第三話 水と階段②

 「宮下さんに会いたかったのは」と、しばらくしてから戸倉さんは言った。


 「はい」


 「機械の人の話を、聞いたことがなかったからです」


 「僕のは、安いやつですけど」


 「そうじゃなくて」彼女は首を振った。「機械だと、何も来ないんですよね」


 「来ない」


 「そういう、変なことが。水とか、階段とか」


 僕は、自分の頭の中のことを考えた。


 月に一度、耳の後ろが二度震える。更新すると十五分ぼんやりして、それから治る。それだけだ。


 特定の単語で泣いたことはない。階段で足がすくんだこともない。


 「ないです」と僕は言った。


 「一度も?」


 「一度もないです」


 「うらやましい」と戸倉さんは言った。


 僕は、返事をしなかった。


 僕がそのとき考えていたのは、まったく逆のことだった。


 この人の中には、何かが入っている。それはこの人を苦しめている。水という単語で泣かせ、階段の途中で立ち止まらせている。


 僕の中には、機械が入っている。何かを取り出した場所に。


 この人には、来すぎている。僕には、来ない。


 同じ手術のはずがなかった。


   ◇


 「戸倉さん」と僕は訊いた。


 「はい」


 「その、水とか階段のやつって、どこから来てるんですか」


 彼女は、カップの取っ手に指をかけた。


 かけて、外した。


 「分かりません」


 「分からない」


 「分からないようになってるんです」


 彼女は言った。


 「教えてもらえないんですよ。絶対に。そういう決まりみたいで」


 「誰にですか」


 「……間に入ってくれた人に」


 僕は、その「間に入ってくれた人」が誰なのかを訊こうとした。


 訊く前に、彼女が言った。


 「知りたいですか、って、藤枝さんにも訊かれました」


 「訊きました」と藤枝さんが言った。「三回とも」


 戸倉さんは、初めてまっすぐ僕を見た。


 「毎日、考えています」


 彼女は言った。


 「誰なんだろうって」


 そのとき、彼女は鞄を床に置いた。


   ◇


 戸倉さんが帰ったあと、藤枝さんは席を立たなかった。


 冷めたコーヒーの上で、彼女はしばらくノートを見ていた。


 「宮下さん。今日、何か気づいたことはありましたか」


 「気づいたこと、ですか」


 「なんでもいいんです。私は、あの人の話を三回聞いています。三回とも同じ話でした。でも、あなたは初めて聞いた」


 僕は考えた。


 「水と、階段でしたよね」


 「はい」


 「その二つ、たぶん、同じ場所の話じゃないですか」


 藤枝さんが顔を上げた。


 「といいますと?」


 「いや、なんとなくですけど」僕は自分の言葉を追いかけながら喋っていた。「水の話と、階段を降りるときだけ怖いって話。別々のものだと思ってたんですけど、もし同じ場所のことだったら、一個で済むなと思って」


 「階段があって、水がある場所」


 「上るときは平気で、降りるときが怖い階段」


 彼女はペンを持った。持ったまま、動かさなかった。


 「川」と彼女は言った。「か、堤防か。あるいはプールか」


 「そこまでは分かんないですけど」


 「いえ」


 彼女は僕を見ていた。さっきまでとは、少し違う目だった。


 「それは、三回聞いても私が気づかなかったことです」


 僕は、なんと答えていいか分からなかった。


 二つ並べたら一つに見えたので、そう言った。それだけのことだった。


 ――理解が非常に早く、応用力があります。


 所見欄の一行が、勝手に頭に浮かんだ。


 僕はそれを、すぐに追い払った。


   ◇


 帰りの電車で、僕は訊いた。


 「藤枝さん」


 「はい」


 「あの人が入れたやつ、機械じゃないんですよね」


 彼女は、窓の外を見ていた。


 「なぜそう思いますか」


 「機械が、川とか階段とか覚えてるわけないので」


 彼女は、しばらく答えなかった。


 電車が駅に着いて、人が降りて、乗ってきた。ドアが閉まった。


 「宮下さん」


 「はい」


 「あなたは、いま何を知りたいですか」


 「なんですか、それ」


 「順番の話です」彼女は言った。「知りたいことが三つあるとして、どれから知るかで、あとの二つの受け取り方が変わります。私はそれを気にしています」


 「気にしなくていいですけど」


 「気にします」


 彼女は僕の方を見た。


 「私は、あなたに何かを言わせるために話を運ぶ人間です。それは自覚しています。だから、順番だけは慎重にやらせてください」


 僕は、その言い方をしばらく考えた。


 何かを言わせるために。


 「じゃあ、一つだけ」


 「はい」


 「僕から取ったやつは、どこ行ったんですか」


 彼女は、僕をまっすぐ見た。


 電車が揺れた。


 「それを、いま調べています」

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