第12話


天井の木目を数えながら迎えた翌朝、わたしの胸のなかには、昨日主治医の先生が告げた「一生入院」という言葉が、呪いのように重くこびりついて離れなかった。

――このままだと、一生、外に出られない。

その恐怖は、人に会うことの怖さや、自分の殻に閉じこもっていたいという甘えを、無理やりねじ伏せるには十分すぎるほど強烈だった。

ベッドの上で何度も何度も「動かなきゃ、出なきゃ」と自分を鼓舞し、震える手でパジャマから普段着に着替えた。四日ぶりに袖を通した服は、なんだか自分の体にひどく冷たく、よそよそしく感じられた。

ドアノブに手をかける。

手のひらは冷や汗でぐっしょりと濡れていて、ノブを滑りそうになるのを必死に抑え込んだ。

ここで引き返したら、本当に終わりだ。一生この白い部屋の住人になってしまう。その崖っぷちの焦燥感に背中を押されるように、わたしは思い切ってドアを開けた。

廊下の蛍光灯の光が、何日ぶりかの目にやけに痛い。

足元はまるで水飴の上を歩いているように重く、ふらふらと頼りなかった。それでも、壁に手をつきながら、わたしはとりあえず人が集まる場所――プレイルームへと向かった。

プレイルームの自動ドアが開くと、そこにはいつもの澱んだような空気が漂っていた。

テレビの音が小さく流れていて、窓際のテーブルには何人かの患者が座っている。みんな、それぞれの世界に閉じこもるようにして、トランプをしたり、雑誌をめくったり、あるいはただぼんやりと虚空を見つめたりしていた。

――話しかけなきゃ。誰かに、何か、言葉を交わさなきゃ。

そう思わなければ、ここから一歩も進めないことは分かっていた。

主治医の言う通り、自分で殻を破らなければ、誰もわたしを救い出してはくれない。分かっているのに、いざ大勢の人がいる空間に放り出された瞬間、心臓がバクバクと暴れだし、呼吸が浅くなっていった。

最初に目に入ったのは、窓の近くの椅子に一人でポツンと座っていた若い女の子だった。

わたしより少し年上だろうか。膝の上に置いたノートに、何度も同じ線をぐるぐると書き続けている。

「あの……、こんにちは」

絞り出すような、か細い声だった。

女の子はぴくりと肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。

その瞬間、わたしの足がすくんだ。

女の子の目は、どこか一点を虚ろに見つめたまま、わたしという人間をまったく捉えていなかった。焦点の定まっていない黒目が、不気味なくらい大きく見開かれている。

「……線、引いてるの。こうやって、まっすぐ、線を引かないと、全部が崩れちゃうから……。ねえ、あなた、線、歪んでるよ。歪んでるでしょ?」

怯えたような、それでいてヒステリックな鋭さを孕んだ声で、女の子はそう早口でまくし立てた。

「ち、違う、わたしは……」

「来ないで! わたしの線に触らないでよ!」

女の子が急に声を荒らげたものだから、プレイルームにいた他の患者たちの視線が一斉にこちらに集まった。

ギョッとした目、怯えた目、あるいは値踏みするような冷ややかな目。

その無数の視線が、一斉にわたしに突き刺さる。

「っ……!」

息が止まった。

頭の中で警報音が鳴り響く。

みんながわたしを見ている。わたしが変なことをして、周囲を波立てた「おかしな人間」だと思っている。

たまらなくなったわたしは、その場から逃げるように踵を返し、廊下へと飛び出した。

逃げ込んだのは、自動販売機が数台並ぶ狭い通路だった。

冷たい壁に背中を預け、必死に息を吸い込もうとするけれど、肺の中に空気が入ってこない。過呼吸の足音が、頭の中でカンカンと響く。

怖い。みんな、怖かった。

あそこにいた人たちは、かつてのわたしと同じ、あるいはもっと深く壊れてしまった人たちだ。誰もが自分の心を守るのに必死で、他人の痛みに寄り添う余裕なんて一ミリもない。

「普通」の人間社会から弾き出された人間が集まるこの場所では、誰もが互いを警戒し、怯え合っている。

――わたしも、あの中の一人なんだ。

あの人たちと同じように、周りから見れば「近づいてはいけない不安定な人間」に見えているんだ。

その事実に気づいた瞬間、胸の奥から冷たい絶望がこみ上げてきた。

それでも、「これじゃダメだ、まだ他の人にも……」という焦りが、わたしを再び動かした。

プレイルームは無理でも、廊下ですれ違う人なら、あるいは――。

次にわたしが見かけたのは、ナースステーションの近くの椅子に座っていた初老の男性だった。

白髪交じりの髪をボサボサに逆立て、手元にある小さなプラスチックのコップを、ただひたすらガチャガチャと鳴らし続けている。

すれ違うとき、わたしは勇気を振り絞って、かすれた声で声をかけた。

「あの……お疲れ様です、って……」

男性はぴたりと手の動きを止め、ゆっくりと顔を上げた。

その目は血走り、唇が異様に乾いていた。

彼はじっとわたしを凝視したあと、突然、不気味ににやりと笑った。

「お疲れ様? なんだ、お前も『向こう側』の人間か? いいか、ここはな、神様が人間を捨てたゴミ捨て場なんだよ。誰も助けに来ない。お前も、ここで一生、腐り果てるまで数を数えるんだよ、ふはは……っ!」

乾いた、狂気じみた笑い声。

心臓が凍りついたように止まった。

頭が真っ白になり、足元から崩れ落ちそうになる。

男性が立ち上がろうとした気配を感じた瞬間、わたしのなかの恐怖が限界を超えた。

「――ひっ……!」

小さな悲鳴を飲み込み、わたしはそこから全速力で走り出した。

スリッパが床を滑り、自分の荒い息づかいと、心臓の鼓動だけが耳の奥でうるさく反響する。

まわりの視線が、看護師たちの驚いた顔が、すべて敵のように思えた。全員、わたしの味方じゃない。

誰も彼もが怖かった。この病院にいる人間すべてが、わたしを狂気に引きずり込もうとする怪物のように感じられて、正気でいられそうになかった。

一目散に自分の部屋に飛び込むと、勢いよくドアを閉め、鍵をガチャリとかけた。

そのまま、ドアの木目に背中を預けたまま、ずるずると床へ崩れ落ちる。

「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」

過呼吸で肺が引き裂かれそうだ。

手足が激しく震え、冷や汗がとめどなく流れる。

外に出た。主治医の言う通り、勇気を出して外に出て、いろんな人に話しかけてみた。

けれど、その結果がこれだった。

誰も優しくしてくれない。誰もわたしを受け入れてくれない。

この病院にいる人たちはみんな傷ついていて、お互いに怯え合っていて、誰かと心を通わせるなんて、最初から不可能なことなんだ。

「怖い……怖かった……もう、無理だ……」

両手で頭を抱え込み、わたしは床の上で小さく丸まった。

外に出れば何か変わるかもしれないという淡い期待は、ものの見事に打ち砕かれた。

人と話すことは、傷つくことだった。外の世界へ出ることは、自分の無力さと異常さを思い知らされるだけの、残酷な拷問だった。

「どうして……どうしてわたしは、こんなところにいるんだろう……」

誰にも聞こえない声を絞り出しながら、わたしは再び、あの冷たい一人部屋の暗闇のなかで、震え続けることしかできなかった。

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