第24話 ちょうどいい女

正月の朝は、思っていたより静かだった。

現代の正月なら、テレビがついていて、どこかで誰かが笑っていた。

実家にいれば姉さんが何か言い、父が朝から余計な世話を焼いていた気もする。

けれど十字坡の朝は、いつもより冷えているだけだった。

道の土は固く、店の戸には夜明け前に父ちゃんが貼った赤い紙がある。

古びた板戸の上で、そこだけ妙に鮮やかだった。

「曲がってるよォ」

アタイが言うと、父ちゃんは貼り終えた紙を見上げた。

「客が読めりゃいい」

「字も曲がってるんじゃないかい?」

「なら、お前が書け」

「無理だねェ」

読める字もあれば、形を見ても意味が出てこない字もある。

この身体が覚えているのか、現代で二十七年生きたアタイの頭が補っているのか、それさえよく分からない。

水滸伝の世界へ来たうえ、文字まで完全自動翻訳してくれるわけじゃないらしい。

転生特典が雑すぎるよォ。

そう考えられるくらいには、朝の空気に余裕があった。

そのことに気づくと、少しだけ嫌な感じがした。

少し前まで、朝になればまず今日も何か起きるんじゃないかと身構えていたはずなのに、今は水を汲み、火を起こし、店を開ける順番の方が先に頭へ浮かぶ。

姉ちゃんは今日は来ない。

嫁ぎ先で正月を迎えているらしく、昨日のうちに「父ちゃんと二娘でちゃんとやんなよ」と言い残していた。

既婚女性なんだから正月くらい婚家にいろ、と言いたいところだけど、その人は数日後には普通に米の残りを確認しに帰ってくる。

何なんだろうねェ、うちの姉ちゃん?

水鉢を覗くと、揺れる水面に女の顔が映った。

アタイは指先で頬に薄く色を乗せ、唇へ紅を差す。

濃すぎれば下品になるし、薄すぎれば寝起きと大して変わらない。

その加減も、いつの間にか手が覚えていた。

誰かに教わった記憶はない。

客の反応を見て覚えたのか、父ちゃんや姉ちゃんの何気ない言葉を拾ったのか。

それとも、この身体の中に前から残っていたのか。

髪を整えて簪を挿し、首筋へ落ちた後れ毛を指で払う。

水面の中の女は、アタイが思っている自分より少し落ち着いて見えた。

若いけれど、もう子供には見えない。

そして嫌なことに、客前へ出す顔としてはかなり出来がいい。

「二娘お嬢」

戸口の方から張青が呼んだ。

振り向けば、いつもの台に腰を下ろして道を見ている。

傷もずいぶん良くなり、もう完全な怪我人という顔ではない。

客の馬を見たり、荷を預かったり、簡単な銭勘定まで手伝うようになった。

勘定はたまに怪しいくせに、人の顔を覚えるのだけはやたら早い。

「何さ?」

「正月だな」

「見りゃ分かるよォ」

「年が明けた」

「それも分かる」

張青が笑う気配がした。

「十八か」

椀を持っていた手が、ほんの少しだけ止まった。

十八――

この世界では、正月が来れば年齢が一つ増える。

誕生日までは十七です、なんて現代式の数え方を周りがしてくれるわけじゃない。

年が明けて皆が十八だと言えば、今日からアタイは十八になる。

「勝手に増やすんじゃないよォ」

「俺が増やしたわけじゃない」

「じゃあ誰だい?」

「年だろ」

つまらない答えだった。

つまらないけど、間違ってはいない。

父ちゃんが奥から声を飛ばした。

「二娘、大きい甕を開けろ」

「朝からいい酒かい?」

「正月だ」

それだけで話が終わった。

いつもなら小さい甕で済ませるような客にも、今日は少し良い酒を出す。

粥には具が増え、饅頭も形の悪いものから先に出したりしない。

正月だから――

便利な言葉だねェ。

この前は「商売」という言葉の便利さに気づいたばかりなのに、今日は「正月」が何でも少し上等にしてくれるらしい。

店の戸を開けると、冷たい風が入り込んだ。

道にはまだ人が少なく、遠くから子供の声が聞こえてくる。

どこかで乾いた音が一度鳴り、すぐに静かになった。

ここにも正月は来る。

十字坡だろうと、年は明ける。

最初に来たのは近くの村の男だった。

何度も見た顔だが、今日は普段より身なりを整えていて、腰の袋も少し膨らんでいる。

「あけましておめでとう、二娘ちゃん」

「あけましておめでとうだよォ。水かい、酒かい?」

「正月だぞ。酒に決まってるだろ」

「そう言うと思ったよォ」

大きい甕から酒を注ぐ。

男は盃を受け取ると、アタイの顔を見て目を細めた。

「しかし、また綺麗になったな。もう十八か」

またそれだ。

十七の時だって男たちには見られていた。

けれど今日は、目の止まる場所が少し違う。

紅を差した唇を見て、頬を見て、袖から出た手首へ目が移る。

そこから先へ視線が下がりそうになったところで、アタイが盃を卓へ置く音を少し強くした。

男は慌てて酒へ目を戻した。

本来のアタイより、この身体はずっと若い。

なのに客から見れば、昨日より今日の方が「女」になったらしい。

中身が二十七歳の元大学助教だろうが関係ない。

客が見ているのは十字坡に立つ孫二娘で、その顔に紅を差して客前へ出したのはアタイ自身だ。

「親父さん、そろそろ婿でも探さねぇとな?」

父ちゃんは奥で饅頭を蒸したまま返事をしない。

聞こえていないはずはなかった。

張青も戸口から一度こちらを見たが、何も言わない。

「こんな娘を置いておいたら、客が放っておかねぇぞ?」

「放っておかない客は、父ちゃんが外へ放り出すよォ」

「怖いねぇ」

男は笑いながら酒を飲んだ。

悪い客ではない。

銭も払うし、必要以上に長居もしない。

それでも、言葉だけが妙に残った。

十八、婿、綺麗になった。

看板娘だとか、二娘ちゃん目当てで寄ったとか、そんなことなら前にも散々言われている。

でも年が一つ増えたことで、周りがアタイへ貼る札まで少し書き換わったような気がした。

子供ではなく娘として、娘よりも女として、店に置けば客を呼ぶ存在として、いつか誰かのところへ嫁ぐかもしれない存在として見られる。

勝手に置き場所を変えられていく。

心理学でいうなら、ラベリングに近いのかもしれない。

人は名前や役割を与えられると、その枠を通して見られる。

周囲からそう扱われ続ければ、自分の振る舞いまで少しずつ、その形へ寄っていくことがある。

十八歳で、看板娘で、孫二娘。

どれもアタイが今日の朝に決めたものじゃない。

なのに、全部もうアタイのものだった。

昼前には客が増えた。

正月だから酒を飲みに来た男、挨拶だけして帰る近所の者、泊まりはしないが暖を取りたい旅人。

アタイはそれぞれに水を出し、酒を注ぎ、いつもより少しだけ愛想をよくした。

父ちゃんに命じられたわけじゃない。

張青から教えられたわけでもない。

今日は客の財布が緩む。

だから、自分でそうした。

「二娘ちゃん、今年も綺麗でいてくれよ」

「アンタが今年も銭を落としてくれるならねェ?」

「言うねぇ」

「正月の愛想は少し高いんだよォ」

客が笑い、もう一杯酒を頼む。

その瞬間、頭のどこかで銭の増える音を想像してしまった。

前なら嫌な目で見られるだけで身体が固まった。

今は、その視線がどこまでなら酒一杯に変わるのかを考えている。

どこから先なら父ちゃんを呼び、どの程度なら張青が戸口で睨むだけで済むのかまで、勝手に線を引いていた。

怖くなくなったわけではない。

怖がりながら動けるようになったのだ。

馴化という言葉だけでは、たぶん足りない。

反応が鈍くなったんじゃない。

むしろ前より細かく見える。

客の目の動き、手の位置、足の向き、声の張り、銭袋の膨らみ。

張青の咳や父ちゃんの包丁が止まる気配まで拾っている。

それでも客前の笑顔は崩さない。

そういう女になり始めている。

正月の昼過ぎ、少し上等な服を着た男が供を一人連れて入ってきた。

主の男には金がある。

だが、気になったのは供の方だった。

主がアタイを見て笑っている間も、供は店の奥と階段、裏へ続く方角を確かめている。

「噂の二娘ちゃんか」

「噂なんて、ろくなもんじゃないよォ」

「いやいや、十字坡には綺麗な娘がいると聞いてな」

「飯の噂じゃないなら帰りなァ」

主は笑ったが、供は笑わなかった。

張青が戸口で座り直し、父ちゃんも奥で包丁を置いた。

帰さない客ではないが、泊めたくはない。

金は落とすだろうが、夜まで残せば面倒になる可能性が高く、何より主より供の目が悪い。

答えはすぐ出た。

アタイは大きい甕から酒を注ぎ、縁の綺麗な盃を出す。

饅頭も形の良いものを選び、声は柔らかくしたまま、身体だけは卓から少し遠く置いた。

「正月だから、いい酒だよォ」

「ほう、気が利く」

「飲んだら次の店へ行きなァ。今日は混むからねェ」

男が眉を上げた。

「泊めてはくれんのか?」

「部屋は埋まるんだよォ」

まだ埋まってはいない。

けれど、この男で埋めるつもりはなかった。

供の目が一瞬だけ細くなる。

やっぱりねェ。

父ちゃんは何も言わず、張青も黙っている。

ここはアタイが決めるところだった。

男は少し粘ったものの、結局は銭を置いて立ち上がった。

供だけは最後まで店の奥を気にしながら、戸口で張青と目を合わせる。

張青は笑わなかった。

二人が道の向こうへ消えてから、父ちゃんが言った。

「泊めなくていい」

「分かってるよォ」

「正月は変なのも寄る」

「綺麗な娘がいるらしいからねェ」

冗談のつもりで言った。

父ちゃんがこちらを見て、張青まで一瞬だけ視線を逸らす。

妙な間ができた。

……何だよォ?

自分で言ったくせに、ちょっと恥ずかしいじゃないか。

でも半分は本気だった。

アタイの顔が客を呼ぶ。

紅を差した唇が酒を売る。

歳を重ねれば、客の見る目も変わる。

そしてアタイ自身が、それをもう勘定へ入れている。

「十八か」

父ちゃんが言った。

「朝から何回聞かせる気だい?」

「早ぇな」

いつもの店の声とは少し違った。

懐かしんでいるのか、寂しいのか、それとも別の何かを考えているのか、アタイには分からない。

ただ、父ちゃんの中にもアタイの置き場所がある。

娘で、看板娘で、店の働き手で、いつかこの店を任せるかもしれない女。

どれが一番大きいのかは分からなかった。

「お嬢は十八に見えるな」

張青が言った。

「どういう意味だい?」

「客の前だと」

「普段は?」

張青は少し考えてから答えた。

「口が悪い」

「戸口の男は正月でも黙ってなァ!」

張青が笑い、奥で父ちゃんまで鼻を鳴らした。

その音を聞いた瞬間、胸の奥が緩んだ。

まただ。

ここにいることが、嫌なだけではなくなっている。

父ちゃんの声も、張青の軽口も、客が来る前に水を汲む音も、甕の蓋が閉じる音も、水面に映った紅を差した顔まで、少しずつ店の匂いと一緒に身体へ馴染んでいる。

夕方、戸口に貼った赤い紙が風でめくれた。

アタイは手を伸ばして端を押さえる。

紙の赤は、朝に差した紅とよく似ていた。

現代なら十八歳は、自由に近づく年だったのかもしれない。

免許や進学やアルバイトなんて言葉が浮かんだが、ここには関係ない。

十八になったから逃げやすくなるわけでも、守られるようになるわけでもない。

むしろ十字坡では、ここへ置いておく理由が増えた。

顔が客を呼び、愛想で酒が売れ、危ない相手を見分けられる。

追い返すか泊めるかも自分で決められ、重い甕や米袋まで以前より楽に動かせるようになっている。

若くて綺麗なだけじゃない。

店にとって、どんどん使いやすくなっている。

アタイは十八になった。

それは大人になったというより――

十字坡に、ちょうどいい女になってしまったということだった。

赤い紙を押さえたまま、道を見る。

向こうから、また旅人が来る。

以前なら、まず顔を見た。

今は歩き方だけで荷の重さを考え、連れの有無を確かめ、腰元へ視線を滑らせる。

店の中へ入る前から、もう客として見ていた。

紅を差した口元が、勝手に笑う形を作る。

「いらっしゃい」

言ってから気づいた。

今日は正月だった。

年が一つ増えただけのはずなのに。

アタイの中では、それよりずっと多くのものが増えていた。

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