第28話「先生、個人情報です」
八月二日、
茜空の下、群衆の見守る青森の大通りに、巨大な山車が集まっていた。
宵闇に包まれたころ、囃子方が動き出し、祭囃子が始まった。
最初の山車がゆっくりと滑りだした。
菅沼は執筆作業を中断し、テレビに視線を向けた。
祭囃子が激しく鳴り響く。
煌々とオレンジ色に輝く山車の前で、花笠を被り、浴衣の裾を端折った跳人たちが『ラッセーラ、ラッセーラ』と叫びながら片足で跳ねている。
片手に持った団扇を扇ぎ、跳ねるたびに裾が大きく膨らむ。
腰に付けた鈴のしゃりん、しゃりんと鳴る音まで聞こえる。
ねぶたはときどき停まり、大きく旋回したり、道路脇の観客へ迫ったりしていた。
探す気にもなれないほど、人が多かった。
葉子は青森に帰省している。
菅沼は一年中東京にいる。
ねぶたを見ていると、葉子と同じものを目にしていると思えて、寂寥感が和らいだ。
*
青森にいる葉子から一枚の写真が送信された。
メッセージを開くと、くたびれた顔の大型犬の頭に、小ぶりな茄子の精霊牛がちょこんと乗っていた。
『お盆です』
もうすぐお盆だ。
『かわいいね』
そう返信した。
ややあって、またメッセージがきた。
『どちらがですか』
きみが、だよ。
思ったが文章にしなかった。
『どっちも』
お盆が明ければ葉子は帰ってくる。
菅沼は、機嫌よく編集との打ち合わせに向かった。
*
「先生。去年の朝顔の種を蒔いたのです」
「朝顔市で買ったやつ?」
「はい。今年も綺麗に咲きました」
そういって葉子は、写真を見せてくれた。
青と紫の朝顔が咲いていた。
「去年、種がたくさん採れたので、実家にも持って行って蒔いてもらうことにしました」
「そんなにたくさん採れるんだ」
「はい」
「今年は俺に預けなかったけど」
「友だちに頼みました」
「そう……」
「女性じゃないと、部屋に入れないので」
「そうだね」
*
夏になると、葉子は白い日傘を差し、白いワンピースを好んで着ているようだった。
菅沼はそれが好きだった。
特に背景が青空であれば、それは夏の概念として完成されすぎていた。
その日は昼過ぎから分厚い黒い雲が湧き立っていた。
「雷が鳴りそうですね」
「そうだね」
冷たい風に、雨の匂いが混じっていた。
「もう帰る?」
葉子は空を見上げながら静かに首を振った。
不穏な黒い雲を背景にしても、葉子は葉子だった。
ふたりで喫茶店に入り、カウンター席に座った。
まもなく、大粒の雨が窓ガラスを叩きはじめ、すぐに大降りになった。
一瞬、白く光って、あとから地響きのような雷鳴が響いた。
「先生」
「うん」
「東京は、よく夕立がきますね」
「青森はないの?」
「あるにはありますが、こんなに多くありませんね」
「そうなんだ」
葉子は窓の外を眺めていた。
雨宿り。
菅沼は時計を見た。
いつまで雷雨は続くだろうか。
別に、いつまでも続いても構わなかった。
*
「先生は、家庭教師をしたことがありますか」
映画を見た帰りに、葉子が言った。
「家庭教師はしたことないな。塾講師はしたけど」
「そうなんですね」
「バイト探してるの?」
葉子は、五月頃に書店のバイトを辞めていた。
「探してるというか」
葉子は言った。
「します」
「決めたの?」
「はい」
「家庭教師?」
「はい」
菅沼は黙った。
何も聞かされてなかった。
いや、俺に何の権限もないけど。
「大学の求人で見つけました」
「もう応募したの?」
「採用されました」
「採用まで!?」
菅沼はびっくりした。
葉子は全くいつも通りの無表情だった。
「高校生?」
「はい」
「男?」
「先生」
「なに」
「個人情報です」
そう言われたら何も聞けなかった。
葉子のラインに足をかけた気がして、菅沼は静々と引き下がった。
でも気になるだろうが。
男子高校生のもとに葉子さんが行ったら。
「……頑張ってね」
「はい」
どうか俺のときのような、無警戒な距離の取り方をしませんように。
菅沼は初詣もしていない神へ、心の中でそっと手を合わせた。
後日それとなく聞き出すと、担当は女子高生とのことだった。
菅沼はひとり肩の荷が下りた気がしたが、そもそも何も背負っていない。
*
赤とんぼが飛んでいた。
井の頭公園のベンチに、ふたり並んで座っていた。
葉子が実家から送られてきたという林檎を、籠に詰めて渡してくれた。
「つがるという品種です」
「へえ」
菅沼は、籠の中から林檎を一つ取り出した。
赤く艶々とした林檎だった。
甘酸っぱい香りがした。
「こんなにたくさん貰っていいの?」
「ひと箱送られてきたので」
「多いね」
「冷蔵庫で、冷やしてから食べてくださいね」
「ありがとう」
林檎を戻し、籠を膝の上に置いた。
「そういえば、もう文化祭の準備してるの?」
「はい」
「映研は何をするの?」
去年はショートムービーだったが。
「今年は映研の催しには参加しないのです」
「そうなの?」
「友だちのサークルのお手伝いを頼まれていまして」
去年も似たような話だった気がする。
「ちなみに何をするの?」
「紅茶サークルのお手伝いです」
「去年、メイド喫茶やってたところ?」
「はい」
菅沼は、額を片手で押さえた。
「またメイド喫茶?」
「好評だったそうです」
「するの?」
「私は裏方です」
去年も似たような流れだったよな。
視える。
メイド服を着て給仕をする葉子が。
愛想のかけらもない、綺麗なだけの無表情まで。
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