第42話 次に歌う場所

 大学から戻ったのは、午後4時を少し過ぎた頃だった。


 玄関を開けると、廊下の奥からおばあちゃんとひよりの声が聞こえてくる。


「晴人、おかえり」


「ただいま。買い物行ってたの?」


 居間へ顔を出すと、テーブルの上にはスーパーの袋が三つ並んでいた。


 ひよりはその中から牛乳や卵を取り出し、おばあちゃんは日用品を仕分けしている。


「行ってきた。洗剤が思ったより重かったけど」


「それ、俺が持つって言ったら断ったやつでしょ」


「今日はおばあちゃんがいたから大丈夫」


 そう言って、ひよりは買ってきたプリンを冷蔵庫へ入れた。


 以前なら近所のコンビニへ一人で行くだけでも、玄関先で何度も帽子を直していた。


 今日は人の多いスーパーから戻ってきたというのに、買い物そのものより特売の卵が安かった話をしている。


 俺がそれ以上何も言わず自室へ向かおうとした時、廊下の反対側から真帆さんの声が聞こえた。


「え、来週?」


 ピアノのある部屋の扉が少しだけ開いている。


 電話中らしい。


 足音を立てないよう通り過ぎかけると、


「ごめん、依緒里。もう一回、最初から聞かせて」


 という声が続いた。


 そこで相手が誰なのか分かった。


 着替えて課題を広げてから30分ほど経った頃。


 扉が軽く叩かれる。


「瀬戸君、今大丈夫ですか?」


「大丈夫ですよ」


 真帆さんが顔を覗かせた。


 いつもの明るさはある。


 ただ、何かを考えながらここまで来たようで、スマートフォンを両手で持ったまま部屋へ入ってきた。


「さっき、依緒里から電話があったんです」


「聞こえました。来週どうとか」


「そこまで聞こえてました?」


「廊下通った時だけですけど」


「じゃあ、ちょうどいいか」


 真帆さんはそう言って、机の横にある椅子へ腰を下ろした。


「依緒里、来週から少しずつ仕事に戻ることになったみたいです」


 活動自粛が解除されるらしい。


 いきなり以前と同じ量の仕事へ戻すのではなく、まずはレッスンとグループの練習へ参加し、様子を見ながら復帰時期を決めるという話だった。


「良かったですね」


「はい。それは本当に」


 真帆さんの表情も柔らぐ。


 ただ、それだけを伝えに来たわけではないらしい。


「それで、来週の練習に来てほしいって言われました」


「真帆さんが?」


「私が」


 自分を指して、苦笑する。


「依緒里、最近ずっと私に歌見てもらってたじゃないですか。そのことを榎本さんにも話してたみたいで」


 元マネージャーの榎本さんは、真帆さんが辞めたあとも依緒里の担当チームと連絡を取ることがあるらしい。


 依緒里が復帰前の練習に不安を抱えていると知り、真帆さんとの電話練習についてスタッフにも共有した。


「私が今まで言ったこと、ボイストレーナーの先生にも伝わってるみたいなんです」


 真帆さんはスマートフォンを開いた。


 榎本さんから届いた文章を見せてくれる。


『依緒里がかなり頼りにしてる。来週の自主練、一度来てみない? 仕事としてじゃなくていい。成瀬先生も、鷺沢がどう教えてるのか少し興味あるって』


「成瀬先生?」


「昔、私たちのボイトレ見てくれてた先生です」


 名前を口にした時、真帆さんの顔に少しだけ懐かしさが浮かんだ。


「すごく厳しい人で。デビュー前、何回泣かされたか分かんない」


「怖い先生?」


「怖かったですよ。でも、下手だから怒る人じゃなくて、分からないまま誤魔化すと絶対見抜く人でした」


 それなら、真帆さんが今やっていることにも気づいたのかもしれない。


 依緒里へ感覚だけで伝えるのではなく、自分なりに説明しようとしていることに。


「行くんですか?」


 尋ねると、真帆さんはすぐには答えなかった。


 スマートフォンの画面を消し、膝の上で両手を重ねる。


「行きたいです」


 そこで一度、言葉が切れる。


「でも、場所が昔使ってたスタジオの近くなんですよ」


 東京にあるレッスン施設。


 Stella Note時代、何度も通った一帯らしい。


「駅も同じで。多分、改札出たら何も考えなくても昔の道歩けるくらい」


 軽く笑ったものの、指先はスマートフォンの縁をなぞっていた。


「久しぶりに近づくと思うと、ちょっとだけ嫌な感じもするんです。辞める直前のことまで一緒に思い出しそうで」


 以前なら、そんな不安を口にせず「大丈夫です」と笑っていたのかもしれない。


 今は、自分でも確かめるようにゆっくり話していた。


「依緒里さんに来てほしいって言われたんですよね」


「はい」


「なら、とりあえず依緒里さんの練習を見に行くって考えたら?」


 真帆さんが俺を見る。


「先生になるとか、仕事にするとかは、まだ何も決まってないんですよね」


「……そうなんです」


「じゃあ、来週決めなくてもいいじゃないですか」


 真帆さんは少し黙った。


 そのあと、張っていたものがほどけたように息を吐く。


「瀬戸君って、こういう時は本当に簡単にしますね」


「難しくした方がいいですか?」


「いいえ。今はそれくらいが助かります」


 笑いながらスマートフォンを開く。


 榎本さんへの返信欄を出し、数行だけ打った。


『行きたいです。依緒里の練習、見させてください』


 一度読み返し、そのまま送る。


「送っちゃった」


 真帆さんは画面を見たまま呟いた。


 後悔している声音ではなかった。


 夕食の頃には、榎本さんから時間と場所の連絡まで届いていた。


 真帆さんは食卓で、そのことを自分から話した。


「来週、東京に行ってきます」


 おじいちゃんが箸を止める。


「仕事か?」


「まだ仕事じゃないです。依緒里の練習を見に行くだけで」


「なら見てこい」


 いつも通り、それだけだった。


 おばあちゃんは帰りの時間と電車だけ確認し、


「遅くなるなら駅まで迎えに行くからね」


 と伝える。


「ありがとうございます。でも、多分夕方には戻れます」


 真帆さんがそう答えたところで、ひよりが味噌汁の椀を置いた。


「真帆、東京行くの久しぶりだよね」


「辞めてからは初めて」


「そっか」


 ひよりは少し考えるように真帆さんを見る。


「怖い?」


 尋ね方は静かだった。


 真帆さんも取り繕わなかった。


「ちょっとね。でも、行くって返事したあと、嫌だとは思わなかった」


「じゃあ大丈夫そう」


「そのくらいで送り出す?」


「無理そうなら帰ってくればいいじゃん。榎本さんもいるんでしょ?」


「……ひよりも瀬戸君みたいになってきた」


 真帆さんが苦笑する。


「何それ」


「すぐ話を簡単にするところ」


「晴人と一緒にしないでよ」


「そこまで嫌がる?」


 俺が口を挟むと、ひよりが笑った。


 夕食の空気は、そのまま別の話題へ移っていった。


 九条さんは途中まで黙って聞いていた。


 やがて、焼き魚の骨を箸で外しながら真帆さんへ尋ねる。


「その練習を見たあと、もし教えるのが楽しいって思ったらどうするんですか?」


「それも行ってから考えます」


 真帆さんは少し考えてから続ける。


「私、自分が歌うことしか知らなかったので。教える側のことは本当に何も分かってないんです。依緒里一人なら、昔一緒に歌ってたから癖も分かるけど、誰にでもできるとは思ってないし」


「でも、興味はある?」


「あります」


 今度は迷わなかった。


「前よりずっと」


 九条さんはその返事に、小さく頷いた。


 何か言いたそうにも見えたが、結局そのまま魚へ視線を戻した。


 食後。


 俺が風呂へ行こうと廊下を歩いていると、ピアノの部屋から声をかけられた。


「瀬戸君」


 振り返ると、真帆さんが扉から顔を出している。


「今、時間ありますか?」


「風呂入る前なので少しくらいなら」


「じゃあ、ちょっとだけ来てください」


 部屋の中には真帆さん一人だった。


 ピアノの譜面台には何も置かれていない。


「何か練習ですか?」


「今日は違います」


 真帆さんは椅子へ座り、鍵盤の蓋を開けた。


「前に約束したじゃないですか」


 指が白い鍵盤へ触れる。


「『帰り道の星』、今度はちゃんと最後まで歌うって」


 庭で短く歌った時にも、同じ話をしていた。


「ああ」


「来週東京行く前に、一回歌っておきたくなって」


「何で俺に?」


 聞いたあとで、第35話のことを思い出した。


 昔の真帆さんをほとんど知らない俺だから、今の自分の歌を聴いてほしいと言われた夜。


 真帆さんも同じことを思い出したらしい。


「この前と同じです」


 少しだけ照れたように笑った。


「私が今どう歌ってるのか、瀬戸君に聴いてほしいから」


 それ以上理由を足さず、鍵盤へ向き直る。


 最初の音が、静かな部屋に落ちた。


 以前聞いた時より、力が抜けているように感じた。


 俺が歌の技術に詳しくなったわけではない。


 ただ、最初にこの曲を聴かせてもらった夜は、真帆さんが俺の反応を何度も窺っていた。


 今日は、最初の数小節を過ぎる頃にはこちらを見なくなった。


 自分の呼吸に合わせて伴奏を進め、声を重ねる。


 庭で聞いた短い一節の先にも、まだ曲は続いていた。


 派手に高い音が続く曲ではない。


 静かに始まり、途中から少しずつ音が広がっていく。


 真帆さんの声も、それに合わせるように厚みを増した。


 最後の音が消えても、しばらく部屋には何も聞こえなかった。


 真帆さんが鍵盤から指を離す。


「……どうでした?」


 振り向いた顔には、少しだけ緊張が戻っている。


「やっぱり好きです」


「曲が?」


「曲もですけど、真帆さんの歌」


 口にしてから、少し直接的だったかと思った。


 けれど真帆さんは笑わなかった。


 目を僅かに見開いたあと、ゆっくり息を吐く。


「ありがとうございます」


 声はいつもより少し小さかった。


「前に聴いた時と違いました」


「分かります?」


「上手く説明できないですけど、今日は途中から俺がいるの忘れてそうでした」


 真帆さんが一瞬きょとんとする。


 それから、肩を揺らして笑った。


「それ、褒めてます?」


「多分」


「瀬戸君、本当に褒め方独特ですよね」


 そう言いながらも、嬉しそうだった。


 ピアノの蓋を閉じず、そのまま鍵盤へ手を置いている。


「私、来週行ってみて、教える方ももっとやりたいって思うかもしれません」


「はい」


「逆に、やっぱり自分で歌う方が好きだって思うかもしれない」


 窓の外から、庭の虫の声が薄く聞こえてくる。


「どっちでもいいのかなって、最近思うんです」


 真帆さんは自分で言ったあと、少し考えた。


「いや、どっちかじゃなくてもいいのかも」


 教える日があってもいい。


 自分で歌う日もあっていい。


 まだ何者になるかを決める必要もない。


 そこまで言葉にはしなかったが、真帆さんの顔を見れば、焦って一つに決めようとしていないことは分かった。


「瀬戸君」


「はい」


 真帆さんがこちらを見る。


「東京から帰ってきたら、また聴いてくれますか?」


「もちろん」


「今度は今日と違う歌でも?」


「いいですよ」


「じゃあ約束です」


 そう言って笑ったあと、真帆さんは少しだけ視線を落とした。


「外で歌うことが増えても、たまに瀬戸君には聴いてほしいです」


 さっきより小さな声だった。


「私が今どう歌ってるのか、ちゃんと知っててほしいから」


 返事を急かすような言い方ではなかった。


 俺は少し考えてから頷く。


「俺でよければ」


「瀬戸君がいいんです」


 すぐに返ってきた。


 一瞬、何を言えばいいのか分からなくなる。


 真帆さんも自分で口にしてから気づいたのか、少し頬を赤くして鍵盤へ視線を戻した。


「……変な意味に聞こえました?」


「ちょっとだけ」


「忘れてください」


「無理じゃないですか?」


「そこは努力してください」


 真帆さんが顔を隠すようにピアノの蓋へ手を伸ばす。


 その様子がおかしくて、俺も少し笑った。


「もう今日は終わりにします」


「喉休めるんでしたっけ」


「はい。依緒里に言ってることを、自分でも守らないと」


 真帆さんはピアノの蓋を閉じ、椅子から立ち上がった。


 部屋を出る直前、スマートフォンが震える。


 画面を確認した真帆さんが、すぐに笑った。


「依緒里からです」


「何て?」


「『来てくれるって聞きました。本当にありがとうございます』って」


 その下には、泣いている顔と笑っている顔の絵文字がいくつも並んでいるらしい。


 真帆さんは返信欄を開きながら廊下へ出た。


「何て返すんです?」


「『私も見に行きたいから行くんだよ』って」


 言いながら、そのまま送信する。


「おやすみなさい、瀬戸君」


「おやすみなさい」


 真帆さんは自分の部屋へ向かっていった。


 廊下の先で扉が閉まったあとも、さっきまで聞いていた曲の最後の音だけは、しばらく耳に残っていた。

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