帳尻を合わせたい人間
次の日、アシュベルは町の役場へ行った。
役場といっても、通りに面した二階建ての建物の一階を間借りしているだけの、看板もろくにない場所だった。窓口には老いた書記がひとり座っていて、来客よりも手元の帳面のほうがよほど大事らしい。アシュベルが声をかけても、しばらく顔を上げなかった。
「工場の届出を見たい」
「どこの」
「ドルシュ製材所」
書記の手が止まった。初めて顔を上げ、眼鏡の縁越しにアシュベルを見た。眠たげな目の奥に、値踏みするような光がある。
「あんた、あの術師さんか」
「そうだ」
「見せられんこともないが、何を見たい」
「事故の届出だ。過去五年ぶん」
書記はしばらく黙っていた。それから、椅子を軋ませて立ち上がり、奥の棚へ向かった。埃を払う音がして、綴じ紐の擦れる音がすると、やがて薄い綴りが窓口に置かれた。
「三年前と、去年と、先月。三件ある」
アシュベルは頁をめくると、どれも同じ書式だった。日付、負傷者の名前、傷の程度、原因。そして最後の欄には、判で押したように同じ文言が並んでいる。
――従業員の不注意による。
事故は三件とも同じ機械で、三件とも全て従業員の不注意という同じ結論だった。そして、監督官の署名は同じ人物のものだった。
「この監督官は」
「郡の役人だ。年に二度、見回りに来る」
「来て、何を見ていく」
書記は肩をすくめた。
「昼飯を食っていく」
それ以上の説明はなかったが、その必要もなかった。
アシュベルは綴りを閉じ、礼を言って役場を出た。
通りに出ると、朝の光が眩しかった。荷馬車が石畳を鳴らして通り過ぎ、その後ろを子どもが二人、笑いながら走っていく。この町の朝は平穏だった。三年に三人、同じ機械で人が壊れているという事実を抱えたまま、それでも平穏だった。
平穏というのは、そういうものなのかもしれない。
その足で、アシュベルは製材所へ向かった。
門から入る気はなかった。川沿いの道から敷地の裏手に回り、積み上げられた丸太の陰に身を置いて、建屋の中を覗いた。
音がしていた。回転する刃の、途切れることのない甲高い音。その下に、水車から動力を伝える軸の低い唸りが重なっている。
工員たちが動いている。丸太を台に載せ、押し出し、切り落とし、また次を載せる。無駄のない動きだった。無駄がないというより、無駄を許されない速度で動いていた。
アシュベルは目を凝らした。帯鋸の刃の脇に、金属の枠のようなものが取り付けられている。作業者の手が刃に近づきすぎたときに止める仕掛けだろう。ただ、その枠が妙な位置にあった。刃から離れすぎている。あの位置では、手が入ってから止まることになるのは見てわかった。
──いや、違う。
枠そのものが、脇に折り畳まれていた。使っていないのだ。畳んでおけば作業が速い。速ければ数が出る。
アシュベルはしばらくそれを見ていた。それから、静かにその場を離れた。
丸太の山を回り込んだところで、人にぶつかりそうになった。
若い工員だった。両手に鋸屑の入った籠を抱えている。アシュベルの顔を見て、目を見開いた。
「あんた、ヨナスのとこに来てた……」
「ああ」
工員は慌てて周りを見た。誰もいない。それを確かめてから、声を落とした。
「消すのか。あいつの記憶」
「消さない」
その返事に、若い工員は明らかにほっとした顔をした。それから、また周囲を窺い、早口で言った。
「あの枠、事故のあとに付いたんだ」
「枠?」
「安全枠だ。監督官が来るってなって、慌てて付けた。前はなかった。付けたけど、誰も使ってない。使ったら遅くなるから」
「三年前は」
「知らない。俺が来る前だ。でも、去年の人のときも同じだったって」
工員は籠を持ち直した。手が震えている。
「俺、これ言ったって言わないでくれ。頼む」
「言わない」
「あんた、術師だろ。俺の記憶消せるか」
思いがけない問いだった。アシュベルは眉を上げた。
「消したいのか」
若い工員は俯いた。
「消したいっていうか。毎日あそこに立ってると、いつか自分の番だって思うんだ。ヨナスの前は去年の人で、その前は三年前の人……次は俺かもしれない。そう思いながら台に立つのが、しんどい」
その声には、恐怖よりも疲れがあった。
「それを忘れられたら、楽になるだろうなって、たまに思う」
アシュベルは黙っていた。
この男は記憶を消してほしいのではない。怖がらずに死地に立てるようになりたいと言っているのだ。忘却が、そういう形で人の役に立つこともある。役に立つからこそ、質が悪い。
「やらない」
「だよな」
「やる気になればやれる。ただ、あんたが忘れたら、次に腕を落とすのはあんただ。怖いのは、あんたが正しいからだ。その怖さを消したら、正しさも一緒に消える」
しばらくの沈黙のあと、若い工員は籠を抱え直して頷いた。
「……そうだよな」
それだけ言って、彼は建屋のほうへ戻っていった。
背中を見送りながら、アシュベルは自分の言葉を反芻していた。
怖さを消したら、正しさも消える。
思いつきで口にしたわりに、妙に喉に引っかかった。
家に戻ったのは昼過ぎだった。
書斎に上がると、フィンネルはいつも通り机に向かっていた。羽根ペンの音が止まり、フィンネルが振り返る。
「顔が悪いな」
「役場と製材所を見てきた」
アシュベルは椅子に座り、順に話した。三年で三件。同じ機械。同じ結論。折り畳まれたままの安全枠。監督官の昼飯。町を出た二人。ハウゼの革袋。
フィンネルは一言も挟まずに聞いていた。
話し終えると、フィンネルはしばらく窓の外を見ていた。それから、無言で立ち上がり、棚から帳面を取り出した。
見覚えのある表紙だった。擦り切れて、綴じ糸が緩んでいる。
それは十年前の火災の十七人の名簿で、フィンネルはそれを机の上に置き、開いた。名前がずらりと並んでいる。年齢、家族構成、どこで発見されたか。
「なぜこれを」
「同じだからだ」
フィンネルは名簿の一頁を指で押さえた。
「工場が金を惜しむ。設備が古くなる。人が壊れる。壊れた人間に金を渡して黙らせる。金で済まなくなったら、記憶を消す。――順番が同じだ。十年前も、今も」
アシュベルは名簿を見下ろした。
十七の名前。そのうち何人が、火事の前から何かに気づいていたのだろう。気づいていて、言えなかったのだろうか。それとも言って、聞き入れられなかったのだろうか。
「師匠。十年前、火事の前に届出は出てたのか」
「出ていた」
アシュベルの問に、フィンネルは即答した。
「ヴァルダ紡績は、火事の一年前に一度、小火を出している。原因は配線だった。届出はある。改善したという報告もある。実際には何も直っていなかった」
「役人は」
「昼飯を食っていったんだろうな」
同じ言葉が返ってきて、アシュベルは苦く笑った。笑ってから、笑える話ではないと気づいた。
「それで、その一年後に十七人死んだ」
「そうだ」
フィンネルは名簿を閉じた。
「だから俺は、これを書いた。役所の帳面には『機械の不具合による事故』としか残らん。ならば、せめて誰が死んだかだけは、俺の手で残しておこうと思った」
アシュベルは椅子の背に体を預け、天井を見上げた。
――記録は人を守らん。裁くだけだ。
あの言葉の意味が、また少し深くなった。この老人は記録を憎んでいるのではない。役所の記録が人を守らなかったから、自分で別の記録を作った。守れない記録の隣に、守るための記録を置こうとした。
それは十年間、誰にも読まれていない。
「師匠」
「なんだ」
「俺は、ヨナスの記憶を消さない」
「そうか」
「だが、それだけじゃ足りない気がする」
フィンネルは椅子に座り直し、こちらを見た。
「足りんな」
「え?」
フィンネルは机の上で手を組んだ。
「足りん、と言った。消さなければ、あの若者は毎晩あの音を聞き続ける。それは事実だ。お前が善人ぶったところで、あの若者の夜は一つも短くならん」
アシュベルは言葉に詰まった。
その通りだった。ハウゼが最後に置いていった言葉と同じことを、師匠は容赦のない形で言い直しただけだ。
「じゃあ、どうしろって言うんだ」
「知らん。それはお前が考えることだ」
フィンネルは羽根ペンを取り上げ、机に向き直った。話は終わりだという合図だった。
それでも、背中越しにもう一言だけ落とされた。
「ただし、覚えておけ。あの若者が忘れたがっているのは、音ではない。音を聞くはめになった理由のほうだ」
その言葉を聞き、アシュベルは書斎を出た。
廊下は昼の光で明るかった。階下から、洗い物をする音が聞こえてくる。規則正しい水音を聞きながら、階段の途中で足を止めた。
音を聞くはめになった理由。急かされて、確かめずに材を入れた。あの日の自分。
だとすれば、ヨナスが本当に消したいのは事故の記憶ではない。確かめなかった自分だ。そしてそれは、事故の前後三日を消したところで消えない。あの青年は事故の前から、あの機械の音がおかしいことを知っていた。知っていて働き続けた三年ぶんの自分を、丸ごと消さなければ消えない。
三年。
その数字を思い浮かべた瞬間、アシュベルは階段の手すりを強く握った。
三年ぶんを消す。それがどれほどの代償を要求するか、術師なら誰でも分かる。
――そして、それを平気でやる人間が、この国のどこかにいる。十年前、十七人分をやってのけた誰かが。
背筋を、冷たいものが降りていった。
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