第5章 雨を守るもの
十八日目。
第四放水路の入口には、駆除禁止と書かれていた。
【生物保全区画】
【設備・生態共同管理区域】
【許可なき捕獲、損傷、駆除を禁ずる】
「駆除局なのに?」
燈花が表示を見上げる。
「今日は調査だから」
「武器も持ってきたけど」
「使わないで」
「命令は読める」
燈花が背中の杭撃銃を確かめる。
低出力杭のみ。
高出力射撃は中央から制限されている。
振動。
一度。
二秒。
入口の厚い扉の向こうから、低い音が返ってくる。
燈花の指が、首元の認識票へ触れた。
すぐに離れる。
三日前から増えた動作だった。
私は見なかったことにした。
「二人とも、聞け」
鷹森教官が端末を開く。
濃灰色の指導官外殻。
短く切った髪にも、装飾らしいものはない。
隣には、白い分析用外殻を着た紫苑。
「本任務は、生態・設備共同調査だ。危険行動が確認されても、原則は退避を優先する」
「執行手を連れていく意味ありますか」
燈花が聞く。
「撃たないと決めるのも、執行手の仕事だ」
「最近、そればっかり」
「役割が増えたと思え」
燈花は返事をしなかった。
「壁面群体への射撃は禁止。旧設備へ接触する前には、榊の確認を取れ。通信断絶後は十五分以内に入口へ戻る」
「戻れなかったら?」
「正規班を要請する」
「到着までは?」
「最短二十一分」
「六分足りない」
「だから十五分で戻れ」
鷹森教官が入口端末へ許可証をかざす。
ロックが外れる。
扉の隙間から、水の音が流れ込んだ。
雨とは違う。
壁の内側を走る水。
排水管。
細い流れ。
その奥。
一度。
二秒。
もう一度。
「同じ?」
燈花が聞く。
「近い」
「橋と?」
「祭りの映像とも」
第四放水路。
五年前の事故前から、低周波が発生していた方向。
父らしい声が使った第六排水塔保守回線へ、かつて続いていた場所。
入口の横には、古い表示が残っている。
【旧制御区画以深・閉鎖】
時期は書かれていない。
「行くぞ」
鷹森教官が先に扉へ入る。
燈花。
紫苑。
私。
全員が内部へ入ると、背後で隔壁が閉じた。
雨音が遠くなる。
代わりに、水路の奥行きが音になって返ってきた。
◇
最初の区画は除染室だった。
四人分の外殻へ、透明な膜が吹きつけられる。
燈花が袖を持ち上げた。
「これ、普通の防水膜?」
「生物保全区域用の防汚膜です」
紫苑が答える。
「水路内生物が、人工樹脂を餌や巣材と誤認しないよう処理されています」
燈花が素材表示を開く。
【生体鉱物樹脂】
【導水性殻状群体・脱落殻由来】
「怪生物由来?」
「脱落殻を精製したものです」
「これが?」
「はい」
燈花が私の黄色い袖を見る。
貼ってくれた透明な補修膜。
そのあとに縫い直した部分。
「凪の袖も?」
紫苑が走査光を当てる。
「同系列の樹脂が含まれています」
「怪生物で服を直してたんだ」
「正確には、管理区域から採取された脱落物です」
燈花が補修部分を指で押す。
剥がさない。
「嫌じゃない?」
「何が」
「怪生物が混じってる」
「知る前から貼ってある」
「そういう話じゃなくて」
黄色い布を指でなぞる。
雨を防ぐ膜の中に、雨守の殻が混じっている。
知る前も。
知ったあとも。
袖の感触は変わらない。
「機能してるならいい」
「凪はそう言うと思った」
除染風が止まる。
内側の扉が開いた。
燈花が袖を軽く引く。
「今度剥がれても、同じの貼る?」
「他に適した素材がなければ」
「嫌じゃないんだ」
「燈花が貼るなら、ずれない」
燈花の指が止まる。
「それ、褒めてる?」
「事実」
「言い方」
先へ進む。
燈花は私の袖を離した。
◇
第四放水路の主流路は、薄く光っていた。
照明ではない。
壁面。
半透明の殻が、何百枚も重なっている。
一枚が動く。
隣も。
壁だと思っていたものが、ゆっくり開いた。
「これが雨守?」
燈花の右手が腰へ動く。
杭撃銃には触れなかった。
「導水性殻状群体・第四型」
紫苑が記録端末を上げる。
「現場呼称、雨守です」
一個体は、手のひらより少し大きい。
平たい殻。
水流へ沿う細い脚。
殻の内側から、白い繊維が伸びている。
一体が壁の亀裂へ張りつく。
繊維を差し込む。
隣の個体が水を受ける。
細い流れが殻の表面を伝い、別の個体へ移った。
群体全体で、水を三本へ分けている。
「設備みたい」
燈花が言う。
「生物です」
「やってることは同じ」
「人間の設備を維持する目的ではありません」
紫苑が壁面を走査する。
「雨守自身が安定した水流を作った結果として、施設の排水機能も保たれています」
壁へ手を当てる。
水が流れる。
亀裂へ落ちるはずだった水が、雨守の殻を通り、排水溝へ導かれている。
別の場所では、脚で土砂を削っていた。
削った粒を殻の内側へ取り込む。
運び出しているわけではない。
何かに使っている。
その結果、詰まりが減っている。
「掃除してる?」
燈花が聞く。
「そう見えるだけ」
「違うの」
「雨守自身に必要なものを取ってる」
「結果は同じ」
「目的は違う」
雨守の一体が壁から離れた。
水路脇を進む。
燈花の足元へ近づいた。
燈花が半歩下がる。
個体も向きを変える。
「凪」
「動かないで」
「取って」
「襲ってない」
「分かってる」
雨守の脚が、燈花の靴底へ張りついた。
泥の一部を削り取る。
殻の内側へ運ぶ。
掃除しているように見える。
たぶん、違う。
「もういい?」
「まだ」
「踏まないよ」
「動くと潰す」
雨守が靴から離れ、水路へ戻った。
燈花が足を持ち上げる。
削られた部分だけ、泥が消えている。
「勝手に触るのは危険行動じゃない?」
「外殻を傷つけてない」
「凪も勝手につかむ」
「止める必要があるときだけ」
「雨守にも必要だったかも」
「聞けない」
「なら決められないでしょ」
燈花が少しだけ笑った。
群体が一斉に殻を開く。
同じ方向。
水路の奥。
一度。
二秒。
低い振動。
数十体が移動を始めた。
「反応しました」
紫苑が記録する。
「振動源方向へ移動しています」
「逃げてるんじゃない?」
「逆です」
雨守は、低周波が来た方向へ向かっている。
水路の奥。
現在の地図では、百八十メートル先が終点だった。
◇
地図が間違っていた。
終点と表示された壁へ手をつく。
厚い。
その先から、音が返る。
水滴。
空洞。
遠い反響。
「続いてる」
私が言う。
「壁の先に?」
燈花が横へ並ぶ。
「少なくとも、二百メートル以上」
紫苑が現在図面を開く。
【第四放水路・終端】
次に、五年前より古い図面。
【第四放水路―第六排水塔連絡流路】
線が壁の向こうへ続いている。
「後から塞いだ」
燈花が壁へ触れる。
「可能性があります」
「自然の崩落じゃない」
表面はコンクリートで覆われている。
内部には鋼材。
下側に金属の接合部。
雨守が壁の下へ集まっていた。
亀裂を塞いでいるのではない。
壁と床の境目を削っている。
細い隙間を広げようとしていた。
「向こうへ行こうとしてる」
「過去の移動経路を利用しようとしている可能性があります」
紫苑が図面を重ねる。
「この連絡流路は、外縁水路から第六排水塔へ抜ける生物移動経路と重なっています」
「生物用に作った道?」
「人間の放水路を、生物も利用していたと考える方が正確です」
燈花が閉鎖壁を見る。
「ここを塞いだから、別の場所へ出てきた?」
負傷個体。
穿顎種。
流殻。
どれも、本来の生息域ではない場所にいた。
「まだ分からない」
「でも、ここは通れない」
「うん」
閉鎖壁の手前に、古い制御装置があった。
錆びた外装。
暗い操作盤。
下部だけ、待機灯が点滅している。
【振動制御装置】
【6D系列】
祭り映像に残っていた番号。
事故識別。
6D-17。
「電源が残ってる」
紫苑が装置の外部端子を確認する。
「待機電力のみです。主制御は停止状態」
「低周波はここから?」
「断続的な残留信号が記録されています」
紫苑は接続用の端末を取り出した。
「出力試験は行いません。受動診断だけ実施します」
「触って大丈夫?」
燈花が聞く。
「装置へ命令は送りません」
「前も、想定外って言ってた」
「今回は読み取り専用です」
鷹森教官が装置と退避路を確認する。
「異常があれば、即時切断」
「はい」
紫苑が端末を接続した。
画面へ記録が流れる。
【旧制御装置・待機】
【外部通信回線・接続中】
「外部通信?」
私が聞く。
「旧設備系列は、現在の晴天化設備へ一部統合されています」
紫苑が回線先を表示する。
【晴天化計画統括室】
画面に予定通知が出た。
【都市規模実験・遠隔校正】
【開始時刻 十四時三十分】
現在時刻。
十四時二十九分五十八秒。
「待って」
紫苑が接続端末へ触れる。
五十九秒。
十四時三十分。
【遠隔校正信号・受信】
装置の待機灯が赤へ変わった。
一度。
二秒。
低周波が強くなる。
「切断します」
紫苑が端末を外す。
それでも装置は止まらない。
【旧系列設備・自動校正開始】
【中央管理権限を確認してください】
「調査情報は共有されてないの」
燈花が聞く。
「統括室へ入域予定は送信されています」
紫苑の声が速くなる。
「ただし、この装置が現在の校正対象に残っている記録はありませんでした」
装置の奥で、大型機械が回り始めた。
水門のロック音。
放水路全体が震える。
【主流路水位・上昇】
【入口隔壁・自動閉鎖開始】
「戻るぞ」
鷹森教官が言う。
背後から、金属の割れる音がした。
◇
入口側へ続く保守通路が、水圧で持ち上がった。
金属床が裂ける。
鷹森教官が紫苑の外殻をつかみ、後方へ引く。
私と燈花は閉鎖壁側。
鷹森教官と紫苑は入口側。
間の床が水路へ落ちた。
背後は、幅六メートルの亀裂。
正面は、閉鎖壁。
手動停止装置は壁の右上。
そこへ続く通路はない。
残っているのは、天井を渡る三本の梁だけだった。
『聞こえるか』
鷹森教官の声が通信へ入る。
「聞こえます」
『負傷は』
「ありません」
燈花が答える。
紫苑も無事。
水位は上がり続けている。
雨守の群体が閉鎖壁へ集中した。
元いた壁面から群体が消えたことで、別の排水口から水があふれてくる。
「排水が崩れてる」
『群体移動の影響です』
紫苑が答える。
『旧装置は遠隔校正系列で自動運転中。統括室へ停止要求を送信しました』
「何分」
『中央認証まで推定八分』
水位限界。
【残り六分十二秒】
端末に選択肢が出る。
【群体駆除による退避路確保】
【中央停止認証待機・推定八分】
「間に合わない」
燈花が群体を見る。
撃てば雨守をどかせる。
壁沿いの保守路を使えるかもしれない。
自分たちだけなら戻れる。
「群体を撃てば、入口へ回れる」
「雨守をどかしたら、別の水路が詰まる」
「でも、あたしたちは助かる」
「うん」
認める。
自分たちだけなら。
それでいい。
そう判断することもできる。
でも、放水路の先には旧市街がある。
雨守が戻らなければ、水位は上がり続ける。
燈花が杭撃銃を構えた。
銃口は雨守ではなく、天井の梁へ向いている。
「撃たずに渡る道、見える?」
上を見る。
最初の梁。
腐食の少ない太い梁。
中間の梁。
細く、中央部分が錆びている。
最後の梁。
制御装置の上まで続いているが、濡れている。
「主電源は壁の反対側?」
『手動停止部は閉鎖壁側の上段です』
紫苑が立体図を送る。
右上。
距離二十六メートル。
「梁を使う」
「どれから」
言葉が出かける。
左。
飲み込んだ。
「上の太い梁。次の振動が来る前に」
「何秒?」
「一・五」
「細かい」
「燈花なら行ける」
燈花が梁を見る。
「了解」
杭撃銃を構える。
「射線確認」
「設備配管なし。雨守もいない」
「撃つ」
低出力杭。
最初の梁へ刺さる。
ワイヤーが伸びた。
燈花が床を蹴る。
水面の上へ身体が浮く。
低周波。
放水路が揺れる。
燈花が梁へ足をかける。
「次」
「正面。細い梁。中央は踏まないで」
「両端なら?」
「一回だけ耐える」
「十分」
二発目。
燈花が飛ぶ。
杭の振動へ、雨守が集まった。
壁から離れ、梁の根元へ向かう。
「燈花を追ってない」
「何?」
「杭の振動へ寄ってる」
雨守は、水流が変わった場所へ向かっている。
燈花が次の固定点を見る。
「じゃあ、別の場所へ撃つ」
「右下。使わない支柱」
「距離?」
「九」
杭。
振動。
雨守の群体が右へ流れる。
燈花の進路が開く。
「三歩。次の低周波までに」
「了解」
燈花が梁を走る。
下は水路。
雨守の群体が重なり、白い波のように動いている。
最後の梁。
制御装置の上へ続いている。
「そこ、滑る」
「他は?」
「ない」
「跳ぶ?」
距離五メートル。
低周波まで一秒。
「振動のあと」
低い音。
梁が沈む。
戻る。
「今」
燈花が跳んだ。
着地。
右足が滑る。
ワイヤーが張った。
固定杭から、金属の抜ける音がする。
「燈花!」
杭が梁から外れた。
燈花の身体が水路側へ傾く。
補助ワイヤーを撃つ。
燈花の外殻へ接続。
巻き取る。
手首が引かれた。
足が前へ滑る。
観測位置を離れる。
「凪、放して!」
「落ちる」
「凪も!」
床へ膝をつく。
両手でワイヤーを握る。
掌に圧力がかかる。
燈花の靴が壁へ当たった。
手を伸ばし、制御装置の縁をつかむ。
「上がれる?」
「引いて」
巻き取り出力を上げる。
燈花の身体が持ち上がる。
装置の上へ転がった。
通信から荒い呼吸が聞こえる。
「怪我は」
「ない」
「右足」
「動く」
「動くかどうかを聞いてない」
「痛くない」
燈花が立ち上がる。
杭撃銃を拾う。
「手動停止、見えた」
装置の側面。
古い操作盤。
【通常停止】
燈花が触れる。
【中央管理権限が必要です】
「止まらない」
『緊急停止系統も中央ロックされています』
紫苑の声。
「壊せば?」
『振動制御と自動水門制御が停止します』
「記録は?」
『基礎記録は副端末へ保存されています。ただし、直近の未同期ログは制御核と同じ筐体です』
「どれくらい残る」
『現時点で四一・三%を取得済み。残りは破壊後に復元できる保証がありません』
父。
6D-17。
閉鎖。
この装置に、直近の判断記録が残っているかもしれない。
全部ではない。
でも、失えば戻らない。
水位限界まで。
【残り一分四十八秒】
雨守が閉鎖壁へ重なる。
水圧が上がる。
壁が軋んだ。
「凪」
燈花が制御核へ銃口を向ける。
「壊す?」
端末へ選択肢が出る。
【旧制御設備・緊急破壊】
【現場観測責任者承認】
父の記録。
知りたい。
閉鎖した理由。
弟がいた下層区画。
父が死んだ場所。
全部ではなくても、この中にあるかもしれない。
雨守の一体が水圧で壁から剥がれた。
流される。
次も。
「保存できた範囲は」
『四一・三%です』
「十分ではありません」
『はい』
「でも、ゼロじゃない」
『水無瀬』
鷹森教官の声。
『現場判断を言え』
承認欄へ指を置く。
「旧制御設備を破壊します」
『理由』
「低周波を停止。群体を元の水路へ戻し、放水機能を維持します」
『退避だけなら群体駆除でも可能だ』
「それでは水路が残りません」
短い沈黙。
『了解』
別の表示が出る。
【教官責任・例外処置承認】
【責任者 鷹森真冬】
『教官責任で設備破壊を承認する。二人は現場署名を続けろ』
「了解」
私の承認欄へ触れる。
【観測責任者 水無瀬凪】
【緊急破壊・承認】
燈花の端末にも表示が出る。
【執行責任者確認】
「壊す?」
「うん」
「後で、間違いだったって言わない?」
「言うかもしれない」
「じゃあ?」
「そのとき直す」
燈花が承認欄へ触れた。
【執行責任者 黒江燈花】
【緊急破壊・実行可能】
「どこを撃つ」
内部音を聞く。
中央。
回転部。
その下に電源核。
「中央から十五センチ下」
『記録系統は右側です』
紫苑が言う。
「修正。十五下、十左」
「了解」
燈花が照準を合わせる。
「射線確認」
「背後に主配管なし」
「実行する」
発射音。
杭が制御核へ入る。
金属が内側から割れた。
低周波が途切れる。
一瞬。
水音だけになる。
雨守の群体が止まった。
殻を開いたまま動かない。
次の二秒が来ない。
その次も。
群体が、ゆっくり閉鎖壁から離れ始める。
元の水路へ戻る。
「止まった」
「水位は?」
『上昇継続』
自動水門も停止した。
迂回水路を開かなければ、水は下がらない。
「手動弁を探す」
壁へ手を当てる。
水の音。
閉鎖壁の左。
細い流れ。
その奥に空間。
「燈花の下。壁面左側」
「見えない」
「雨守の下」
「どかす?」
「待って」
一体。
二体。
雨守が壁へ戻る。
殻が重なる。
水流が変わる。
壁の下部へ細い筋が現れた。
「そこ」
燈花がしゃがむ。
群体の隙間から、手動弁の取っ手が見える。
「回す方向」
『右へ九十度』
紫苑が答える。
燈花が取っ手を握る。
動かない。
「固着してる」
「外周へ低出力杭」
「弁に撃つ?」
「回転方向へ補助」
燈花が杭撃銃を横へ当てる。
低出力。
衝撃。
弁が少し動いた。
雨守が振動へ寄る。
弁の周囲へ集まり、脚で付着物を削り始める。
「手伝ってる?」
「自分たちの水流を作ってる」
「結果は同じ」
燈花がもう一度回す。
弁が開いた。
壁の奥で水門が動く。
迂回水路へ水が流れ込んだ。
【主流路水位・低下】
雨守の群体も流れへ沿って移動する。
詰まりを削る。
水音が整っていく。
『入口側も水位低下』
紫苑の声。
『合流経路を確保できます』
燈花が制御装置から下りる。
補助ワイヤーを固定し直す。
戻る経路には、もう雨守がいない。
最後の梁から跳ぶ。
着地。
今度は滑らなかった。
「手」
燈花が言う。
「何」
「圧迫表示」
手袋の内側が赤く点滅している。
「動く」
「それは見れば分かる」
「痛くない」
「嘘」
「少し」
「冷却」
「後で」
崩れた通路の向こうから、鷹森教官と紫苑が戻ってきた。
「全員無事か」
「はい」
「設備は壊しました」
「記録で見ている」
鷹森教官が停止した装置を見る。
「判断者は」
「私です」
「執行はあたし」
燈花が続ける。
「教官責任も記録した」
鷹森教官が端末へ結果を入力する。
【調査班・全員無傷】
【旧制御設備・緊急破壊】
【放水機能・維持】
【群体損耗・軽微】
【遠隔校正中止要求・送信済み】
「閉鎖壁を確認する」
低周波が止まり、雨守が壁から離れていた。
今まで隠れていた表面が見える。
自然の壁ではない。
鋼鉄。
人工樹脂。
溶接跡。
外側から閉じるための制御部。
中央には、古い表示板。
【第四放水路・臨時閉鎖処置】
【事故識別 6D-17】
「臨時」
燈花が読む。
「五年間、残ってる」
紫苑が、破損を免れた副端末へ接続する。
古い基礎記録。
日時。
処置要約。
【第四放水路生物移動反応増大】
【住宅区流入防止のため臨時閉鎖】
「怪生物が都市へ来たから閉じた?」
「順番が分からない」
私は閉鎖壁を見る。
「閉じたから、別の場所へ出た可能性もある」
「それで弟が死んだとは、まだ分からない」
「うん」
「決めないで」
「決めない」
紫苑が次の欄を開く。
【現場確認者】
排水技師。
気象研究員。
施設管理官。
複数の名前。
その中にあった。
【第六排水塔主任技師】
【水無瀬航平】
水路の音は聞こえている。
雨守の脚。
排水管。
端末の駆動音。
それでも、父の名前だけが残った。
「凪のお父さん」
燈花の声。
「ここにいたんだ」
「うん」
名前があるだけ。
閉鎖を決めたのか。
反対したのか。
確認しただけなのか。
まだ分からない。
紫苑が詳細記録を開こうとする。
【閲覧権限がありません】
【閉鎖判断会議・詳細記録】
【管理部署・晴天化計画統括室】
神代旭。
青空。
雨のない未来。
父の名前。
閉鎖処置。
別々だったものが、一つの画面に並ぶ。
「解除申請を」
「送信します」
紫苑が操作する。
【開示申請・受理】
【晴天化計画統括室】
燈花は認識票を握っている。
私を見ない。
私も燈花を見られなかった。
画面には、父の名前が残っている。
第六排水塔主任技師。
水無瀬航平。
その名前の上には、閉鎖処置という見出しがあった。
◇
最後の記録を送る。
【更新完了】
時刻。
十八時四十二分。
燈花は先に帰ったはずだった。
装備室へ戻る。
誰もいない。
黄色い袖を通す。
外扉を開いた。
雨。
支局前の屋根。
その下に、一人いる。
「燈花」
壁にもたれていた燈花が顔を上げる。
「遅い」
「何してるの」
「待ってた」
「何を」
「凪」
答えが早い。
「先に帰ればよかったのに」
「帰れるよ」
「なら」
「一緒に帰ると思ってたから」
雨が屋根を叩く。
燈花の言葉だけ。
一度、聞き直す。
「約束した?」
「してない」
「じゃあ何で」
「最近そうだったでしょ」
最近。
支局を出る。
同じ水上バス。
途中まで同じ上層路。
別れる角まで。
確かに。
「待つって連絡すればよかった?」
「そういう話じゃない」
「じゃあ何」
分からない。
燈花も答えない。
「帰る?」
「うん」
屋根から出る。
燈花が二歩先。
いつもの位置。
私は追いつく。
歩幅を少し広げる。
燈花が少し狭める。
同じになる。
「凪」
「何」
「明日も遅くなる?」
「分からない」
「じゃあ終わったら送って」
「何を」
「終わったって」
「待つの」
「その時決める」
「今決めれば」
「状況が変わるかもしれないでしょ」
どこかで聞いた言い方だった。
「分かった」
「ちゃんと送って」
「必要なら」
「必要」
即答。
何に必要なのかは。
聞かなかった。
同じ速さで歩く。
それで十分だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます