宿願への路 後編

雨の音、湿った泥の跳ねる音。

 

 汗が額からポタリと滴り落ちて、ぬかるんだ冷たい地面に染み込んだ。

 

 身体はすでに限界を迎えていて、呼吸は荒く乱れている、なんて生ぬるいものじゃない。

 

 ————も……う、むり、だって!

 

​ ————いま、何周!?

 

​ ————わかん、ねぇ……よ!

 

​ 叩きつけられる悲鳴のような声は絶え絶えで、降りしきる冷たい雨粒が容赦なく体温を奪っていく。

 

 頭の中では「もう限界だ、こんなことできる訳がない」と悲痛に叫んでいるのに、現実の自分の足は止まってくれない。

 

​ これは、夢だ。

 

 ぼやけた視界。耳に届く同胞だった彼らの声は曇っていて、直接その場に届いている会話ではないと確信する。

 

​ 再生

 再現

 再上映

 

​ どの意味合いでも構わない。

 ただ、これは遠い日に過ぎ去った過去の風景なのだと理解する。

 

​ 泥を被って必死に走っていた。

 汗を流して地面を転がっていた。

 激痛に胸を押さえて泣いていた。

 

​ そんな惨めな自身の姿を、俺はどこか漠然とした他人事のような思いで見つめていた。

 

​「先輩はいいですよね」

 

​ 背後から静かな声がして、思わず振り返る。

 

 《銀狼の館》302号室の左側のベッドを使っていた人物だ。

 

​ ————二ヶ月前までは。

 

「………………」

 

 ​後味が悪い夢だと思う。


 夢だと自覚しているのに、どうしても意識が浮上しない。今は演習の最中で、早く起きないといけないはずなのに。

 

​「実力が認められて正騎士になれた」

 

​「……まだ、宿願には程遠い」

 

​ 夢だと分かっているのに、声が自然と返答してしまう。


 何処までいっても過ぎ去った夢でしかないのだから、言葉を交わすこと自体が無意味だというのに。

 

 ​それでも。

 

 ​返す言葉は留まることなく自然と口から溢れ出る。


 視界の中で輪郭がはっきりとしない彼は、どこか呆れたように静かに笑っているような気がする。

 

​「先輩には分からないんですよ」

 

​「何が」

 

 ​その拒絶の言葉と共に、彼の姿は霞のように消え失せた。

 

 代わりに耳の傍に——


 いや

 

 ​直接頭の中、脳内に深く響くような冷ややかな声色で。

 

​「本当に追い詰められた人間の気持ちが」

 

​————ああ、やはりこれは夢なのだ。

 

 ​彼は誰よりも優しい子だった。

 素直で、努力家で、いつも自分より人の為に行動できる子だった。

 

 だから、この言葉は彼が発した言葉じゃなかった筈なのだ。

 

​◇ ◇ ◇

 

​————巨龍……が……る

 

 ​薄暗い部屋に僅かに差し込む朝の陽の光が、重い瞼を静かに照らす。

 

 まだ悪夢の続きだろうか? 俺はまだ過ぎ去った日々を無意識に追いかけているのかもしれない。

 

​————お前……の滅びが……る

 

 ​だけど、途切れ途切れに聞こえてくるその不快な声は、どこか調子外れな歌声のようだった。

 

「巨龍」や「滅び」といった物騒で不穏なキーワードも、俺の記憶の中にある過去の情報とは大きくかけ離れている。

 

​「……な、なに——」

 

​「(※特別和訳) 遅刻だ♪ 遅刻だ♪ 巨龍がやって来る♪ お前たちの滅びがやって来る♪ 早く起きなきゃ全滅だ♪ ここは地獄だ! 神は居ない〜♪」

 

​「!??! おい! お前ら起きろ!!」

 

「……Zzz・・・・」

 

​「このデブ鳥! 脳内で直接歌うな! 焼き鳥にするぞ!!」

 

 ​突如として室内で慌ただしく激しい騒音が聞こえ出す。

 

 新人騎士たちが雑魚寝している大部屋は、お世辞にもそこまで広くはない。

 

 そんな手狭な部屋で日の出直後の時間帯に大音量で騒ぎ立てられれば、誰だって跳ね起きるだろう。

 

​「…………なんだよ、煩いな……頭痛ぇ……」

 

 ​隣では頭を押さえたレンが、重い体を起こしてゆっくりと起き上がっていた。

 

 同じように体を起こす間も、脳内にはすこぶる腹立たしいと思えるような、明確な煽りさえ感じる悪辣な歌声が響き続けている。

 

​「(※特別和訳) 吐き気だ♪ 吐き気だ♪ 美味しい料理も流れてく♪ お前の腹から流れてく♪ 巨龍がやって来る♪ お前たちの滅びがやって来る♪ 早く食べなきゃ倍増だ♪ 訓練メニュー倍増だ♪ ここは地獄だ♪ 神は居ない〜♪」

 

​「がぁぁぁ!!! これから朝飯だってのに最悪だ!!」

 

​「この煽り魔! なんでここにいるんだよ!!」

 

​「……知らないのか……奴のモーニングコール(合宿スペシャルバージョン)だ……早く起きないと本当に訓練倍増だぞ……!」

 

 ​ふくよかな体型をした白いふわふわの小鳥が、大部屋の中央で勢い良く羽をバタつかせている。

 

​——去年も確か、同じような歌声が聞こえたっけ……。

 

 ​そんな呆れた思考を抱く間にも、周囲の正騎士や見習いたちは早々に支度を済ませて部屋を跳び出していく。

 

 このままぼんやりしていては、一瞬で置いてけぼりを食らってしまう。

 

 過去の夢について思うことは多々あるが、今はとにかく起きて意識を切り替えなければいけない!!

 

​「レン! 目を覚ませ! 早く俺たちも行くぞ!!」

 

​「お前……寝起きなのに……元気だな……」

 

​「いいから! 早くしろ!! 二番に入る前に!!」

 

 ​枕の傍に畳んで準備していた訓練着をレンに向かって投げつけながら、自身も素早く袖を通す。

 

​——嶺頂総合適性評価演習の二日目の幕は、いつものように慌ただしく。

 

​——いつものように、理不尽で快活な空気に満ちあふれている。

 

◇ ◇ ◇

 

 ​卓上に並べられた質素な深皿から、静かに白い湯気が上がっている。

 

 先程まで騒ぎ立てていた騎士たちは、その器の中身を目にした瞬間、一斉に黙りこくってしまった。

 

​「……え? 美味しい食事は? 流れた?!」

 

​「これ……ただの麦粥か……?」

 

​「おいおい……勘弁してくれよ! これだと今日一日動けねぇよ!!」

 

​ 所々から漏れ出す朝食に対するあからさまな不満の声には聞こえないフリをして、俺は木のスプーンを手に取った。

 

​「……なぁ、ラバック。これが……朝飯なのか?」

 

​「そうだよ?」

 

​「……ただの麦粥だよな」

 

​「うん」

 

​ レンは不思議そうに、器の中の麦粥を凝視している。まさか人生で麦粥を見るのが初めて、という訳でもないだろうに。

 

 本来、麦粥といえばオーツ麦や大麦を水やミルクでじっくり煮込んだものが一般的。

 

 塩や乾燥ハーブ、干し肉の旨味、あるいはほんの少しの蜜や果物を落として美味しく食べられるものだ。

 

​ しかし、今のこの場にそんな贅沢品が存在するはずもない。

 

 口の中に広がるのは、ただの温かい白湯の風味。


 辛うじて麦の素朴な味が残っているくらいで、ハーブは当然のこと、塩味すら一切感じられない。

 

​ 三年前、初めてこの麦粥を食べた時は衝撃を受けたものだ。

 

 旨さ故ではない。

 

 不味いというラインは越えていないのだが、かといって旨いというスタートラインにも全く立っていないかのような——

 

​ ともかく「食べられないほどではないが、自ら好んで食べたくもない味」という表現が一番正しいだろうか。

 

​「……ラバック、お前よく普通に食えるよな」

 

​「空腹のままだとまともに動けないだろ?」

 

​ レンは味の薄い麦粥をどうにか飲み込むと、頷きながら言葉を続けた。

 彼の紅い瞳からは、隠しきれない疑問符が伺える。

 

​ ————そうだよな、最初は俺もそうだったよ……

 

​ どこか感慨深い気持ちを覚えながらも、俺はレンと同じように薄い麦の味がするだけの白湯を腹に飲み込んだ。

 

​「これはさ、団長の優しさなんだ」

 

​「これが優しさ? どう考えても財務省の予算カット案件だろ……あいつら陰湿だし」

 

​「そんなこと言ってはいけません。たとえ、壊れた木剣を備蓄用の薪にしようと、潰れた鎧を機械人形(オートマタ)の材料にしようと……彼らは毎日胃薬を片手に頑張ってるじゃないか」

 

​「木剣も鎧も『壊した』『潰した』の間違いだけどな……お前ら馬鹿力過ぎるんだよ」

 

​ 数日前の悲惨な出来事を静かに語るレンに、俺は何も言い返せなかった。

 

 そもそも壊したのは俺だけじゃない!

 

​ ジッピーが「二刀流!!ハァッ!!」とかいきなり叫びだして無茶苦茶に振り回して壊したのが全ての始まりだ。

 

 結果として木剣と鎧は、各々跡形もなく木っ端微塵になってしまったのだが。

 

​ レンからの情けなさの塊のような視線を突き刺された俺は、残りの麦粥を一気に腹に片付ける。

 

​「……ともかく、朝食はこれくらいでいいんだ。どうせ後で全部流れるんだから」

 

​「さっきのデブ鳥も言ってたな、なんで流れるんだよ?」

 

​ レンの言うデブ鳥とは、魔術師管理局 局長ルーシャ様の使い魔の《シエガ》のことだろう。

 

 演習期間中、毎朝あの悪辣な歌で最悪な起床体験を提供されるのだ。

 

​「嫌でもこの後分かるさ……俺たちの腹の中には何も残らないんだから……団長は優しいよな。せめて吐いた時の苦しみを和らげようとしてくれてるんだ」

 

​「優しさとは」

  

​ 俺の言葉の真意とこれから訪れる地獄を悟ったであろうレンは、それ以上は何も言わず、ただ黙って味のしない麦粥を胃の中へ放り込む。

 

​ ——それも、すぐに全て吐き出されて流れることになるのだろうけど。

 

◇ ◇ ◇

 

《ベルモデス山》の山腹に広々と整地された広大な訓練場が、この二日目の舞台だ。

 

 付近には、見上げるほど巨大な馬小屋が聳(そび)え立っている。その中には、大小様々な種類の馬たちがずらりと整列していた。

 

​ ——明らかに一頭だけ、馬じゃないナニカが紛れ込んでいるなぁ…………。

 

​ 視界の端に映るのは、見た目こそ馬の形をしたナニカ。

 

 毛並みはまるで精密に手入れされているかのようにあまりに美しく、しなやかな筋肉は目に見えてしっかりついている。

 

 ​一見すれば芸術品と表現しても過言ではない完成度だろう。


 だが、その完璧さこそが逆に不自然さを強烈に強調している。

 

 戦場を駆ける騎馬にしては、綺(・)麗(・)過(・)ぎ(・)る(・)のだ。

 

​「よし。全員集まったな!」

 

​ 俺の観察と思考を中断させたのは、騎馬隊 第一部隊隊長——ディルック・アルベルト。

 

 赤みがかった茶髪をなびかせる隊長は、案の定馬小屋を指差した。


 相棒となる馬を選ぶところから演習を始めるのは、例年通りの流れのようだ。

 

​「これより騎乗訓練を始める! 馬の扱い方を学ぶ訳だが、お前たちには今日一日の相棒を各自で決めて貰う!」

 

​ ——ヒヒーン!!

 

​ ディルック隊長の腹の底からの声に応えるように、小屋の数頭の馬たちが激しく嘶(いなな)く。

 

 隣に立つレンはといえば、この訓練の流れと意図をすでに察しているのか、その顔に困惑や疑問の色は見えない。

 

​「説明は以上だ! 質問がある者は?」

 

​ 声は誰からも上がらなかった。


 不安そうな面持ちで巨大な馬小屋を見つめる見習いたちの姿が視界に映る。

 

 その見習いの中にいた一人の人物と——

 

 ​まっすぐに、視線が目が合ってしまった。

 

 ​ほんの一瞬の交錯は、すぐに終わりを告げた。


 カルロスは不機嫌そうに鼻を鳴らすと、こちらをはたき落とすように視線を外した。

 

 随分と嫌われたものだ。当時はここまで関係が悪化していなかったように思うのだが。

 

​「無いようなので始める。馬を選べ!!」

 

 ​その力強い号令が山腹に響き渡ると同時に、周囲の騎士たちは一斉に動き出した。

 

「我先に!」と馬小屋へ駆け出していく者もいれば、余裕綽々といった雰囲気で静かに歩みを進める者もいる。

 

​「レン、馬の扱いはどの程度ある?」

 

 ​元傭兵というのだから、まったくの未経験という訳ではないだろうが……

 

 ​返ってきた言葉は、概ね予想通りの意味を持っていた。

 

​「まぁ、そこそこ。少なくともハズレくらいは見分けられるぞ。……あの馬モドキとかな」

 

 ​レンが静かに視線で指し示したのは、俺がつい先程「綺麗すぎる」と違和感を抱いた馬——のようなナニカだ。

 

 ​この様子なら、彼に関しては何の問題もないだろう。

 

 そう判断した俺は「なら大丈夫だね」と口にし、一番近くに佇むしなやかな筋肉を持つ良質な馬にそっと手を伸ばそうとし——

 

​「……どけよ、そいつは俺が貰う」

 

 ​手は届かない。

 

 カルロスが俺より素早く先に割り込み、馬の手綱を強引に引き寄せていたからだ。

 

 彼は不機嫌を通り越した、苦々しい表情で吐き捨てるように宣言した。

 

​「……おい、馬くらい自分で見繕ったらどうなんだ」

 

​「いいよ、レン。——……行こう、馬ならまだ残ってる」

 

 ​最近のレンは周囲の様子をよく見ていると思う。

 

 今の言葉も、きっと俺の為を思って言ってくれたに違いない……多分。

 

 ​無用な事を荒立てるつもりがない俺は未だに納得のいかない不満気な様子のレンの腕を引っ張ると、馬たちが密集する奥の地帯へと静かに足を進めた。

 

 ​後ろは振り返らなかった。


「言うことを聞け! ほら! 動いてくれよ!!」

 

​「こうなったら力ずくで……!!」

 

​「おま、ちょ! 止め——」

 

​ ヒヒーン!! ブルルルッ!!

 

​「ぐぁわぁ!!」

 

​「言わんこっちゃない!!」

 

​ 俺とレンは気性が大人しく、手頃でほどよい筋肉がついた扱いやすい馬を選んだ。

 

 ゆっくりと手綱を引き始めた頃、少し離れた場所からは絶叫と悲鳴が聞こえてくる。

 

 ある者は馬に完全に舐めた態度を取られて無視されている。

 

 ある者は無理やり力で従わせようとして後ろ足で綺麗に十メートルほど吹っ飛ばされていた……可哀想に。


 またある者は、特別我が強い馬にゴツい唇で威嚇される始末である。

 

​ その惨状の光景を、俺とレンは遠くから無表情で見つめていた。

 

 関わるのは論外なのだ。

 どう楽観的に思考したところで良い結果を生む筈がないのだから。

 

​ まともな馬を選び、最低限の信頼関係を築く。

 

 ここまでは非常に順調だった。だが、本当の問題は毎年ここからなのだ。

 

​ ——とにかく。

 

​ ——とにかく!! 気持ち悪い!!

 

​ いくら馬の気性が荒くなくとも、ひたすらに背に跨がり騎乗し続ければ、視界が上下に猛烈に揺れる。

 

 それが何時間も連続で続けば体は悲鳴を上げ始め、朝食の麦粥も当然のように胃から流れていくのだ。

 

​ 無理をせず休憩すればいい。


 それは一般的な常識としては正しい判断だが、この地獄の演習においては不正解であり、絶対に許されない。

 

​「そこ! 動きを止めるな!! ひたすら走り続けろ! 敵は何処からでも容赦なく湧いて出てくるぞ! お前たちだけが苦しいと思うな!!」

 

​ ディルック隊長の恫喝紛いのドスの利いた指導は、正午を過ぎても止むことなく続く。

 

 一応途中でモサバー(※モサモサした味の薄い栄養バーのこと)は配られるものの、食事中であっても馬から降りることは一切許されない。

 

​ 馬の基本的な扱い方はもちろん、騎乗戦、左手でしっかりと手綱を握り締めながら右手で重い剣を振るう訓練。

 

 馬を最も効率よく加速させて走らせる方法に、障害物を飛び越える跳躍時の注意点。

 

 馬に乗った状態での素早い退却の仕方、狭い足場で小回りに馬を動かす技術など……騎馬に関する過酷極まる訓練が延々と続いた。

 

「人を乗せている馬も、お前たちと等しく同じ苦しみを抱いている!! それが分かったら走れ!!」

 

​「…………ぅ」

 

​「レン……無駄なプライドは捨てろ。その為の麦粥だぞ」

 

​ ちなみに俺はすでに済ませている。


 こういう苦しいものは、さっさと早い段階で済ませておくのが一番いい!!

 

​ そんな俺の達観した思考が相棒にも伝わったのだろうか。俺の選んだ馬は一際元気よく「ヒヒーン!」と嘶いた。

 

 その光景を見たレンの馬は、静かに一歩後ろに下がった。


 理由は不明である。

 

​「よしよし、お前は本当に良い子だな!」

 

​ 離れた場所で、一人の見習い騎士が自身の選んだ相棒の首筋を撫でて褒めている。

 

 なんと微笑ましく心温まる風景だろうか。

 

​ それが、本物の馬であったなら、なのだが。

 

​ ——ピピッ!!

 

​「ん?」

 

 ​魔道具や魔術礼装とはおよそ無縁なはずのこの泥臭い演習場に、何故か不吉で電子的な機械音が響き渡る。

 

 ​察した正騎士たちが、一斉にサッと素早く距離を取る。

 

 先輩騎士に耳打ちされた見習い騎士たちも、慌ててその「綺麗過ぎる馬モドキ」から転がるように離れていく。

 

​「おーい! エルン!!」

 

 ​俺は馬モドキの比較的近くに立ち止まっていたエルンに向かって、力一杯声を張り上げた。

 

 胃の中に余計なものが何一つ無いお陰だろうか、非常にスムーズで通りが良い発声だ。

 

​「はーい! ラバ先輩、どうしましたかー?!」

 

 ​無邪気に元気よくパタパタと手を振るエルン。


 その尊い元気が一瞬で虚無に変換される前に、彼女を安全な場所へ誘導しなければならない。


 現在、隣のレンは絶賛取り込み中なのだ。

 

​「そこは色々と危ないから、今すぐ移動するんだ!!」

 

​「え?……わ、分かりました!」

  

 ​一瞬不思議そうに動揺したエルンだったが、俺の真剣な忠告を素直に聞き、素早く馬の手綱を引いて離れてくれたらしい。

 

 ​そして……レンが胃の限界を迎えるのと、まさに時を同じくして。

 

​——ピピッ!! ——五、四、三……

 

​「え? な、何が起こって——」

 

 ​俺は胸の前でそっと十字を切り、天界の三女神に深い祈りを捧げた。

 

​——創星神アストレア様、太陽神ソルスティス様、花神テラリア様、どうか彼にご慈悲が与えられますように…………。

 

 ​俺と同じように、周囲の正騎士たちが静かに祈りを捧げ始めた。


 あの破天荒なジッピーでさえ、静かに目を閉じて胸の前で手を組んでいる始末!!

 

 ​それでも。

 

 ​俺たちの切実な祈りを嘲笑うかのように。

 

 ​俺たちのささやかな願いを踏みにじるように。

 

 腹に響く大爆発音が響き渡った。

 

​「うわあ゙ぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」


 ————————

 ————————

 ————————

 

 ​激しい爆発が収まり、黒煙の中から無惨なボロボロの姿で件の見習い騎士が発見された。

 

 その凄まじい光景を見ても、ディルック隊長は眉をほんの少し動かしただけだった。

 

​「……流石隊長……! やはり場踏みと経験値が違う……!」

 

​「(爆発の)経験値は確かにあるかもな……」

 

 ​限界を迎えていたレンが珍しく同意の念を抱いたところで、怒濤の二日目の訓練は比較的安全に終了した。

 

​「馬は単なる道具でも移動手段でもねぇ! 共に戦う騎士だ! 心に刻め!!」

 

​「「「「「はい!!!!!」」」」」

 

 ​ディルック隊長が高らかに魂の入った宣言をする。

 

 その威厳ある声に俺たち騎士は、重い疲労が全身にのしかかる身体に鞭打って、全力の返声で応えた。

 

​——演習二日目で脱落者が出なかったのは、俺の知る限り今回が初めてだった。

 

◇ ◇ ◇

 

 ​迎えた三日目の朝。


 風にそよぐ鬱蒼とした草木が生い茂る山中を、俺とレン、ジッピーの三人は静かに歩いていた。

 

 支給された物資の数は極限まで限られており、自力で調達しなければ、一日この山中で過ごすなど到底不可能だろう。

 

「美味しい料理も流れてく~♪ お前の腹から流れてく~♪」

 

​「おいジッピー、その歌止めろ」

 

「えぇ? 俺は少しでも気を紛らわせようと思って!」

 

​「その歌を聞いて気が紛れるのは、お前みたいな一部の特殊な精神異常者だけだ。一緒にするな」

 

​ ジッピーの呑気で不吉な歌(モーニングコール)はレンにあっさり制止され、しばらくの間はただ草木が山風に揺れる不気味な音のみが俺たちの耳に届いていた。

 

 数時間前、俺たちはリサ隊長からサバイバル用の物資を支給された。

 

 食料、水、傷薬、火種、ナイフ——他にも様々な選択肢が並べられていた。

 

 その中から「各自三つのみ」を選択させられ、人工魔獣が蠢くこの危険な山へと容赦なく投げ込まれたのだ。

 

​ ちなみに、この《ベルモデス山》に天然の野生魔獣の類いは一切生存しておらず、綺麗に駆逐されている。

 

 先輩騎士に聞いた噂によれば、毎年開催されるこの騎士団の過酷すぎる演習が原因で絶滅したのだとか。

 

​「なぁ、ラバ。本当に火種を取らなくて良かったのか? 自然下で火を起こすのも一苦労だぞ」

 

​「……まぁね。でも、傷薬は必要だっただろ?」

 

​「んー……そりゃそうだけどさ、逆に言えば怪我さえしなけりゃいい話だろ?」

 

​「なんで今まで生き残れたんだよ、お前……」

 

​ ジッピーの楽観的な思考に、レンの冷ややかな声が静かに落ちる。

 

 ジッピーの「怪我をしなければいい」という理屈も一理あるが、火は時間と工夫さえかければ起こせるのに対し、まともな傷薬の類いは現地での自力確保が極めて難解なのだ。

 

​ この《ベルモデス山》には、傷薬の代用ができるような薬草や実の類いがほとんど自生していない。

 

 したがって、運悪く代用品を見つけられなかった場合、戦闘で一度負傷すれば傷の回復や処置が一切できなくなる。

 

 ​ジッピーの考えも理想論としてはごもっともだが、視界が極端に悪くなる夜間は人工魔獣の行動が活発化する傾向にあるのだ。

 

​ ——去年は傷薬を選ばなかったせいで、一人完全に続行不能になったからな……。

 

​ 今さら後悔しても詮無きこと。

 

 それでも俺は、同じ愚かな失敗を二度と犯さないと心に固く決めていた。

 

​「食料は道中で食べられる果実があるから問題ないね。水はこの先に川があるから——」

 

​ 俺の言葉が最後まで言い終わらないうちに、山奥の深い樹海から誰かの必死な叫び声が響いてきた。

 

​「い、一杯八百ゴルド!? いくらなんでも高過ぎるだろ!!」

 

​「納得できんと言うなら構わんぞ? この先の川には恐ろしい魔獣が出るから、汲みに行くのも相当苦労するだろうがの! ホッホッ!!」

 

​「この守銭奴ジジィ!! 足元見やがって!!」

 

​ ——水一杯八百ゴルドは、確かに高いなぁ……。

 

​ 恐らく、この山奥の付近に住んでいる物好きなお爺さんに、《守銭奴お爺さん》の事情を知らない見習いの誰かが交渉を持ちかけているのだろう。

 

​ あのお爺さんは頼み込めば物資を分けてはくれるのだが、何しろ提示してくる値段が恐ろしく高い。

 

 演習の訓練だと理解した上で、事情を知らない哀れな見習いに対して悪びれもせず商売をしていると言っても過言ではないのだ。

 

​「またやってるのか、あの爺さん」

 

​「……一応聞くが、その人は運営の回し者か?」

 

​「いや? 天然者」

 

​「この国、変なのばっかりだな」

 

​「え? そう?」

 

​「お前がその筆頭だ」

 

​ レンとジッピーの軽快な掛け合いを、俺は苦笑いを浮かべたまま静かに静観していた。

 

 あの哀れな見習い騎士は、結局自腹のポケットマネーで高価な水を買うことになるのだろうか……

 

 可哀想ではあるが、ここで俺たちが余計な介入をすれば彼の訓練にならない。


​ それに、あのお爺さんは嘘を吐いているわけではないのだ。

 

 事実、これから俺たちが向かう予定の川には獰猛な魔獣が潜んでいる。

 

 ただ、昼間はぐっすり寝ている——活動を完全に停止しているともいう——ので、危険な夜間にさえ近づかなければ何の問題もない。

 

​ 俺たちはお爺さんのダミ声が聞こえる方向とは逆の、静かな道へと足を進める。

 

​ 手元にある限られた物資の効率的な運用。

 

《生体・人工魔導研究課》が開発した人工魔獣の挙動の把握。

 

 山中における確実な土地勘。

 

​ この最低限の情報と知識さえあれば、十分に生き残れる。

 

 情報を持たない見習い騎士が圧倒的に不利ではあるが、交渉によって情報を買い取るか、持ち前の知恵と技術で適応すれば対応可能な設計だ。

 

​ そもそも騎士同士の協力が公式に許可されている訓練の為、そこまで致命的な苦戦はしない——筈だった。

 

​ ただ、それでも毎年「不正」に手を染める者は発生する。

 

​ 陽が沈み、人工魔獣たちの動きが一段と活発になる頃。

 

 俺たちは安全な岩陰で静かに火を炊き、道中で無事に確保できた果実を細い枝に刺して炙っていた。

 

​「ご機嫌よう。——そのご様子でしたら、特に問題なさそうですわね」

 

​ 驚いて即座に顔を上げたのは、俺だけではなかった。

 

 今まさに香ばしく炙られた果実に手を伸ばそうとしていたジッピーの手がぴたりと止まったのが、何よりの証拠だ。

 

 あのジッピーが目の前の食事を前にして動作を止めるのは、相当驚いた時だけ。

 

​「……リサ隊長。どうかされましたか?」

 

​「各所の様子を見て回っておりますの。あいにく、支給品以外の不正な物資を持ち込んでいる方がいらっしゃるようでして」

 

​ その美しく整った表情こそはいつも通り柔らかく、鈴を転がすような声は優しさを感じさせる。

 

 それでも、リサ隊長の身に纏う目に見えない空気感だけは、この人が今どれほど怒っているのかを理解させるのに十分すぎるほどの迫力を孕んでいた。

 

​「……それなら、東の大きな岩の付近にいる彼らがよく知っていると思いますよ」

 

​「……………………」

 

​ ジッピーが一瞬だけ苦い顔をし、すぐにいつもの飄々とした表情に戻った。


 レンはいつも通り無表情を貫いている。

 

​「うふふ……貴方、本当に良い子ね」

 

​ リサ隊長の艶やかな言葉に、俺は軽く会釈を返すだけで、それ以上は口を開かなかった。

 

 不正を行った彼らの元へ向かうのだろう、リサ隊長は洗練された優雅な所作で東へと足を進める。

 

​ その直前。

 

​「去年とは大違い。ずいぶんと成長したわね、ラバック」

 

​ リサ隊長は今度こそ愛おしそうに嬉しく微笑むと、静かに東へ足を動かした。

 

 これからあの岩陰で何が起こるのかは、火を見るよりも明らかだったが——

 

​ 俺は視線を、再びパチパチと火に炙られる果実へとそっと戻す。

 

 口に含んだ焦げた果実の味が、やけに苦く喉に引っ掛かった。

 

◇ ◇ ◇

 

 明くる日、三日目の厳しい訓練を突破した脱落者は、二百六名にまで減少していた。

 

 俺たちが寝泊まりする合宿所には相変わらず、耳障りで不気味なモーニングコールが響き渡っている。

 

 この不快な目覚まし時計(鳥)がけたたましく歌うモーニングコールには、実に厄介なことにスヌーズ機能まで備わっているのだ。

 

​ よって、一人でも寝ている愚かな騎士がいれば、聞くだけで嫌な気持ちになる歌が止まることなく延々と鳴り止まない。

 

 今朝は昨日のサバイバル訓練の疲れもあるのか、歌は容赦なく二番にまで到達していた。

 

​「(※特別和訳) 早く起きなきゃ倍増だ~♪ 訓練メニュー倍増だ~♪ 巨龍は炎で焼き尽くす~♪ お前たち全てを踏み潰す~♪」

 

​「起きろぉぉぉぁ!!! 一人でも遅刻者が出たら、筋肉鬼書記官にネチネチ説教されるんだぞ!!」

 

​「それだけじゃないッ!! アルハイサムの野郎、三日連続で家に帰れてないからすこぶる機嫌が悪いんだ!! 早く起きろ間抜け!!」

 

​ まだ夢の中にいた寝坊助な騎士が、先輩たちに容赦なく蹴り上げられる。


 その毎朝お馴染みの騒ぎに紛れるようにして、窓の外に広がる空の模様も慌ただしく変化していく。

 

 嫌な雨模様、というやつだ。

 

​ かくして俺たちは集合時間ギリギリのタイミングで広場に滑り込んだ。


 お陰でアルハイサム書記官の持つ恐ろしい閻魔帳に名を記入されることだけは、どうにか回避することに成功する。

 

​「——ではこれより、本日の訓練を始める。各自配布した羊皮紙の内容を確認するように」

 

​「あ、あの! 質問よろしいでしょうか、ハイネ様!」

 

​ 真面目そうな印象を受ける見習い騎士が勢いよく挙手と共に声を上た。

 

 問いを投げ掛けられた後方支援部隊隊長——ハイネ・アルカラスは静かに先を促す。

 

​「この用紙に記された内容によれば……本日は合宿所には帰還しない、ということでしょうか……?」

 

​ 正騎士たちを除いた一部の見習い騎士たちから一斉に戸惑いの声が漏れ、急いで配られた羊皮紙を食い入るように見つめている。

 

​「その通りだ。このような悪天候下での迅速な陣地作成も、騎士には欠かせない技術なのでね」

 

​「あ、悪天候……? しかしハイネ様、今はこんなに——」

 

​ 見習い騎士のその言葉が最後まで言い終わらないうちに。

 

​ ポツ、ポツ、ポツ……

 

​「え」

 

​「常に最悪の悪天候を意識したまえ。では、健闘を祈る」

 

​ ハイネ隊長は指先で眼鏡のブリッジをすっと上に上げると、騎士服のポケットから折り畳み式の魔傘道具を洗練された動きで広げた。


 そして、そのままスタスタと優雅に去ってしまった。

 

​ しばらくの間、無情にも雨が降り始めた広場には重い沈黙が落ちる。

 

​ ——あの魔道具、めちゃくちゃ便利そうだなぁ……。

 

​「おい!! なんだ急にこの猛烈な風と雨は!! さっきまで綺麗に晴れてただろ!!」

 

​「と、とりあえず移動だ! 一刻も早く雨を防げる場所に!!」

 

​「あの魔傘、一つで金貨三枚もするらしいぜ!!」

 

​「マジかよ! オレなら雑に扱って一瞬で壊しちゃいそうだぜ……」

 

​ 広場に流れる場の空気は、事情を把握している正騎士と何も知らない見習い騎士とで正反対に二分されていた。

 

 常識的に考えて、これほど急激に致命的な悪天候になる筈がないのだ。

 

 だが例外——正しくは、この規模の例外を意図的に起こせる規格外の者たちがこの国にはいる。

 

​ 今まさに俺たちの身体を叩きつけ始めた強い風と激しい雨は、「天候そのものを操作」したからに違いない。

 

 真っ先に思い付くのは、魔術管理局 局長のルーシャ様か、プトレマイオス枢機卿様、あるいはトラブルメーカーのシリウス様だ。

 

​「俺たちも早めに移動しようか」

 

​「……お前、なんでそんなに悠長なんだよ? ……流石に天候が変わりすぎだぞ!」

 

​ 荒れ狂う雨風が容赦なく全身を濡らし、水分を限界まで吸った訓練着がずっしりと重くなる。

 

 肌に張り付くこの独特の不快感が俺は心底苦手だ。

 

​「人為的なものだからね。ここからまだまだ強くなるよ……今のうちに使える水をしっかり確保しよう」

 

​「まだ強くなるのか……? 今でもかなりの大豪雨だが……!」

 

​ レンは吹き荒れる雨風に耐えながらも、その足取りだけはブレることなくしっかりとしている。

 

 その頼もしい様子に密かに安堵した俺は、雷が落ちてくる前にさっさとこの場を離れることにした。

 

​ 仮にこの無茶苦茶な天候操作をしたのがあのシリウス様なら、間違いなく雷がドカドカ落ちてきているし、巨大な竜巻だって平然と発生しているはずだ。

 

 それらの致命的な惨状がない時点で、局長か枢機卿様の手によるものだと容易に推測できる。

 

 もっとも——そのどちらの手によるものであろうと、俺たちが取るべき行動は何一つ変わらないのだが。

 

◇ ◇ ◇

 

 ​雨風は時間の経過と共に、より一層激しさを増すばかりだった。

 

 油断して気を抜けば、瞬く間にぬかるんだ泥の地面に足を取られて滑り倒れてしまうだろう。

 

​ 数十分前、俺たちはまだ比較的飲み水として利用できる水を、確保することに成功していた。

 

 だが手に入れた水は泥や砂が混じっており、このままではまともな飲料水として使用することはできない。

 

 そのため、ろ過の工程を挟む必要がある。

 

​「それにしても、凄い風と大雨だな………しかもそこら中、仕掛けられた罠だらけだ」

 

​「まだこの辺りは安全な方だよ。中央エリアに寄れば寄るほど、仕掛けられている罠の数が尋常じゃなく増えるんだ」

 

​「よく知ってるな」

 

​「まあね。去年と構造が変わっていなければ、だけど」

 

​ 山の中央付近は雨風を凌いで避難できる建物がそれなりに多い。

 その代わり、危険極まる罠の密度が跳ね上がるのだ。

 

 中には一度引っかかれば即座に行動不能に追い込まれるような凶悪な罠もある。

 

​ 事前に目視で簡単に確認できる罠であれば対処のしようもあるが、残念ながら中央付近の建物周辺は初見殺しレベルの極悪な罠だらけだ。

 

​「それにしてもよぉ、地味な訓練だよなぁ」

 

​「それな。こんな泥塗れの地味な訓練が、後方支援の役に立つのかよって感じだよな」

 

​「パッとしねぇよな! 後方支援部隊ってさ。やっぱ男なら配属されるべきは華やかな騎馬部隊とか前線部隊だな! それか格好いい遊撃部隊だろ!」

 

​ その時、雨音の向こうから明らかに不機嫌を隠そうとしない複数の声が聞こえてくる。

 

 少し離れたところを歩く見習いの三人組は、退屈そうに足元の小石を蹴りながら、訓練への不満を大声で垂れ流しているようだった。

 

「おい、遊撃部隊だけは止めとけって。ヤバい奴がいるらしいぜ!!」

 

​「それって昔の話じゃね? もう《フォカロス》はとっくに全滅しただろ?」

 

​「バカ! 全滅なんてしてねぇよ! まぁ……当時の生存者は《朔風騎士》のシルフィーネ様しか騎士団には残ってねぇけどな」

 

​ ————ああ、あれは良くない。

 

​ どこか他人事のような、冷めた思考が頭の中に生まれた。

 

 彼らがこのまま無造作に進むその足元の先に、確かにあ(・)る(・)のだ。

 

​「おい、ラバック。止めなくていいのか」

 

​ 隣を歩くレンの低い声が、雨音を突いてやけに耳に残る。

 

 彼が何を言いたいのか、その意図は痛いほどよく分かっていた。

​ このまま無知な彼らを先に進ませるのは、決して良くない。

 

 ほんの一言。

 

​ たった一言だけ、声をかけてやればいいのだ。

 

 それは簡単なことだ。「足元に気を付けろ」ただそれだけ言えば済む話なのだから。

 

​ ————でも。

 

​「このまま夜まで適当にブラブラ過ごしてるかぁ……——ッ!?」

 

​「!? おい、大丈夫か!?」

 

​「ま、待て! 無理に足を動かすな!!」

 

​ 結局、俺は彼らに声をかけなかった。

 

 目の前では、一人の見習い騎士が泥の中に隠されていたトラバサミに見事にはまり込んで倒れ込んでいる。

 

 幸い、命に関わるほど深い傷ではないようだ。

 

 だが、ギザギザとした鋭い鉄の歯が右足の肉に深く食い込み、溢れ出た血が泥水を赤く染めている。

 

 罠にかかった騎士は激しい苦痛に絶叫を上げ、無理矢理トラバサミの鉄枠から足を引き抜こうと必死に足掻いていた。

 

​「痛い……! 痛い……! 痛い痛い痛い……!!」

 

​「落ち着けって……!! くそッ! これどうしたら外れるんだよ!!」

 

​「ううっ……血がいっぱい出てるぞ……!」

 

​ 冷たい雨水が裂けた傷口に容赦なく染み込んだこともあり、更に耐え難い痛みが増しているのだろう。

 

 このまま放置すれば深刻な感染症を引き起こすリスクもある。

 

​ ——適切な処置を怠れば、最悪の場合、後遺症が残るかもしれない。

 

​「……助けないのか?」

 

​「…………助けない」

 

​ 去年とは正反対の回答だった。

 

 もしこれが本当の「戦場」であったのなら、俺は迷わず彼らを助けていただろうし、考えるより先に体が勝手に動いていたかもしれない。

 

​「そうか」

 

​ レンの返答は、それだけだった。

 

 何故助けないのかと理由を問うことも、助けようと提案することもなく、ただその言葉だけを落とした。

 

 その短い反応一つで、「やはり彼もまた、本物の戦場を深く知る者なのだ」と俺は確信した。

 

​「……ッ! ど、どうしたら——……ぁ」

 

​ その時、必死に自分の手で血を止めようと抑え込んでいた見習い騎士の視線と、俺の目が正面から合った。

 

​ ————合ってしまった。

 

​ それは、なりふり構わず救いを求める必死な目だった。

 

 「助けてくれ」と、彼の表情の全てが物語っていた。

 

 雨風に乗って、錆びた鉄と嫌な血の匂いが俺の鼻腔に届いた。

 

​ 同時に、カサカサと湿った草木を何者かが激しく踏みつける音が迫る。

 体長およそ二メートル。

 

​ スッ、という静かで澄んだ鞘走りの抜刀音が響いた。

 

 剣を抜いた主は、考えるまでもなくレンだ。

 彼はパニックになる見習い騎士たちではなく、その背後から現れた襲撃者へと鋭い視線を向けつつ構えた。

 

​「た、助けてくれ!! このままじゃこいつ……! し、死んじまう!!」

 

​「痛い……!! 痛い痛い痛い……! 痛いよぉ……!!」

 

​「………………」

 

​ 人工の低い獣の唸り声が、彼らの泥塗れの悲痛な叫び声と共に耳に届く。

 

 俺も腰の剣の柄に手をかける直前、もう一度「助けてくれ」という必死な懇願の声が雨音の中に聞こえた気がした。

 

​「右だ」

 

​「じゃあ、俺は左から行く」

 

​「ま、待ってくれ!! 本当に、血が……! 血が止まらないんだ!!」

 

​————グルゥゥゥゥゥゥッ!!!

 

​ 彼らから差し伸ばされたその手を取ることはない。

 

 生臭い血の匂いが、再び激しい風に乗って鼻をくすぐった。

 

​ もはや、それが魔獣の血なのか、それともあの見習い騎士の血なのか分からなかった。

 

​ 泥雨の暗闇の中、二つの鮮烈な閃光が走った。

 

 ワニのような醜悪な見た目をした人工魔獣は甲高い断末魔の悲鳴を上げ、僅かな痙攣の後、その巨大な躯を地面に激しく叩きつけた。

 

​ 俺は剣についた血を払い、静かに鞘へ仕舞うと、懐から昨日支給品に選んだ傷薬を一つ取り出し、見習い騎士たちの目の前にそっと置いた。

 

​「……な、なんで……?」

 

​「……………………」

 

​「なんでだよ! なんで……なんで助けてくれないんだよ!! こんなに血が出てるじゃねぇか!!」

 

​「おい! 暴れるなって……」

 

​「緊急時の信号笛を吹くんだ。……俺から言えるのは、それだけだよ」

 

​「……行くぞ、ラバック。——雨が益々強くなってきた」

 

​ レンからの淡々とした催促に、俺は無言で頷くことで返答を返した。

 

 背中に突き刺さるような怒号の声と、激しい痛みを訴える絶叫。

 

 そして、その声の主をなんとか必死に宥めようとするもう一人の騎士の声。


 それらが耳にこびりついて頭から離れるまでには、しばらくの時間が必要だった。


* * * * * * * * * * * 


拙作をご覧いただき、ありがとうございます。


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にしみん

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