第3話

マスターは珍しく煙草を取り出した。


火は付けない。


ただ指で転がしている。


テレビ画面には、


「竹取の姫君の帰還を要求する」


の文字。


店内は静まり返っていた。


俺は言った。


「マスター。誰のことだと思います」


「たぶん」


年がいくつかわからないマスターは苦い顔をした。


「思い当たる相手がいる」


「誰です」


その答えを聞いた瞬間、俺は後悔した。


「乙姫様だよ」


思わず笑いそうになった。


だがマスターは真顔だった。


「神戸の布引さ」


笑えなくなった。


六課にいると分かる。


こういう顔をしているときのマスターは冗談じゃない。


「布引の滝の竜宮城」


「知ってるな」


「伝承くらいは」


「伝承じゃない」


マスターは即答した。


「少なくとも六課にとっちゃな」


俺は黙った。


否定できない。


六課が扱う案件の九割は、世間では伝説とか怪談と呼ばれている。


「乙姫様が竹取の姫君?」


「そうだ」


「あの宇宙人の要求している相手が?」


「そうだ」


店内の空気が重くなる。


窓の外には銀色の球体。


まるでこちらを見ているようだった。


「じゃあ帰せばいい」


誰かがぽつりと言った。


客の一人だった。


マスターは首を横に振る。


「それが出来ん」


「なぜ」


そこから先の声は小さかった。


昔話を語るようでありながら。


国家機密を漏らすようでもあった。


「東海竜王がいる」


俺の背筋に冷たいものが走る。


その名は六課の資料庫で見たことがある。


日本列島最大級危険存在。


災害指定神格。


海洋神霊群統括個体。


東海竜王。


「夫婦なんですか」


「そういうことになっている」


マスターは頷いた。


「そして問題はそこじゃない」


「まだあるのか」


「本当の問題は役割だ」


球体の光が窓ガラスに映る。


「東海竜王は日本の龍脈そのものを支えている」


「龍脈」


「地脈でも霊脈でも好きに呼べばいい」


マスターは続けた。


「富士から諏訪」


「諏訪から伊吹」


「伊吹から六甲」


「六甲から四国」


「さらに九州へ」


「島国全体を循環する見えない流れだ」


俺は黙って聞く。


「東海竜王は流れを固定している」


「乙姫様は」


「祈っている」


それだけだった。


しかし重みは理解できた。


「祈る?」


「二十四時間」


マスターが言う。


「三千年近く」


店内の誰も息をしなかった。


「日本列島は火山国家だ」


「地震国家だ」


「津波国家だ」


「本来ならもっと酷い」


老人の視線が北を向く。


見えない布引の滝の方へ。


「竜王が力で押さえる」


「乙姫が祈りで整える」


「だから保ってる」


コーヒーカップがかすかに鳴った。


誰かの手が震えたのだ。


「つまり」


俺は確認する。


「乙姫様が帰ったら」


「龍脈が崩れる」


「東海竜王だけでは無理だ」


「逆も同じ」


「竜王が欠けても終わる」


しばらく沈黙。


そして店のテレビが再び変化した。


黒い画面。


銀色の文字。


新しい文章が加わる。


『地上側は対象の監禁を終了せよ』


マスターが舌打ちした。


初めて見た。


この知識の権化が苛立つところを。


「監禁じゃない」


ぽつりと言う。


「守ってるんだ」


その声は怒りに近かった。


「帰りたくても帰れない」


「帰れば国が壊れる」


「だから残った」


俺はふと気付いた。


「待て」


「なんだい」


「もし乙姫様が本当に竹取の姫なら」


嫌な予感がした。


とても嫌な予感だった。


「向こうは事情を知らない?」


マスターの顔色が変わる。


「いや」


そして。


数秒後。


「知ってるはずだ」


「じゃあなぜ」


老人は窓の外の球体を見る。


夜空の銀色の球体。


それを見つめながら。


極めて嫌な結論を口にした。


「決まってる」


「連中は」


「それでも連れて帰る気なんだ」


その瞬間。


摩耶山全体が微かに揺れた。


地震ではない。


まるで。


日本列島のどこかで。


巨大な龍が寝返りを打ったような振動だった。

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