第20話 間違えなかった

久しぶりに、大学の講義の夢を見た。

誰でも、権威のある人間から命じられれば、普段ならしないことまでしてしまう。

ただし、最初から酷いことを命じるわけではない。

これくらいなら、と受け入れられるところから始めて、一つ終わればもう少し先へ進ませる。

そこまで来れば、今さらやめても仕方がないと思わせる。

そんな話だった。

何という実験だったかは、もう思い出せない。

助教の顔も、隣に座っていた学生の名前も消えていた。

それでも、途中まで進んだ人間ほど、そこで手を止めることが難しくなるという話だけは残っている。

目が覚めた時、嫌な汗をかいていた。

「……最悪だねェ」

夢の内容ではない。

思い当たる節がありすぎる。

店を開ける前、アタイは厨房の棚を開いた。

酒甕の横にある乾いた布巾を少し持ち上げると、昨日戻した紙包みが見える。

蒙汗薬――

名前を知らなかった頃には、ただの薄汚れた紙包みだった。

父ちゃんから触るなと言われ、客へ酒を出す前になると棚から消える、正体不明の物。

今は違う。

何に使うのか知っているし、掌へ載せた時の軽さまで覚えている。

どんな客へ使うのかも教えられた。

アタイは布巾を元へ戻した。

知らなかった頃には戻れない。

でも、今日は触らなくていい。

そう考えた直後、胸の奥がざらついた。

使わない、でいいはずなのに、頭の中では勝手に「今日は」がついた。

「二娘お嬢」

背後から張青の声がした。

振り向けば、昨日と同じ戸口に座っている。

足の腫れはまだ残っていたが、顔色は来たばかりの頃よりずっとましだった。

「何だい?」

「棚を開けてから、ずいぶん長いこと止まってるぞ」

「見りゃ分かることを報告するんじゃないよォ?」

「なら、見なかったことにする」

「最初からそうしなァ?」

アタイは水桶へ手を伸ばした。

水をいっぱいに張った桶を持ち上げたところで、少しだけ違和感があった。

前より軽い。

水が減っているわけではない。

縁近くまで入っているのに、両手で抱えなくても身体の横で持ててしまう。

「……またか?」

「何がだ?」

「こっちの話だよォ」

最近、重い物を持つたびにこういうことが増えている。

十七歳の身体に戻っているだけなのか、それとも元の孫二娘がこんな身体だったのか。

考えたところで、どちらもあまり嬉しくない。

心理学助教だったはずなのに、人生二周目で筋力まで再学習してどうする。

父ちゃんが店の戸を開けると、朝の光が床へ長く伸びた。

それからは、いつもの一日だった。

粥を出して椀を下げ、水を足し、泊まり客の寝具を片づける。

夜明けとともに出ていく旅人もいれば、朝酒を一杯だけ引っかけて畑へ戻る常連もいる。

誰にも蒙汗薬は要らなかった。

腹を空かせているだけなのか、酒を飲みたいだけなのか、それとも道を聞きたいだけなのか。

そう判断するたび、なぜか棚の奥が近くなっていく気がした。

使わないために客を見ているはずなのに、気づけば「この客には要らない」と分類している。

それって結局、使う側の見方なんじゃないかねェ。

昼を少し過ぎた頃、一人の男が店へ入ってきた。

旅装は汚れているが、草鞋は新しい。

腰の袋は膨らんでいて、金に困っているようには見えなかった。

「やってるかい?」

明るい声だった。

アタイは水場から男を見る。

顔つきも笑い方も普通で、武器をこれ見よがしに見せてもいない。

けれど、戸口を越えた男の足はすぐには進まなかった。

卓の数と厨房までの距離を測り、二階へ上がる階段と裏へ続く戸まで確かめた。

次に父ちゃんを見て、張青へ目を移し、最後にアタイを見る。

顔から手元へ落ちた視線が、水桶を持つ腕をなぞり、腰の辺りで止まった。

「一人かい」

父ちゃんが聞いた。

「ああ、連れとは先で落ち合う」

男は奥の卓を選んだ。

壁際で、戸口からは遠い。

それでいて階段と裏戸の両方が見える場所だった。

以前なら、空いているから座ったのだと思ったかもしれない。

今は違う。

この男は、席を選んだ。

「酒をくれ」

アタイは盃を用意した。

父ちゃんは何も言わない。

張青も黙っている。

酒を注いで卓へ持っていくと、男は盃より先にアタイの顔を見た。

「こりゃいい店だ」

「まだ飲んでもいないだろォ?」

「酒の話じゃないさ」

男は笑った。

アタイも口元だけで笑う。

張青に言われるまでもない。

客前の顔だ。

男は酒を一口飲んだ。

「親父さんと二人でやってるのかい?」

「見ての通りさ」

「奥の男は?」

張青へ目を向ける。

「怪我人だよォ」

「用心棒じゃないのか?」

「立つのもやっとの用心棒がいるかい」

男は声を立てて笑った。

それでも目は止まらない。

父ちゃんの包丁を見て、裏戸の掛け金を確かめ、張青の足へ視線を落とした。

そのあとで階段の幅まで測るように眺め、最後にはまたアタイの袖へ戻ってくる。

「今夜、泊まれるかい?」

「空きはあるよォ」

「部屋は上か?」

「見りゃ分かるだろォ?」

「裏にも寝る場所があるのかと思ってね」

アタイは笑ったまま男を見る。

泊まり客が部屋を気にするのは珍しくない。

けれど、この男が知りたいのは自分の寝床ではない。

夜になった時、誰がどこにいるのか、店に何人残るのかだ。

「親父さんも夜は起きてるのかい?」

「客次第だねェ」

「この辺りは物騒だろ。女が夜まで店先にいて、怖くないのか?」

心配している声ではなかった。

アタイが怯えるかどうかを試している。

「何が怖いんだい?」

「盗賊も出ると聞く」

「アンタも気をつけなァ?」

男は盃を指先で回した。

「馬を裏へつないでもいいか?」

「馬がいるのかい?」

「ああ、少し離れた所に置いてきた」

アタイは男の足元を見る。

草鞋は新しい。

裾に泥はついているが、長く歩いた人間の汚れ方ではない。

馬から離れて店へ入ったにしては、荷も妙だった。

「連れは今夜ここへ来るのかい?」

男が一瞬だけ黙る。

「さあな。間に合えば」

笑ってごまかした。

父ちゃんは厨房に立ったまま、こちらを見ない。

いつもなら客をどうするのか決める時、何かしら合図があった。

水を頼んだり、奥の椀を取れと言ったり、厨房へ呼んだりする。

今日は何もない。

アタイが見る番なのだ。

男は二杯目を頼んだ。

酒を取りに戻り、張青の横を通ったところで小さな声がした。

「二娘お嬢」

「何さ?」

「俺を見る時だけ、あの男は笑わねぇ」

それだけだった。

使えとも、帰せとも言わない。

アタイは酒甕の前に立った。

棚は、手を伸ばせば開く。

父ちゃんが隣へ来る。

「どう見る?」

答えを教える気はないらしい。

「一人じゃない」

「そうか」

「泊まりたいんじゃない。夜の店を見たいんだよォ」

父ちゃんは客の方を見なかった。

「それで?」

その先まで、アタイに言わせる。

喉が乾いた。

帰す客なのか、金を落として帰す客なのか、泊めて帰す客なのか。

それとも――帰さなくていい客なのか。

昨日までなら、父ちゃんが決めていた。

アタイは知らない顔をして、水や酒を運べばよかった。

でも、今日は違う。

「帰さない」

父ちゃんの表情は変わらなかった。

「なら、開けろ」

棚を示された。

アタイは動けなかった。

父ちゃんに命令されたからではない。

先に決めたのは、アタイだ。

棚を開け、布巾をどけて紙包みを取る。

昨日より軽く感じた。

父ちゃんが包みを開くと、中には白とも灰色ともつかない物があった。

必要な分だけ、アタイの前へ置く。

「混ぜろ」

指が止まった。

客席から男の声が飛んでくる。

「二娘ちゃん、遅いな」

馴れ馴れしい。

けれど、それだけで決めたわけではない。

店を測り、父ちゃんと張青を確かめ、夜の人数を聞いた。

部屋と裏戸の位置を探り、連れについては答えを濁した。

アタイは蒙汗薬を盃へ落とした。

酒を注ぎ、わずかに揺らす。

何も見えなくなった。

その瞬間、大学の講義が蘇った。

これくらいなら、と思えることを一つずつ重ねていく。

水を出し、酒を運び、見ない顔を覚え、紙包みを持って名前まで知った。

そのうえ客を自分で見分けるようになり、今は自分で選んだ客の酒へ薬を混ぜている。

どこからが酷いことだったのか、もう分からなかった。

「二娘お嬢」

張青の声に振り向く。

「顔」

それだけで分かった。

アタイは息を吐き、盃を持つ指から力を抜いて口元を上げる。

張青が眉を寄せた。

「上げすぎだ」

「うるさいねェ」

少しだけ笑みを消した。

何なの、この接客指導。

元妖艶なお姐さん助教に笑顔の作り方を教えるんじゃないよォ。

……いや、今は助教じゃない。

十字坡の看板娘だった。

その事実が、冗談より少しだけ重かった。

客席へ戻る。

男は卓へ肘をついて待っていた。

「遅かったじゃないか」

「待たせたねェ」

アタイは盃を置く。

男の手が伸びた。

まだ止められる。

こぼしてしまえばいい。

落としたふりでもできる。

間違えたと言えばいい。

男は盃を持ち上げ、酒を口へ運んだ。

喉が動く。

アタイは何も言わなかった。

「やっぱり、いい店だ」

「そうかい?」

「夜までいれば、もっと良くなるかね」

「さあねェ?」

男は二口目を飲んだ。

アタイは水場へ戻る。

父ちゃんは包丁を動かし、張青は戸口に座ったままだった。

誰も褒めないし、責めもしない。

いつもの店の音だけが続く。

やがて男の声が遅くなった。

盃を置く音が重くなり、身体を支える椅子が軋む。

知っている音だった。

けれど、今日は違う。

あの酒を作ったのは、アタイだ。

男が額を押さえた。

「酒が……強いな」

父ちゃんが答える。

「疲れてるんだろ」

常連の一人が男の後ろへ回り、もう一人が戸口へ寄る。

いつもの形ができていく。

男は立とうとして卓へ手をついたが、脚に力が入らない。

「何を……」

目がアタイを探した。

さっきまでの笑いは消えている。

アタイは水桶のそばに立ったまま、逃げもせず、奥へも下がらなかった。

その時、男の腰から小さな笛が落ちた。

父ちゃんが拾って手の中で確かめる。

常連が荷を開けば、縄と布に包まれた短い刃物が出てきた。

さらに油の染みた布と火打ち石まである。

どう見ても、ただの旅支度ではない。

父ちゃんがアタイを見る。

「間違えなかったな」

その瞬間、胸の奥で何かが緩んだ。

怖かったからではない。

安心したのだ。

この男ならよかった。

アタイの判断は正しかった。

蒙汗薬を入れてもいい客だった。

そう思った。

男が裏へ運ばれ、戸が閉まったあと、店には何事もなかったような静けさが戻った。

父ちゃんは拾った笛を卓へ置き、張青は何も言わない。

アタイは空になった盃を下げた。

指は、もう震えていなかった。

夢で見た実験の名前は、最後まで思い出せなかった。

アタイは盃を洗いながら考えた。

どこで止まればよかったのかは、もう分からない。

振り返った時には、止まれた場所はもう、ずっと後ろにあった。

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