行ってみようやってみよう
これまでで一番、長く、そして深い沈黙だった。
アレシアの魂は完全に抜け殻と化し、ただ空間を漂う星屑のような失敗作を見つめ続けていた。ナビはしばらくその様子を無言で眺めていたが、やがて「ふぅ」と小さく息を吐くと、手元のタブレットをササッと操作した。
その瞬間、アレシアが一番最初に作った、あの「哀」を排除した小さな星が、煙のようにフッと消え去った。
「……あ」
アレシアはハッとして、消えた空間を見つめる。
「おい、今、何をした?」
「不要な星なので、データを消去しました」
「不要だと!? 待て、まだ私が……神として、何かできることがあったかもしれないだろう!」
「ありませんよ」
ナビはアレシアの食い下がりを、冷淡な一言で一蹴した。
「アレシア様、あの星はね、あの上司が過去に一番多く試して、一番多く自爆させたパターンなんですよ」
「……何だと?」
「悲しみを完全に消去した上で、じゃあ次は『悔しさ』のパラメーターを増強させてみよう。悲しみの代わりになるのでは。次は『怒り』の発生上限を限りなくゼロに絞ってみよう。あるにはあるが殺意までは届かない程度に。あるいは、喜びとの比率を『0.1刻み』でひたすら微調整してみたり、生存を助けるためにあっという間に農耕や治水をしてくれる都合のいい不思議な動物を投入してみたり……。果ては、生き物の思考をひとつの事だけに特化させて、それ以外のパラメーターを極端に下げてみたり。あの引きこもり神様が最も多く試し、最も絶望して、最終的にゴミ箱に放り込んだパターンなんです」
ナビは消去したデータのログを画面に映し出しながら、淡々と言葉を重ねる。
「結論は出ているんです。世界から悲しみをすべて無くすと、仮にどんな手を使って繁殖・繁栄に成功したとしても、最終的にはロクな世界にならない。……あぁ、でも、アレシア様には根本的な部分で理解できないと思いますけどね」
「理解できない? 私が、世界の救済を願うこの私がか?」
「ええ。『悲しみを知っている人間』に、『悲しみを知らない世界』を真に理解することは不可能だからです。例えば『あっという間に広大な畑を耕せる魔法の道具が欲しいなぁ』と考えたとします。それは、今は実現できないだけで、頭の中に『空想する余地』があるからです。でも、悲しみがない世界というのは、人間にとって『空想すらできない領域』なんです。存在しない感情は、想像することすらできない。生み出すこともできません、神が存在を設定していないので」
アレシアは何も言い返せず、ただ拳を握りしめて静かに聞いていた。しかし、かつて旅の途中で無数の涙を見てきた元勇者の意地が、最後の最後で言葉を絞り出させる。
「……しかし、だ。仮にその世界の生き物が、知性の欠片もない、非常に短絡的で原始的な生き物になったとしても……『悲しみがない』ということは、それだけで、その世界における幸福の総量は多いのではないか? 涙を流す者がいないなら、それは良い世界と言えるのではないか?」
その問いに、ナビは初めて、少しだけ柔らかい、けれど酷く哀れむような笑みを浮かべた。
「ええ、そうだと思いますよ」
ナビはタブレットを脇に抱え、真っ直ぐにアレシアを見据えた。
「――では、アレシア様。その『悲しみの無い世界』に、人間として生まれ直してみますか?」
「え……?」
「ご要望通り、悲しみなんて概念すら存在しない世界です。そこで精一杯生きて、もし死んだら、またこの場所に魂を戻してあげますよ。ただ……」
「戻ってきたときのアレシア様は、『悲しみ』という感情を一切知らない、ただへらへらと笑って死んでいった人間ですけどね。……それでも、行きますか?」
かつて幼馴染の死に涙し、民の不幸に心を痛め、それでも彼らを救おうと足掻き続けた、気高くも泥臭い「勇者アレシア」の心。
悲しみのない世界に行くということは、そのアレシアという存在の魂を、根底から消滅させるということと同義だった。究極の選択を突きつけられ、アレシアは息を呑んだまま、言葉を失った。
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