第一章 誰も知らない日常

第一話

 春が近づいてきたといえども、午後の日差しが傾き始めた街には、まだ冬の名残が色濃く残っていた。動きやすさを重視した簡素な和服に、同じく黒の羽織をひとつ重ねて防寒しているが、首元は無造作に開いたまま。ぶるりと震えると、首をすくめた。

 神社仏閣の多い白峰町の片隅にある、ひとけのない神社。その鳥居をくぐり、男はぽりぽりと頭をかいた。

「たぶん、ここだと思うんだけどな」

 柊木一ひいらぎはじめは、片手に持った紙袋を軽く振りながら呟いた。その中には、依頼主が用意した香り高い鰹節が入っていた。

『玉ちゃんはね、私が丹精込めて削り上げたこの鰹節かつおぶしが大好物なの!』

 一にとってはただの鰹節にしか見えないが、依頼主のご婦人・絹子きぬこさん曰く、黒猫の玉ちゃんはこの匂いが好きでたまらないらしい。

 玉ちゃんは、艶やかな毛並みとまるまるとした堂々たる体格を持つ立派な黒猫だ。一は絹子さんの家の縁側で、屋敷の主のように昼寝をしている姿を何度か見かけたことがあり、玉ちゃんとは顔なじみだった。一が近づけばちらりと一瞥をくれたものの、人間など眼中にないといった風で、いつも優雅に伸びをしていた。

(絹子さん、あいつがしょっちゅう勝手に出歩いてること知らないんだよな。あれだけ目を細めて可愛がってるってのに、まったく罪なやつだ)

 一は小さくため息をついた。実のところ、玉ちゃんが家を抜け出すのはこれが初めてではない。一は何度か、商店街の路地や川沿いの道をトコトコと歩く玉ちゃんを目撃したことがある。

 しかし今回ばかりは、ついにその自由気ままな生活が依頼主に発覚してしまったらしい。涙ながらに依頼された一は、こうして猫たちのたまり場になっている神社に足を運んでいた。

 神社の境内には斜めの陽が差し、石畳に長い影を落としていた。咲き始めた梅の花が、冷たい風にかすかに揺れている。一は静かに境内を見渡すと、社の裏へ回った。

 彼は立ち止まり、猫の鳴き声を探すように耳を澄ませた。

「さて、どこに隠れたもんかね」

 視線を巡らせながら、柱の陰、石灯籠いしどうろうの裏、落ち葉が積もった隅を順に探していく。黒猫というだけあって、建物の影や木陰に紛れると見つけづらい。一は目を皿のようにして、境内の隅々に視線を走らせた。

「いた、玉ちゃ……って、違う」

 黒い影を見たかと思えば、それはただの野良猫。黒猫など、別に珍しくもない。期待を込めて黒い影を見つける度に、肩の力が抜けていく。

「あーもう、まぎらわしいやつらだな!」

 堪らず声に出すと、からすが馬鹿にするように鳴く。しかし、何度目かの落胆をこらえて顔をあげたそのときだった。 カサリ、と枯葉が鳴った。

 期待を込めて身を乗り出すと、石段の影からぬるりと黒い影が動いた。逞しい身体にこちらをじっと見つめる金色の瞳は、今度こそ本物の玉ちゃんだった。一は胸の内でそっと掌を握りしめた。

「よぉ。ついに抜け出してたのがバレちまったんだな」

 一は、紙袋を軽く振りながら玉ちゃんに向かってニヤリと笑いかけた。玉ちゃんは一をじっと見上げている。気品と警戒が入り混じった、猫特有の曖昧あいまいな眼差しだった。

 風は、一の立つ位置から社の奥へと向かって吹いていた。紙袋を開き、絹子さんが用意した鰹節をひと掴み取り出すと、風下の玉ちゃんへと匂いを漂わせる。透き通るような薄さのそれは指先からふわりと舞い上がり、落ち葉に混じるように地面へと落ちていった。かすかに回転しながら宙を舞う様子は、舞台の幕開けを知らせる紙吹雪のようだ。

「え」

 しかし、鰹節が地面に落ちることはなかった。草むら、屋根の上、鳥居の陰。あちこちから気配が動き出す。風に誘われるように、野良猫たちが姿を現すのにさして時間はかからなかった。がりがりに痩せた三毛、片耳の白黒、ずんぐりとした茶虎。皆、目を爛々と輝かせている。

「話が違うぞ」

 気がつけば、一はあっという間に猫たちに囲まれていた。野良猫たちは、手に持った紙袋に熱い視線を送りつつ、互いをけん制し合っている。ぴりぴりとした空気の中、誰が先に飛びかかるかを見極めるように、それぞれの足が微かに動いていた。

 野太い「にゃーお」の鳴き声が、開戦の号令だった。 次の瞬間には、鰹節をめぐる乱戦が勃発した。お前らやめろと声をあげても、猫たちの爪が容赦なく飛び交い、紙袋を守ろうとする一の手元に何本もの前脚が伸びる。

 一方玉ちゃんはというと、どこ吹く風とばかりに前足をぺろりと舐めていた。薄目を開けて、一と野良猫たちの喧騒を冷ややかに見下ろしている。その落ち着き払った態度に、ついにいらだちを隠せなくなった。

「こ、こんにゃろう」  

 残っていた鰹節を手のひらでひとつかみし、あさっての方向へ力任せにばら撒く。ひらひらと舞う香ばしい破片に、野良猫たちはすぐさま走り出した。一はその隙を逃さず、素早く玉ちゃんに手を伸ばす。

 やや乱雑に、だが傷つけないよう丁寧にその体を掴んだ。そのまま一の腕の中へ、すっぽりと納まる。絹子さんに日頃から抱き上げられているからか、さすがに人なれしているようだった。ようやく捕まえたというのに、抱き心地は妙にしっくりきて腹立たしい。

「手こずらせやがって」

 しっかりと玉ちゃんを抱きかかえたあと、再び野良猫たちが襲いかかってこないよう、紙袋の中に残っていた鰹節をぱらぱらと地面へばら撒いた。「それ、私の分だったのに」とでも言いたげに、不満げなひと鳴きが聞こえてきた。

「やかましい。お前は家に帰ったら、たらふく貰えるんだぞ」

 一がぼやくと、玉ちゃんはぷいと顔を背け、ふんと鼻を鳴らした。

 一人と一匹は、野良猫たちの騒動を背に、白峰町しらみねちょうの神社をあとにした。坂を下り、瑞流川ずいりゅうがわに沿って南へ歩き始める。せせらぎの音に混じって、河原で石を跳ねさせて遊ぶ子どもたちの笑い声が聞こえてきた。水面には夕日が反射し、朱に染まった光がゆらゆらと揺れている。

 やがて、人通りが多く賑やかな街並みへと移り変わっていった。ここは首都、澄原すみはら。この国で一番栄えた都だ。

 腕の中で大きな欠伸をする玉ちゃんを見下ろす。

(呑気なもんだ。こっちは傷だらけだってのに)

 そんなふうに内心で毒づきながら、少しばかり口元を緩める。このまま依頼主のもとに届ければ、きっと満面の笑みで出迎えてくれるに違いない。

(まあ、これで依頼も無事に完了だ)

 とはいえ、野良猫たちに引っかかれた腕の傷がずきずきと痛む。「薬代ぐらい請求していいかな」と小さくぼやいた。

 一の家であり仕事場でもある「柊影堂しゅうえいどう」は、すぐそこだ。どこぞから流れてくる煮炊きの匂いに腹を鳴らしつつ、足早に絹子さんのもとへと向かった。



 *



「玉ちゃんったら、心配したんだから! 本当にもう、どこに行ってたのよ!」

 依頼主の絹子さんは、愛猫を胸にぎゅっと抱えながら、涙ぐんでいた。

 黒猫の柔らかな毛並みが、絹子さんの頬にすり寄るたびに夕映えの光を受けて艶めく。過度な愛情表現にも逆らわず、なされるがままに身を預けていた。

 一は、血の滲む右手の痛みにじっと耐えながら、口元だけで愛想笑いをつくった。目の前で繰り広げられる光景を、どこか遠いもののように眺めながら。

 何でも屋として様々な依頼を引き受ける彼にとって、猫探しは大事な仕事の一つである。依頼を受け、黒猫の玉ちゃんを見つけ出したはいいものの、まさか野良猫の縄張り争いに巻き込まれるだなんて、さすがに考えもしなかった。

「本当に、玉ちゃんがいなくなった時は、どうなることかと。この子がいないと、私……」

「よかったですね」

 一は絹子さんの言葉にかぶせるように、柔らかく微笑んだ。

「ところで、そろそろ日も暮れます。ここは寒いから、長居すると風邪ひいちゃいますよ」

 言ったあとに、少しだけ後悔する。今の言葉は、早く帰ってくれないかという気持ちが滲み出すぎていた気がしたからだ。

 しかし一の思惑は杞憂きゆうに終わった。玉ちゃんの不満そうな鳴き声に、絹子さんは「そうね、そろそろ晩御飯の時間だものね」と頷いたのだ。一は心の中で、玉ちゃんに小さく感謝を述べた。

「本当にありがとうございました」

「ええ、またいつでもお待ちしていますよ」

 営業用の笑みを浮かべながら、立ち上がる絹子さんの背について店の外まで出る。絹子さんの背中が次第に小さくなっていくのを、一はしばらくのあいだ無言で見送っていた。

 空の色は徐々に深みを増し、茜が紫紺しこんの空に溶けていく。通りには淡い灯りが点々と浮かび、夕餉ゆうげの支度に追われる人々の気配が町を満たした。

 一は、野良猫との格闘でこわばっていた体をほぐすように軽く肩を回しながら、今夜の晩御飯は何にしようかとぼんやり思案する。見上げた視線の先に、いつもの看板が目に入った。

 柊影堂と書かれたその看板は、木製で、黒い塗料の文字が少しだけ剥がれかけている。この看板は一が十代後半で独り立ちし、今日まで続けてきた年月を静かに語っているようだ。風雨に晒されて年季の入ったその姿が、一の歩んできた時間と重なる。

「よう、元気にしてるか」

 そのとき、聞き慣れた男の声が、一の思案を破るように届いた。伸ばしていた背を戻しながら目を向けると、男はゆったりと歩み寄り、親しげに片手を上げてきた。その姿を見て、言葉よりも先に小さく息を吐いた。

「たった二日しか経ってないのに、久しぶりも何もないだろ」

「二日も空けば立派な久しぶりだ」

 口を大きくあけて豪快に笑う。その笑いにつられるようにして、一も呆れたように口元を緩めた。

 篠崎源しのざきげんは、一にとって育ての親のような存在だった。血のつながりこそないが、柊影堂を立ち上げる前から傍にいて、仕事のいろはも生活の知恵も叩き込んでくれた。今でもこうして折を見ては顔を出し、飯の面倒を見たり、愚痴を聞いたり、鬱陶しいほどに世話を焼く。ありがたいような、迷惑なような、そんな存在だった。

「で、お前このあと予定あるか? ないだろ?」

「ないけど、その言い方腹立つな」

「なら、千草ちぐさにでも行こうぜ。どうせ一人で、さもしい飯でも食う気だったんだろ? おごってやるよ」

「いいけど。どうせ、みねさんに会いに行く口実だろ」

「ははっ、まあな。ほら行くぞ、早く行かないと席が埋まっちまう。みねの料理は絶品だからな」

 毎度ながら強引に事を進めようとする。一はしぶしぶ、大柄な源の背中についていく。だが、決して嫌な気持ちではなかった。

 源はいつもの調子で、とりとめのない話を続けていた。適当に相槌を打ちながら、頭の中では何を食べるかばかり考えていた。

「一兄ちゃん!」

 角を曲がった時、そんな元気な声に呼び止められた。優太郎ゆうたろうの姿に気づいた一は、目を細めながら、彼の目線に合わせるようにしゃがみ込んだ。

「あんまり走るな。前足、また痛めるぞ」

「大丈夫だよ、もう治った」

 一は笑いながら、彼の頭をがしがしとなでた。その手に、猫につけられた傷がずきりと疼き、思わず声が出そうになる。

 一がこの少年と知り合ったのは、ちょうどひと月前のこと。河原で足をくじいて動けなくなっていた彼を助けて以来、一の事務所からそう遠くない場所に住んでいることも発覚し、今ではすっかり懐いてしまった。

「なあ兄ちゃん、また今度、かくれんぼしような」

「いいけど、お前本当に足は治ったんだろうな。この前まだ完治してなかったろ」

「治ったよ。ほら、この通り」

 優太郎はその場で元気に跳ねる。確かに彼の言うことに嘘はないようだ。

「よし、じゃあ約束な。もう暗いから、家に帰れ」

 そう一が声をかけた時、背後から優太郎の母親の声が飛んできた。通りの向こうに立つ彼女は、一に軽く会釈をして、穏やかな笑みを浮かべている。

 しかし、一に向けられる視線の奥底には、何かを探るような色がひそんでいる。それは時に、目を逸らしたくなるほどの鋭さを湛えていた。

 胸の奥に、かすかなさざ波のような感覚が広がる。張りつめた糸のような視線は、一にとって慣れ親しんだものだ。

 優太郎の母親は、今度は源にも意味ありげな視線を送ると、お辞儀をして去っていった。

 源は二人の背中を見送りながら眉をひとつ動かし、ふんと鼻を鳴らした。

「お前も、つくづく苦労なこったな」

「いい加減慣れたよ」

 一の声は、静かだった。けれどその奥で、町のざわめきがどこか遠く、膜を隔てた向こう側の音のように感じられる。

 意識をすれば、見える。軒の影、看板の裏、すれ違う人々の瞳。そのどれもが一を捉えることなく通り過ぎていくようでいて、静かに監視の視線を落としてくる。

 誰にも知られず、誰にも近づけぬ、影の狭間に身を置き続けるということ。それが、一という男の日常だ。

 源は肩をすくめ、気を取り直すように息をついた。

「まあいい。みねの料理で気を取り直すぞ」

 歩き出した源の背中に、無言でついていく。切り替えるように頭を振って、みねの店へと急いだ。


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