第4話 翡翠の首輪
朝。
知らない町の朝は、昨日の夜とはまた違っていた。
高層マンションの窓に朝日が反射し、その足元では商店が次々と暖簾を出している。
無人配送車が路肩に止まり、白い機械腕が木箱を一つずつ店先へ運ぶ。
スーツ姿の男が小さな神社の前で一礼してから駅へ向かい、その頭上を銀色の交通機が静かに通り過ぎていった。
パンの焼ける匂い。
出汁の匂い。
どこか遠くから、鐘の音が一つ。
「…………」
「タケル」
「ん?」
「どれ?」
「何が?」
「さっきから店ばっかり見てる」
「見てねぇよ」
「見てるよ」
「町を見てんの」
「食べられる町?」
「そういう見方もある」
「ないよ」
二人は宿を出て、大通りを歩いていた。
今日は、この町を出る。
昨日決めた通り、北へ。
――そのはずだった。
◇
「あれ」
真白が足を止めた。
「ん?」
大通りから少し外れた、小さな広場。
朝から何人かの子供が遊んでいる。
その端。
一人だけ、ベンチに座っている男の子がいた。
七つか八つくらいだろうか。
膝の上には、小さな紙袋。
時々その中を覗いては、顔を上げて広場の入口を見る。
また紙袋を見る。
また入口を見る。
「…………」
タケルがその子を見る。
そのまま歩く。
十歩。
十五歩。
止まった。
「…………」
真白も止まった。
「なんだよ」
「何も言ってないよ」
「顔が言ってんだろ」
「何を?」
「戻るんでしょ?」
「……ちょっと気になっただけだよ」
「うん」
「その顔やめろ」
二人は来た道を戻った。
◇
「なあ」
声をかけると、男の子が顔を上げた。
「何してんの?」
「待ってる」
「誰を?」
「ポン太」
「友達?」
「うん」
男の子が紙袋を少し開く。
中には、小さな木の実が入っていた。
「これ好きだから」
タケルがしゃがむ。
「来ねぇの?」
男の子は頷いた。
「四日」
「四日?」
真白もしゃがんだ。
「毎日ここに来るの?」
「うん。朝」
「野生の霊獣?」
「うん」
「どんな子?」
男の子が端末を取り出した。
何度か画面を触る。
「これ」
写真が浮かんだ。
茶褐色の毛。
丸い耳。
短い四肢。
身体と同じくらいある、ふさふさした尻尾。
男の子の膝に前足を乗せ、口を開けている。
首には赤い布の首輪。
その中央に、小さな緑色の石がついていた。
「ああ」
真白が少し身を乗り出す。
「ヤマコだね」
「ヤマコ?」
タケルが聞く。
「人里の近くにもいる小型霊獣。木の実とか果物が好きなんだ」
「へぇ」
「警戒心は強いけど、一度懐くと同じ場所に何度も来る」
「じゃあ、四日来ねぇの変じゃね?」
「……少しね」
男の子が写真を見つめる。
「雨の日も来た」
「うん?」
「雪の日も」
紙袋を握る。
「ぼくが風邪で来れなかった時は、家まで来た」
タケルが男の子を見る。
「だから……」
小さな声。
「待ってたら、来ると思って」
「…………」
タケルは立ち上がった。
「探すか」
「え?」
男の子が顔を上げる。
「ポン太」
「……探してくれるの?」
「まあ、見つかるか分かんねぇけど」
「タケル」
「ん?」
「今日、北へ行くんじゃなかった?」
「明日でいいだろ」
「うん」
「なんだよ」
「別に」
真白が少し笑った。
タケルは男の子を見る。
「最後に見た場所、分かる?」
「うん!」
さっきより少し大きな声だった。
◇
ポン太が最後に目撃されたのは、広場から三つ先の通りだった。
交差点の端にある案内端末へ、真白が写真を送る。
『確認します』
穏やかな女性の声。
数秒後。
『該当個体と推定される霊獣を、四日前、午前七時四十二分に確認しています』
「おお」
タケルが画面を覗き込む。
町の地図が空中に開いた。
小さな光点が一つ。
「追えんの?」
『公開記録の範囲内であれば可能です』
「すげぇな」
『ありがとうございます』
「褒めたら返事すんの?」
『褒められましたので』
「…………」
タケルが真白を見る。
「俺より会話うまくね?」
「比較するところ?」
『続けて追跡しますか?』
「お願いします」
真白が答えた。
『承知しました』
光点が動き始める。
大通り。
路地。
小さな商店街。
さらに西へ。
そして――
消えた。
「あれ?」
『以降の記録は確認できません』
「なんで?」
『対象が記録範囲外へ移動した可能性があります』
真白が地図を拡大する。
「この辺、古い区画だ」
「古い?」
「再開発がまだ進んでない。監視設備も少ないみたい」
「昨日あんだけ見られてたのに?」
「町全部が同じじゃないんだよ」
「便利なんだか不便なんだか」
「昨日は窮屈って言ってたけどね」
「細けぇな」
タケルが地図を見る。
「ここまで行けばいいんだな?」
「たぶん」
「じゃ、行こうぜ」
◇
歩くにつれて、町の姿が少しずつ変わっていった。
高層マンションが減る。
巨大な壁面映像も、空を走る高架も、いつの間にか見えなくなった。
代わりに低い集合住宅が並び、軒先には洗濯物が揺れている。
古い木造家屋の屋根には薄い発電膜。
色褪せた商店の看板の下では、人型の配達機が店主らしい老婆と世間話をしていた。
「今日も暑くなりますよ」
「昨日も聞いたよ」
「昨日も暑かったですから」
「口だけは達者になって」
「最新型ですので」
老婆が笑う。
配達機も笑った。
タケルは横目で見ながら通り過ぎる。
新しいものと、古いもの。
綺麗なものと、少しくたびれたもの。
昨日見た中心街とは違う。
けれど、ここにも普通に暮らしがあった。
「この辺だね」
真白が端末を見る。
「最後に記録された場所」
「どこ行ったんだろうな」
「分からない」
「真白でも?」
「僕を何だと思ってるの」
「苔博士」
「それは否定しない」
「否定しろよ」
真白がふと足を止めた。
「……ちょっと待って」
「ん?」
道路脇の植え込み。
真白がしゃがみ込む。
葉の間から、一本の毛をつまみ上げた。
「これ」
「毛?」
「うん」
「ポン太?」
「断定はできない。でも、ヤマコの毛には見える」
タケルもしゃがむ。
じっと見る。
「…………」
「どう?」
「毛だな」
「毛だね」
「お前なんで分かんの?」
「色と太さ。あと先端の形」
「……怖ぇよ」
「褒めてる?」
「半分」
真白が周囲を見る。
少し先の土。
「こっちかも」
「今度は何?」
「足跡」
「どこ?」
「そこ」
タケルが見る。
「…………」
「見える?」
「土しか見えねぇ」
「よく見て」
「土だな」
「もういいよ」
「お前、研究所行けよ」
「いつでも行けるから」
「腹立つなぁ、天才」
真白が笑った。
◇
さらに奥へ進む。
人通りが減っていった。
古い線路が一本、草の中へ伸びている。
今は使われていないらしい。
線路の向こうには、いくつかの倉庫。
壁には蔦が這い、屋根の一部が落ちている。
街灯に残された監視装置は、レンズが割れていた。
「……全然違うな」
「うん」
「中心街からそんな離れてねぇだろ?」
「歩いて一時間もかかってないね」
風が吹いた。
伸びた草が、一斉に揺れる。
錆びた金属板が、
カン。
と鳴った。
「なあ、真白」
「なに?」
「ポン太、なんでこっち来たんだ?」
「分からない」
「毎朝あの子んとこ行ってたんだろ?」
「うん」
「四日前だけ急に?」
「……そうなるね」
二人の歩く速度が少し落ちた。
◇
「タケル」
「ん?」
真白が止まる。
草むらの手前。
「これ」
地面に、細い赤色の糸が落ちていた。
真白が拾う。
「写真の首輪と同じ色に見える」
「…………」
タケルの表情が変わる。
「近い?」
「たぶん」
二人は周囲を見回した。
「ポン太ー!」
タケルの声が、古い倉庫の間に響く。
返事はない。
「ポン太ー!」
もう一度。
風だけが抜けていく。
少しして。
かすかに。
キュゥ……。
二人が同時に振り向いた。
「今」
「うん」
倉庫の裏。
草を掻き分ける。
もう一度。
キュ……。
「……いた」
真白が小さく言った。
草むらの奥。
茶褐色の小さな身体がうずくまっている。
「ポン太?」
タケルが近づこうとする。
「待って」
真白が腕を出した。
「怪我してる」
「…………」
前足。
脇腹。
茶色い毛は泥で汚れ、その一部に乾いた血がこびりついていた。
呼吸も浅い。
それでもポン太は二人を見ると、身体を起こそうとする。
「いいよ。動かなくて」
真白がゆっくりしゃがんだ。
声を落とす。
「大丈夫。何もしないから」
ポン太の耳が動く。
少しだけ、身体から力が抜けた。
「タケル。反対から」
「分かった」
二人がゆっくり距離を詰める。
その時。
タケルの目が止まった。
「……真白」
「なに?」
「首」
赤い首輪。
ところどころ布が裂けている。
中央には、写真と同じ緑色の石。
朝の光を受けて、透き通るように光っていた。
「これ……」
真白の目が細くなる。
「翡翠だ」
「ヒスイ?」
「うん」
少し近づいて見る。
「たぶん、かなり質がいい」
「高ぇの?」
「この大きさでも、それなりには」
「…………」
タケルが首輪を見る。
赤い布。
その一部が、不自然に伸びていた。
留め具には、細い傷がいくつも走っている。
引っ掛けただけには見えない。
「…………」
タケルがしゃがんだ。
ポン太を見る。
四日間、帰ってこなかった小さな霊獣。
傷だらけの身体。
そして、その首に残った翡翠。
タケルがゆっくり手を伸ばす。
「大丈夫だ」
ポン太がこちらを見る。
「もう取らねぇよ」
真白がタケルを見る。
タケル自身も、なぜそう言ったのか分からなかった。
風が抜ける。
赤い首輪についた小さな翡翠が、かすかに揺れた。
タケルはしばらく、それを見ていた。
第四話 翡翠の首輪 了
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