きみの世界に、わたしはいなかった
mikan0606
前編
「織原さん、だよね? ――ごめんね、最近ちょっと物忘れが激しくて」
放課後の写真部室。
夕暮れのオレンジ色が差し込む部屋で、一ノ瀬透子は申し訳なさそうに眉を下げて笑った。
その瞬間、私の心臓は冷たい氷を押し当てられたように凍りついた。
織原さん。
そう呼ばれたのは、1年前に私たちが付き合い始めて以来、初めてのことだった。
いつもは「詩織」と、あの心地いい響きで呼んでくれていたのに。
「……ううん、大丈夫だよ、透子」
私が努めて平静を装って微笑むと、透子は「ありがとう」と言って、部室の机に置かれたカメラに視線を落とした。
その瞳には、昨日まで私に向けられていたはずの、狂おしいほどの愛おしさは欠片も残っていなかった。
ただの「親切なクラスメイト」を見る、どこか距離のある優しさだけがそこにあった。
――一番大切な人の記憶から、順番に消えていく。
それが、透子の身体を蝕んでいる奇病の正体だった。
最初は、二人で行った遊園地の名前が出ないだけだった。
次は、記念日にプレゼントしたお揃いのキーホルダーを見て「これ、どこで買ったんだっけ」と首を傾げた。
そして今日、ついに私の名前が、彼女の記憶の引き出しから消えてしまった。
「ねえ、織原さん。この写真に写ってるのって、もしかして私?」
透子が部室の壁に貼られた1枚の写真を指差した。
それは、昨年の夏祭りで撮った写真だ。
浴衣を着た透子が、カメラに向かって大輪のひまわりのような笑顔を咲かせている。
その隣には、顔が真っ赤になるほど照れながら、透子と手を繋いでいる私が写っていた。
「うん。去年の夏祭りだよ。透子、すっごく浴衣が似合ってた」
「そうなんだ……。ごめんね、私、全然思い出せなくて。でも、すごく楽しそうだね。私、この隣にいる子のこと、大好きだった気がするの」
透子は写真の中の私の顔を、愛おしそうに指先でなぞった。
その本人の心が、目の前で泣きそうな顔をしているというのに。
胸の奥が引き裂かれるように痛かった。
叫び出してしまいたかった。
私はここだよ、あなたの隣にいるのは私だよ、と。
けれど、それを言えば透子を追いつめ、苦しめるだけだとわかっていた。
病気が発覚した夜、透子は私の胸でボロボロと涙を流しながら、何度も何度も私を抱きしめた。
『忘れたくないよ、詩織。もし、万が一、私が詩織のことを全部忘れちゃっても……私、絶対に、何度でも詩織に恋をするからね。だから、置いていかないで』
あの夜の温もりも、涙の熱さも、透子はもう覚えていない。
交わした約束は、私一人の境界線に取り残されてしまった。
「ねえ、透子」
私はカメラを構え、レンズを透子に向けた。
「写真、撮ってもいい?」
「ええ、いいよ! 綺麗に撮ってね」
透子はレンズに向かって、いつものように無邪気な笑顔を見せる。
ファインダー越しに見る彼女の瞳は、どこまでも澄んでいた。
私との思い出が消えていくたびに、彼女の心は皮肉にも、何の傷もない綺麗な状態へと巻き戻されていく。
カシャ、と静かなシャッター音が部室に響く。
この写真が現像される頃、彼女は私のことをどれくらい覚えているだろう。
カメラを握る私の指先が、微かに震えていた。
刻一刻と迫る、完全な忘却のタイムリミット。
私たちの世界の終わりは、すぐそこまで来ていた。
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