第13話 麻の行き先

 雨から数日が経った。


 倒れた芽の一部は持ち直した。根がまだ生きていたものは、土を固め直すと翌日には顔を上げた。駄目だったものは戻らなかった。その場所だけ、列に穴が空いている。


 ノアは毎朝、区画を見る前に土の高さを確かめるようになっていた。低い場所はないか。水が溜まりそうな窪みはないか。雨の前日に空を見て、風向きを確かめるようになっていた。


 まだうまくできない。でも昨日より見ている。


 その朝は、ドノヴァンとの稽古だった。


 木剣を構えると、ドノヴァンが軽く肩を回した。ガレスほど気配を消さない。むしろ隙を見せるように、半身に構えを開いていた。


「来い」


 ノアは踏み込んだ。一手目。木剣が届く直前、ドノヴァンの体がわずかに沈んだ。膝が緩む動き。それを見た瞬間、次に来るのは下から、と体が先に判断していた。案の定、下からすくうような一撃が来る。ノアは半歩下がって躱した。木剣がすれ違う。


「よし、今のは見えてたな」


 褒め言葉を最後まで聞かず、二手目が来た。今度は肩が動いた。ガレスに教わったのと同じ合図だ。踏み込みながら弾こうとした瞬間、ドノヴァンの手首がふっと返って、軌道が変わった。木剣が横から叩かれ、腕が痺れる。


 三手目。もう何が来るかわからなかった。ただ、ドノヴァンの目線がわずかに下がったのだけは見えた。目で追う前に足が動いて、体を斜めにひねった。木剣の先が肩をかすめる。当たっていたら終わっていた重さだった。


 四手目で、完全に読み切られた。木剣が根元から弾かれ、地面に転がる。


「前より見えてるな」


 ドノヴァンが木剣を下げながら言った。


「勝ててないけど」


「見えてから勝てるようになる。見えないうちは勝てん」


 第三話でガレスに言われたことと同じだった。見る。見えてくる。それから先がある。剣でも畑でも、順番は変わらなかった。


「なんか皆して同じこと言うよな、この村」


「良いことは何度言っても良いことだ」


「父さんの受け売りだろ、それ」


 ドノヴァンが帰っていく背中を見ながら、ノアは木剣を片付けた。


 朝食を終えて外へ出ると、村が少し慌ただしかった。


 街道沿いに荷車が集まっている。麻袋が積まれていた。村人が行き来して、荷の数を確認していた。ガレスも荷車の前にいた。


「何かあるのか」


「出荷だ」


 村の麻をまとめてフェルドへ運ぶ日だった。各農家が持ち寄った麻袋が、荷車の上に山になっていた。


「来るか」


 ガレスが振り返りもせずに言った。


「行く」


 即答だった。


 荷車は三台連なって村を出た。


 御者はガレスと、他の農家の男が二人。ノアは荷台の端に腰かけて、流れる景色を見た。フェルドへ向かう道は二回目だったが、荷台から見ると高さが違う。畑の向こうまで見渡せた。


 隣の村の畑も、麻が育っていた。色と高さが、うちの畑と少し違う。品種が違うのか、育て方が違うのか。ノアは見ながら考えた。


「あっちの麻、なんかうちより色薄くない?」


「品種が違う。うちより早く育つ分、繊維が細い」


「詳しいな……ってか父さん、他の村の麻まで把握してるの?」


「農家なら見ればわかる」


「見ればわかるって言葉、この一年で何回聞いたか数えたいくらいなんだけど」


 丘を越えると城壁が見えた。今回は驚かなかった。でも大きいとは思った。何度見ても大きかった。


 フェルドに入って、最初に向かったのは市場ではなかった。


 城門から少し離れた場所にある、大きな倉庫だった。壁が厚くて、扉が広い。荷車が横付けできるように、入口の前が広く開いていた。


 中に入ると、麻袋が山積みになっていた。


 うちの荷車に積まれていた量の、何十倍もあった。天井近くまで積み上げられた袋が、倉庫の奥まで続いていた。


「こんなにあるのか」


「フラックス村だけじゃない。周辺の村が全部ここに集める」


 男たちが荷を降ろし始めた。ノアも手伝った。麻袋は重い。一袋ずつ担いで、指定された場所に積む。十袋、二十袋と積み上げていく。


 それでも倉庫全体の量からすれば、うちの分はほんの一角だった。


「一軒では売れんだろ」


「だから集める」とガレスは言った。「一軒分では商会も動かない。村全体で集めて初めて商品になる」


 荷降ろしが終わった頃、見知った顔が来た。


 フォルドだった。革の前掛けをして、帳簿を持っている。前回フェルドに来たとき、ダンジョン近くの査定所で見た男だった。


 フォルドは積まれた麻袋の前に立った。一袋取り出して、口を開けた。手を入れて、麻の束を引き出した。


 触った。引っ張った。繊維を光に当てて見た。別の袋を開けた。また触った。繊維の方向を確かめた。色を見た。


 ノアは隣で見ていた。


 (また見てる)


 父と同じ目だった。査定所でモンスター素材を見るときと同じ目だった。何も言わず、ただ見ている。手が素材の情報を読んでいるような動きだった。


「今年は少し水を吸いすぎてるな」


 フォルドが帳簿に何か書きながら言った。


「わかるのか」とノアは聞いた。


「繊維が緩い。水を含みすぎると繊維が膨らんで、乾いても戻りきらない。今年は春に雨が多かったからな」


 一目でわかった。触って、引っ張って、それだけで今年の天気まで読んだ。


「全部の袋でわかるのか」


「慣れればな」


 荷の確認が終わったあと、フォルドが少し話してくれた。


「この麻は何になると思う」


「ロープか、袋か」


「それだけじゃない。布になる。防具の下地になる。傷の手当てに使う布になる」


「防具に?」


「革鎧の内側に麻の布を張ることが多い。直接革だと擦れる。麻があると緩衝になる」


 ノアは積み上がった麻袋を見た。これが全部、どこかへ流れていく。


「探索者も使うのか」


「当たり前だ」とフォルドは言った。「ダンジョンに持ち込まれるものの半分は誰かが作ったものだ」


「武器も?」


「武器も。ロープも。袋も。包帯も。水袋も。探索者が持ち込むものは、全部誰かが作っている」


 ノアは黙った。


 ダンジョンの入口の前で、探索者たちが荷を確認していた場面を思い出した。ロープを引っ張っていた男。水袋を腰に下げていた女。あの全部が、誰かの畑から来て、誰かの工房を通って、探索者の手に渡っていた。


 帰る前に、探索者ギルドの近くを通った。


 荷降ろしをしている男たちがいた。荷車から袋を降ろして、ギルドの隣の倉庫へ運んでいた。


 麻袋だった。


 ロープの束もあった。荷降ろしが終わった荷車の荷台に、麻布の切れ端が残っていた。


 さっき倉庫で見た麻だった。フォルドが触って、繊維を確かめた麻が、もう動いていた。


 ノアは立ち止まった。


 倉庫の麻袋が見えた。フェルドの工房が見えた。探索者ギルドの入口が見えた。あの入口の向こうにダンジョンがある。ダンジョンへ持ち込まれる荷物が、今目の前にある。


 (繋がってる)


 フラックス村の畑から、ここまで繋がっていた。


「なあ父さん、俺たちの麻、明日にはもうダンジョンの中かもしれないってこと?」


「早ければな」


「すごくない? 俺、間接的にもうダンジョン入ってることになるじゃん」


「間接的にも入ってないな、お前は」


「夢見させてよ!」


 帰りの荷車は空だった。


 来るときより軽い。街道を夕陽の中で進んでいた。


 ノアはしばらく黙って景色を見ていた。


「探索者だけじゃ駄目なんだな」


 荷台から前を向いたまま言った。


「探索者だけでは続かん」


 ガレスが答えた。少し間があった。


「農家だけでも続かん」


 どちらが上でもない。どちらが下でもない。探索者が素材を取ってくる。商人が動かす。職人が加工する。農家が麻を育てる。全部が同じ場所に向かっていた。


 ノアはそのことを、今日初めて言葉ではなく目で見た気がした。


 村へ戻ると、ノアは荷車から降りてすぐ畑へ向かった。


 自分の区画に来た。


 夕暮れの光の中で、麻の芽が並んでいた。豆の葉が風に揺れていた。雨で倒れた場所に穴が空いていた。それ以外は揃っていた。


 まだ小さかった。フォルドが査定していた麻袋の麻には、まだほど遠い。


 でも今日見たロープを思い出した。荷車で運ばれていた麻袋を思い出した。探索者ギルドの前で降ろされていた荷を思い出した。


 (ここから始まるのか)


 第九話で、市場と畑が繋がった気がした。今日は畑とダンジョンが繋がった。あの入口の向こうへ持ち込まれるものが、この土から始まっていた。


 ノアはしゃがんだ。


 麻の葉を一枚、指先で触った。柔らかかった。まだ若い葉だった。


 探索者になりたいという気持ちは変わらなかった。むしろ今日見たものが全部混ざって、昨日より強くなっていた。


 ただ今は、ダンジョンの入口まで続く道が、この畑から始まっている気がした。


 風が通った。麻の葉が揺れた。


 ノアはしばらく、しゃがんだまま畑を見ていた。

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