第27話 カナタ
すぅ……。
すぅ……。
静かな部屋に、小さな寝息が響いています。
ユイの右には――
うーちゃん。
いつものように、ユイの服を小さな手で、
きゅっ。
そして左には――
つい最近、この家に新しく加わったモモンガの精霊。
もらったばかりの外套を、大切そうに――
ぎゅっ。
抱きしめて眠っていました。
◇
「…………」
ぱちっ。
モモンガの子が目を覚まします。
まだ少し眠そうな目で――
真っ先に確認したのは、自分が抱きしめているもの。
「…………!」
そこには。
ユイからもらった外套。
「…………」
ぎゅっ♡
「ある♡」
「なくならないよ」
「!」
隣から聞こえた声に、モモンガの子が振り返ります。
ユイが笑っていました。
「ゆめじゃなかった♡」
「うん」
ずっと飛び越えられなかった木を、初めて越えた。
もっと遠くへ。
もっと先へ。
その願いを叶えてくれた――
大切な外套。
モモンガの子は、もう一度それを――
ぎゅっ。
反対側では。
「…………」
もぞ。
うーちゃんが起き上がります。
でも――
目はまだ半分しか開いていません。
「おはよう」
「ユイ……」
ぺた。
ぺた。
そのままユイへ近づいて――
ぎゅっ♡
「まだ眠いんだ」
「……うん♡」
「もうちょっと寝る?」
「…………」
ふるふる。
でも。
ぎゅっ。
「起きるけど離れないんだ」
「……うん♡」
「はいはい」
なで。
なで。
そんな二人を――
モモンガの子が楽しそうに見ていました。
◇
しばらくして。
三人で朝ごはん。
「おいしい♡」
「おいしい♡」
二人並んで――
もぐ。
もぐ。
すっかり見慣れ始めた光景です。
「…………」
ふと。
うーちゃんが隣を見ました。
「?」
「おなまえ」
「?」
「なんてよぶの?」
「…………」
モモンガの子が、きょとん。
「…………」
ユイも――
ぴたっ。
「あ」
「?」
「名前……」
そういえば。
この子には――
まだ名前がありません。
「聞いてなかった」
「ないよ」
「ないんだ!?」
「うん」
本人は、いたって普通です。
「…………」
ユイは椅子から降りると、その子の前へしゃがみました。
「じゃあ――」
「?」
「名前、ほしい?」
「…………」
少しだけ考えて。
こくん。
「ほしい♡」
「そっか」
「…………!」
その瞬間。
うーちゃんの顔が――
ぱあっ♡
「モモちゃん♡」
「モモちゃん♡」
「そのままだね」
「モモちゃん♡」
「モモちゃん♡」
二人で顔を見合わせて――
「えへへ♡」
「…………」
ユイは苦笑します。
「もうそれで決まりそうなんだけど」
でも――
「…………」
ふと。
昨日の夜のことを思い出しました。
◇
月明かりの差し込む窓辺。
小さな飛膜を広げて。
あの子は言いました。
『もっと――』
『とおくまで、とびたい』
窓の外にある木を指して。
『あの木より』
『もっと』
『もっと』
そして――
夜空を見上げて。
『ずーっと』
『とおくまで♡』
「…………」
昨日。
母のひざ掛けから作った――
小さな外套。
それを翼のように広げて。
初めて――
あの木を越えた。
『ユイーーー!』
空から聞こえた声。
『とべたよーーー!』
あのときの。
嬉しそうな笑顔。
「…………」
ユイの中に――
一つの言葉が浮かびました。
「……あ」
「?」
「?」
二人がユイを見ます。
「名前」
「?」
「一つ――」
ユイは、にこっと笑いました。
「思いついた」
そして。
モモンガの子を見て――
「――カナタ」
「…………?」
「かなた?」
「うん」
うーちゃんも首を傾げています。
「遠くのことをね」
ユイは言いました。
「『彼方』っていうんだよ」
「…………」
モモンガの子が、小さな声で繰り返します。
「かなた……」
「もっと遠くまで飛びたいって――言ってたでしょ?」
「うん」
「だから」
ユイは、少しずれていた外套を――
そっと整えてあげます。
「どこまでも遠くへ」
「…………」
「彼方まで飛んでいけるように」
そして。
優しく笑って。
「カナタ」
「あなたの名前」
「…………」
モモンガの子は、自分を指差しました。
「わたしの?」
「うん」
「カナタ?」
「うん」
「…………!」
ぱあっ♡
「わたし――」
胸に手を当てます。
「カナタ♡」
「うん」
「カナタ♡」
もう一度。
そして――
もう一度。
「カナタ♡」
何度呼んでも。
嬉しい。
「ユイ!」
「なに?」
「よんで♡」
「カナタ」
「…………♡」
「もういっかい♡」
「カナタ」
「えへへ〜♡」
「そんなに?」
「うん♡」
その横で――
「…………」
うーちゃんがカナタを見ます。
「カナタ♡」
「!」
「カナタ♡」
「うーちゃん♡」
ぎゅっ♡
二人はそのまま抱き合いました。
「すっかり仲良しだね」
その瞬間。
きらっ。
「!」
ユイの胸元で――
青いペンダントが光りました。
そして。
カナタの外套も――
ぽう……。
「…………!」
「ひかった♡」
「うん」
この前も――
同じように光りました。
でも。
「…………」
違う。
この前より――
明らかに強い。
ユイは少し考えて。
「カナタ」
「?」
「イズナ、呼ぼっか」
「イズナ♡」
「コヨリ♡」
◇
ぷるるる……。
『もしもし?』
「イズナ?」
『なに?』
「ちょっと来てほしいんだけど」
『今から?』
「うん」
『何かあった?』
「たぶん」
『“たぶん”で呼ぶのやめて』
「だって私にも分からないんだもん」
『…………』
「カナタに名前をつけたら――」
『カナタ?』
「あ。モモンガの子の名前」
『決まったんだ』
「うん。それで――」
ユイは胸元のペンダントを見ます。
「また光ったの」
『…………』
「この前より強く」
少しだけ。
電話の向こうが静かになります。
『分かった』
「来てくれる?」
『行く』
「ありがとう」
すると――
電話の向こう。
『うーちゃんいる!?』
「!」
うーちゃんの長い耳が――
ぴくっ。
「今、コヨリの声に反応した?」
「コヨリ♡」
「聞こえてないと思うよ」
◇
しばらくして――
ピンポーン。
「はーい」
がちゃ。
「来たよ」
「うーちゃーん♡」
「コヨリ♡」
ぺたぺたぺた!
コヨリとうーちゃんは――
ぎゅっ♡
「…………」
イズナが二人を見ます。
「来て早々これ」
「仲良しだからね」
「それで?」
「あ、そうだった」
「忘れないでよ」
ユイはカナタを前へ。
「あと、紹介」
「?」
「名前、決まったよ」
カナタは一歩前へ出ると――
ちょっと得意げに。
「カナタ♡」
「カナタ?」
「彼方まで飛んでいけるように」
「…………」
イズナはカナタを見る。
そして。
この前作った外套を見て――
にこっ。
「いい名前じゃん」
「えへへ♡」
◇
「それで」
ユイは胸元の青いペンダントを持ち上げました。
「これ」
「…………」
「名前をつけた直後に――」
きらっ。
「!」
まるで示すように。
ペンダントが――
もう一度、淡く光ります。
「……やっぱり」
「分かるの?」
「カナタ」
「?」
「外套、見せて」
「うん」
カナタが外套を――
ぎゅっ。
そして。
少しだけ広げると――
ぽう……。
「!」
外套も、青い光に反応しました。
「この前――」
イズナが言います。
「この外套ができた時点で、二人の間に“絆の形”はできてた」
「うん」
「でも」
イズナはカナタを見る。
「今日、名前をもらった」
「?」
「この子が――」
少し笑って。
「ちゃんと“カナタ”になった」
「…………」
ユイはカナタを見る。
「たぶん」
「また『たぶん』?」
「だから、こんなの毎回初めてなんだって」
「それはそうだけど」
「でも」
イズナは青いペンダントを指しました。
「もう――いけると思う」
「…………」
「換装」
「…………!」
カナタの目が輝きます。
ユイはその子の前へしゃがみました。
「カナタ」
「!」
「やってみる?」
こくん!
「やる♡」
◇
家の庭。
ユイとカナタが――
向かい合います。
少し離れたところには。
イズナ。
コヨリ。
そして――
うーちゃん。
「…………」
うーちゃんが、カナタのところへ歩いていきます。
ぺた。
ぺた。
そして。
カナタの手を――
きゅっ。
「?」
「がんばって♡」
「…………!」
カナタは、にこっ。
「うん♡」
うーちゃんが離れます。
今度は――
ユイが手を差し出しました。
「カナタ」
「うん」
カナタも。
その手を――
ぎゅっ。
きらっ。
青いペンダントが光ります。
「ユイ」
「ん?」
「いっしょに――」
満面の笑顔で。
「とぼ♡」
「……うん!」
ふわあっ!
カナタの身体が――
光に包まれます。
外套も――
ふわっ。
「…………」
その小さな姿が。
少しずつ――
光の中へ消えていく。
そして。
カナタの実体が――
消えました。
その光が。
ユイへ――
ばさっ!
強い風が、一気に庭を吹き抜けます。
「…………!」
うーちゃんの長い耳が――
ふわっ。
◇
光がおさまります。
「…………」
そこに立っていたのは――
ユイ。
いつもの制服を基調に。
昨日、カナタへ贈った外套を思わせる――
軽やかな装い。
腕を広げれば。
翼のように展開する布が――
風を受けて。
ふわっ。
――換装。
〈モデル・カナタ〉。
「…………!」
ユイが一歩――
たっ。
「!」
「軽い……」
「カナタは飛ぶ精霊だからね」
「じゃあ――」
ユイは。
ほんの少しだけ――
地面を蹴りました。
たっ!
「…………え?」
ふわっ!
「わっ!」
一気に身体が浮かびます。
「お姉ちゃん!」
「思ったより高い!」
「楽しそう」
「焦ってるだけ」
そして――
「…………」
ひゅっ。
「ちょっと待って!」
今度は落ち始めます。
「これどうやって降りるの!?」
「カナタに聞いて!」
「どうやって!?」
その瞬間。
胸の奥で――
ふわっ。
「…………」
何かを感じました。
声ではありません。
言葉でもありません。
それなのに――
分かる。
――ひらいて。
「…………!」
ユイは両腕を――
ぱっ!
ばさっ!
外套が。
翼のように――
大きく広がりました。
すると。
落下が――
ふわっ。
「…………!」
ゆっくりになる。
風が――
外套を支えています。
すーーーっ。
「…………」
下には。
イズナたち。
自分の家。
木々。
今まで。
地面から見上げていたものが――
下にある。
「私……」
風に髪をなびかせながら。
「飛んでる……!」
◇
そして。
胸の奥から――
もう一つ。
――もっと。
「…………」
――もっと、とおくへ。
「…………」
「ふふっ」
誰の気持ちなのか。
考える必要もありません。
「分かった」
ユイは身体を――
前へ。
外套が。
風をつかみます。
「行こう、カナタ!」
胸元の青い宝石が――
きらっ!
シュッ!
「!」
一気に――
加速。
「速い……!」
「イズナより?」
「比べなくていい」
「でも速い」
「コヨリ」
空の上。
ユイは身体を傾けます。
「こっち……!」
すっ!
「!」
方向が変わる。
「できた!」
もう一度。
くるっ!
風に乗って――
空を自由に滑っていく。
「…………」
楽しい。
その気持ちまで。
胸の奥から――
重なってくる。
ユイは右手を伸ばしました。
「…………?」
風が――
集まってくる。
「これ……」
「お姉ちゃん!」
「?」
「あれ!」
イズナが指差したのは――
風に舞っている一枚の葉。
「狙ってみて!」
「どうやって!?」
「カナタに聞いて!」
「またそれ!?」
でも――
「…………」
もう。
分かっていました。
腕を――
すっ。
外套が。
風を集める。
「…………」
そして。
「こう!」
シュッ!
小さな――
風の刃。
ひらひらと舞っていた葉を――
すぱっ。
「…………!」
「なるほど」
「?」
コヨリがイズナを見る。
「カナタは――」
イズナは空を飛ぶユイを見上げました。
「空中移動」
「高速機動」
「それに――」
切れた葉が、ひらひらと落ちてきます。
「風の攻撃」
「攻撃型だ」
◇
「よし……」
ユイは大きく旋回します。
すーーーっ。
今度は。
ゆっくり。
ゆっくり。
そして――
ぽすっ。
「…………」
無事に着地。
「どうだった?」
「…………」
ユイは自分の外套を見ました。
そして。
にこっ。
「楽しい」
「カナタと同じ顔してる」
「え?」
ユイは青いペンダントへ――
そっと触れます。
きらっ。
外套が。
光の粒へ――
ふわ……。
そして。
ぽんっ。
「…………!」
小さなカナタが――
戻ってきました。
「カナタ」
「ユイ!」
ぴょんっ!
そのまま――
ぎゅっ♡
「とんだ♡」
「飛んだね」
「ユイも♡」
「うん」
「いっしょに♡」
「うん」
ぎゅうっ。
◇
「うーちゃんは、なおす」
「なおす♡」
「私は狐火」
「ぽうっ♡」
「ぽうじゃない」
「…………」
そして。
コヨリはカナタを見ます。
「それで――」
「?」
「カナタは飛ぶ」
「…………」
カナタは。
自分の腕を見ました。
小さな飛膜。
以前は――
ほかの子より少し小さいことを。
気にしていました。
もっと遠くへ行きたいのに。
あと少し。
ほんの少しだけ――
届かなかった。
「…………」
でも。
カナタは外套を――
ぎゅっ。
「うん♡」
そして。
腕を――
ぱっ。
小さな飛膜。
その外側で――
外套が。
ふわっ。
「わたし――」
「?」
満面の笑顔で。
「とぶの、だいすき♡」
「…………」
ユイも――
にこっ。
「知ってる」
◇
夕方――。
カナタは。
いつもの少し高い場所に立っていました。
「いくよー!」
腕を――
ぱっ。
外套が――
ふわっ。
そして。
たっ!
ふわっ――!
「カナター♡!」
「うーちゃーん♡!」
「カナター!」
空から――
ぶんぶん!
「ユイー♡!」
昨日まで。
届かなかった場所。
その先へ。
もっと。
もっと――
遠くへ。
名前がなかった――
小さなモモンガの精霊。
今日。
一つの名前を――
もらいました。
――カナタ。
どこまでも遠く。
彼方まで――
飛んでいけるように。
風をつかんだ小さな外套が――
青空の中。
ふわっ。
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