを見る。
「覚えてるのか」
「郵便配達人だからね」
「関係あるか?」
「人の名前覚える仕事だから」
エリアスは少し笑った。
*
町役場。
オルドは相変わらず同じ机に座っていた。
「お久しぶりです」
「一年ですね」
「民間測量師になったそうで」
「はい」
「仕事は」
「あります」
「儲かります?」
「王立測量院よりは不安定です」
「聞き方が悪かったですね」
「そうですね」
オルドが笑った。
机の上に。
大きな筒が置いてある。
「今朝届きました」
「何が」
「あなたが来る日に」
ミラが横から言う。
「私が運んだ」
「見れば分かる」
「またそれ」
オルドが筒を持ち上げた。
王国印。
《王国正図 第六版》
エリアスは動かなかった。
「開けますか」
オルドが聞いた。
「町長が」
「あなたが見たほうがいいでしょう」
「なぜ」
「あなたが描いたんですから」
「最終版を描いたわけではありません」
「そういうところですよ」
オルドまで。
ミラと同じ顔をした。
*
広場の長机を借りた。
筒の封を切る。
紙を出す。
厚い。
新しいインクの匂い。
三人で広げる。
王国。
山脈。
河川。
街道。
都市。
村。
無数の線。
無数の名前。
「どこ」
ミラが聞く。
「待て」
エリアスは北部を探す。
リュート山脈。
川。
街道。
指を進める。
一年前。
途中で切れていた線。
今は。
続いている。
細い線。
山へ。
谷へ。
その先。
小さな丸印。
エリアスの指が止まった。
《ハルム》
あった。
五文字。
小さい。
王都の印と比べれば。
点に近い。
ミラが顔を近づけた。
「これ?」
「ああ」
「ちっちゃ」
エリアスはミラを見る。
「何だ」
「町って、こんなに小さいの?」
エリアスは地図を見る。
ハルム。
三千百四十一人。
六百を超える家。
十九の井戸。
七つの橋。
二つの学校。
三つの墓地。
市場。
役場。
教会。
粉屋横丁。
百年の樫。
冬の朝に凍る橋。
パンの匂い。
洗濯物。
鐘。
郵便配達人。
地図には。
小さな丸。
それだけ。
「地図ではな」
エリアスは答えた。
*
鐘が鳴った。
ミラが顔を上げる。
「あ」
「何だ」
「仕事」
地図から離れる。
郵便鞄を担ぐ。
「今日も出すのか」
「当たり前でしょ」
「戻されない?」
ミラが笑う。
「もう戻らない」
そして。
少しだけ胸を張った。
「ちゃんとハルムから届く」
エリアスは頷いた。
「そうか」
「それだけ?」
「何が」
「もっと喜べば?」
「喜んでいる」
「全然見えない」
「そうか」
「そう」
ミラは広場を走っていった。
途中。
振り返る。
「エリアス!」
「何だ」
「今度はいつ来る?」
エリアスは考える。
「必要なら」
ミラの顔が固まった。
「あ」
エリアスは言い直した。
「また来る」
ミラが笑う。
「よろしい」
走っていった。
*
オルドも役場へ戻った。
エリアスだけが。
地図の前に残った。
新しい王国正図。
ハルム。
線はある。
名前もある。
それでも。
地図は完全ではない。
完全になることも。
たぶんない。
描けないものがある。
描かなくていいものもある。
ただ。
描かないことと。
なかったことにすることは。
違う。
エリアスは地図を畳んだ。
慎重に。
折り目を合わせる。
筒へ戻す。
広場の向こう。
ミラが歩いている。
一軒。
次の家。
その次。
名前を覚え。
手紙を運ぶ。
川が流れている。
橋を人が渡る。
学校から子どもの声がする。
パン屋から煙が上がる。
鐘が鳴る。
エリアスは鞄を肩へ掛けた。
歩き出す。
地図より世界のほうが、いつだって大きい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます