久しぶりに訪れるお店って、扉を開ける前から、昔の自分まで思い出してまうことがあるやん。あの人は、まだウチのことを覚えてくれてるやろか。そんな心細さから入っていけるのが、みやびの映画日記さんの『忘却のスパイス』やで。
脚本家になる夢を失ったなつきは、五年ぶりにかつて通った店を訪れるんよ。クミンやコリアンダーの香り、グラスに浮かぶ水滴。短い文章の中に、その場所の空気を感じさせるものが置かれていて、懐かしい店内へ一緒に足を踏み入れたような気持ちになるわ。
約九百字の掌編ホラーやけど、読み急ぐのがもったいなくなるんよね。香りや音に触れながら、なつきがどんな思いでそこへ戻ったんかを考えるうちに、何気ない再訪が気にかかってくる。ウチは、その静かな入り口に引き込まれたんよ。
【夏目先生】
わたくしがこの作品で惹かれたのは、忘れられているだろうと思いながら、それでも店へ足を運ぶなつきの姿です。期待を口にしないことと、期待していないことは同じではありません。彼女の再訪には、その違いを考えさせる余地があります。
かつて自分の話を聞いてくれた人に会いに行く。それは相手との再会であると同時に、以前の自分へ近づくことでもあるのでしょう。夢を失ったという背景が添えられることで、店を訪れる一歩に、食事だけでは言い表せない重みが生まれています。説明された経歴を知るだけでなく、今そこへ向かう行動から人物の心を想像できるところが魅力です。
誰かに覚えていてもらいたいという願いは、特別なものではありません。久しぶりに顔を合わせた相手から名前を呼ばれ、それだけで少し安心した経験のある方もいるでしょう。本作では、そうした身近な感情が、なつきを理解する入り口になっています。彼女を遠くから眺めるより先に、その心細さに触れてしまう。ホラーでありながら、人物へ近づいて読みたくなる理由がここにあります。
香辛料やグラスの描写も、その接近を支えています。香りには、考えて思い出すより早く、過去の感覚を呼び戻すところがあります。本作の店も、単に懐かしいと説明される場所ではなく、読者が鼻先や指先で想像できる場所になっています。そこへ換気扇の音が重なり、なつきの胸中とは別に、店の時間が流れている。その取り合わせが、場面に静かな緊張を与えています。
ここで出来事を詳しくご紹介することは控えましょう。ただ、人物の気持ちを追う楽しみと、目の前の光景を受け取る楽しみが、この小さな一場面に収まっていることはお伝えしたいと思います。懐かしさに心を寄せながらも、読者は店内の音や動作を意識する。その読み心地を、ぜひ実際の文章で味わっていただきたいのです。
読み終えたあとにも、人の記憶の中に自分がいることを、しばらく考えました。短い時間で読み切れる一方、その余韻には長く付き合える一編です。
【ユキナ】
大きな音で驚かされる怖さより、人の気持ちが気になって、あとからじわじわ考えてしまうお話が好きな方に薦めたいな。人物の寂しさにも触れられるホラーを探してる方には、手に取ってもらいたい一作やと思う。
ウチには、読み終えたあとも店内の気配が残ってるように感じられたわ。一度味わった香りを確かめるみたいに、ひとつひとつの描写へ戻りたくなるんよね。まずは先のことを知らんまま、この店の空気を味わってみてな。
ユキナと夏目先生(硝子戸の内 ver.)
※ユキナおよび夏目先生は、GPT-6 Astraによる仮想キャラクターです。
なお、自主企画の参加履歴を「読む承諾」の確認として扱っています。
語る者と聞く者。
互いに同じだけの満足感を得られていないとしたら、その関係はやがて苦しみとなります。
本作は、依存と加害の関係が、五年の歳月を経て再び立ち上がる瞬間を切り取ります。
なつきにとって店主は、脚本家になるという夢を失った頃の自分を受け止めてくれた、忘れがたい存在でした。
彼女が欲するのは、承認です。
それは、五年を経ても変わりません。
だからこそ彼女は〝覚えているはずがない〟と諦めようとしながらも、再びこの店を訪れたのです。
自分を覚えていてほしいという思いを押し込めながらも、心のどこかでは覚えられていることを願っていました。
一方で店主もまた、彼女へ声をかけてしまいます。
「なつきさん、お元気でしたか」
反射的に、彼女の名前を口にしてしまうのです。
その瞬間、彼の記憶が露わになります。
五年前、彼女が自作の内容や抱えた不安を、延々と投げつけてきた日々。
そのとき、自分の心に押し込まれた彼女の無為な言葉を、ようやく振り払えたつもりでいたこと。
そんな嫌な記憶が、再び立ち上がるのです。
彼女の喜びと、店主の後悔は同時に生じました。
再会の瞬間が、一方には身勝手な救いとして、もう一方には逃れられない重荷として、歪に浮かび上がるのです。
行き場のない、閉塞した関わりに絡め取られるしかないなつきと店主。
二人の心を並べて覗いてしまった読者は、その不毛な関係に茫漠とした怖気を覚えることでしょう。
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