第二十八話 斬奸
山路軍曹以下十八名が兵舍から姿を消したとの報は、夜明けを待たず中央スプリング全域へ傳はつた。彼らが向つたのは昨日の富裕街ではない。中央商工倶樂部――銀行家、不動産資本家、映畫會社重役、大企業經營者らが集ひ、政府との契約から慈善基金、再開發、勞働政策に至るまで、この町の金が動く時には必ずその名が何處かへ現れる、中央スプリングの富そのものを象徴する建物であつた。早朝、山路らは警備員を武裝解除して館内へ入り、宿直の職員と朝早く登館してきた重役たちを大廣間へ集めた。金庫も帳簿庫も開かれた。しかし兵の一人が机上の高價な時計へ手を掛けただけで、山路は烈火の如く叱責した。
「一圓たりとも私するな。我々は盗賊ではない。奸を斬るのだ。」
その點だけは徹底してゐた。押收した現金は全て數へ、時計にも寶石にも番號札を附け、酒瓶一本さへ勝手に開けさせない。山路は己の懷を肥やしたいのではない。豪奢な暮しへの羨望だけで動いてゐる積りもなかつた。寧ろさうした私欲を己から切離してゐるからこそ、彼には自分のしてゐることが一層純粹な正義に見えたのである。大廣間では政府との隨意契約、選擧資金、土地買收、貧困者支援事業から系列會社への不透明な資金還流が次々に卓上へ積まれ、中には誰が見ても疑はしいものもあつた。舊政府と結託して補助金を吸ひ上げた者、慈善を廣告として利用し、その裏で勞働者の賃金を削つた者も實際にゐた。山路はそれを一件づつ讀み、初めのうちは證據を以て「奸」を選り分けてゐた。ところが帳簿に明確な不正の見えぬ者にまで審理が及ぶ頃、物差しが變つた。大邸宅を持つてゐる。勞働者の百倍の收入がある。何臺もの自動車を所有してゐる。これほど富むには誰かから奪つたに違ひない――富そのものが、次第に罪の證明へ化していつた。
午前九時、畠中から三度目の歸隊命令が届いた。山路は紙を長く見つめてゐた。昨夜、畠中から「俺の真意を貴樣が決めるな」と叱責されたばかりであり、同じ夜には己の部下から「軍曹殿の本心では」と言はれて同じ怒りを味はつてもゐる。その筈なのに、命令書を折疊んだ山路は、待つ兵たちへ「大尉殿は今、一時迷つてをられる。しかし御志まで變つたわけではない。我々が神衞維新を完成させ、大尉殿へ御返しする」と告げた。十八名はそれを聞いて直立した。彼らに畠中への反逆心はない。忠實であるからこそ、その命令に從はなかつたのである。
ユウタたちが中央商工倶樂部へ到着した頃には、石造りの正面廣場を數百の市民が埋めてゐた。富裕者ばかりではない。ユウタと洗濯工場でシーツを畳んだ男たち、港の荷役人、映畫撮影所の大道具係、商店主、ホテルの從業員までがゐた。昨日までなら、貧困層を救ふと訴へる山路に同情した者も混じつてゐた。しかし今は、皆が同じ理由で集まつたわけではなくとも、「自分たちの名を使つて人を裁くな」といふ一點では奇妙に一致してゐた。山路が玄關階段へ姿を現し、「諸君を貧困へ追ひ込み己のみ富を貪る奸を斷つため、我々は此處へ來た」と聲を張つた時、洗濯工場の男が群衆から一歩前へ出て、それを遮つた。
「俺たちは金持ちになりたいんじゃない。普通に働いて、普通に飯を食って、家族と暮らしたいだけだ。給料上げろとは言う。社長と喧嘩もする。でも殺してくれなんて一度も頼んでねえ。勝手に俺たちの恨みを代表するな。」
その言葉に、周圍から幾つもの聲が重なつた。「店を二軒持てば次は俺も奸か」「嫌いな上司はいるが、斬ってくれとは言ってない」「俺たちは自分で文句を言える」。山路の表情が僅かに崩れた。富豪から罵倒される覺悟ならある。軍紀を盾に宮本たちから責められることも豫想してゐた。しかし己が救ふ對象と定めた者から「頼んでゐない」と言はれることだけは、考へてゐなかつたのである。
「では貴樣らは不公正を甘受するのか!」
「違うよ。」
ユウタが人垣から前へ出た。
「嫌なことがあるのと、その人を殺していいのは別だよ。山路さんが苦しかったのも、怒ってるのも嘘だとは思わない。でも僕には全部分からない。だから勝手に『この人が悪い』って決めないんだ。」
山路はユウタを睨んだ。その横へ靖忠が進み、昨夜の一言だけを返した。
「貴樣は昨日、『俺の本心を勝手に決めるな』と言つたではないか。自分の真意を部下に作られれば怒り、自分は大尉殿の真意を作る。それを忠義とは言はん。」
岡本はさらに、「總帥閣下の御真意であらうと、大尉殿の真意であらうと、本人の明確な御命令を己の願望へ置換へてはならない。上官が誤つてゐると思ふなら諫言すればよい。嫌はれても言ひ續ければよい。それでも命令を捏造する理由にはならない」と靜かに續けた。山路の手が軍刀へ掛かつた時、郡司が一歩だけ前へ出た。
「山路。續きは俺が相手をする。」
昨日、互ひの力を知つてゐる。山路も郡司以外を見なかつた。
「望むところだ。」
拔刀の音と、誰かが放つた最初の銃聲とは殆ど同時であつた。
廣場が一瞬で戰場になつた。山路配下の十八名は、昨日まで木村の周圍にゐた寄せ集めの兵とは全く違つた。一度實戰を經て、一度現實世界で死に、それでも再び軍衣を着てゐる者たちである。銃聲に驚いて足を止める者は一人もゐない。前列が撃てば後列が動き、一人が倒れれば隣の者がその射線を埋め、互ひの死角を意識して散開する。十八人しかゐない筈なのに、一人一人が勝手に襲ひ掛かる二十人、三十人より遥かに厚く見えた。ユウタが咄嗟に防禦魔法を張ると、正面の兵は無意味に撃ち續けず、左右へ回り込む。ミサキがサーベルで一挺の小銃を跳ね上げれば、その兵を助けるため別の二名がほとんど同時に前へ出た。ブラッドが一人を投げても、倒れた本人は受身を取つて直ちに起き、別の者は組みに來る。ジュキヤが大棒を振るへば、正面から受けず間合を外し、振り切つた瞬間だけ懷へ潜つて來る。いつもの喧嘩の延長ではなかつた。こちらの動作が一つ遲れれば、本當に誰かが死ぬ。
しかも最も厄介なのは、ユウタたちが彼らを殺したくないことであつた。眠らせれば仲間が引き起こし、魔力の帶で縛れば別の兵が刃で切り、ブラッドが武器を奪つても素手で飛び掛かつて來る。一人を完全に戰線から外すだけで數人分の手間が掛かつた。レオは市民へ飛んだ流彈による負傷者と、敵味方双方の傷を治すため廣場を走り續けてゐる。ユウタの拘束魔法を突破した一人がレオへ接近した時には、ミサキが間へ入り、サーベルで軍刀を受けた。金屬音が響き、細い腕へ成人兵の力がそのまま掛かる。ミサキは押されながら身を流し、蹴りを腹へ入れて離れたが、その後ろからもう一人が來る。ブラッドが滑り込んで投げたものの、三人目がその背へ銃床を叩き込んだ。ブラッドの膝が一度地についた。
ユウタはそこで初めて、自分たちが押されてゐることを知つた。戰場の端へ追はれたのではない。むしろ廣場全體へ分斷されてゐる。敵はユウタが魔法の中心、レオが治療役、ブラッドが最も強い近接要員であることを短時間で見抜いてゐた。その三人を互ひに助けられぬ位置へ引離さうとしてゐる。ジュキヤは二名を相手に大棒を短く持ち替へ、大振りせず銃身と腕だけを狙つてゐたが、それでも一人を押し退ければ另一人が入る。ドニーは物陰から拳銃を撃ち、精密に小銃や軍刀だけを飛ばしてゐたが、武器を失つた兵が躊躇なく拳で向かつてくるのを見て、初めて表情を硬くした。
一方、靖忠と岡本はユウタたちとは違つた。二人は最初から、相手を戰場の軍人として扱つてゐた。殺さずに止めることを第一には置かない。敵が銃口を向ければ踏込み、敵が軍刀を拔けば受け、必要なら斬る。靖忠の軍刀が一人目の兵の銃を外し、そのまま肩口へ走つた。岡本は二人目の突きを半身で避け、腕を押へて返す一刀を入れる。倒れた兵へ二度目の刃を入れることはないが、立つて攻擊を續ける限り躊躇もしない。その冷靜さは殘酷だからではなく、彼らの中では既に戰鬪の手順になつてゐた。
山路の兵たちも二人の危險さを即座に理解した。六名が靖忠と岡本へ集中し、正面から二名、左右から二名、後方に射手二名といふ形を作つた。靖忠が右の軍刀を受けた瞬間、左から銃劍が突き込まれる。身を捻つて外すと、その背後から銃聲が鳴つた。彈丸が脇腹を掠め、その衝撃で以前受けた銃創が開いた。軍衣の下から血が滲み、呼吸の度に古傷の奧まで痛みが走る。それでも靖忠は止まらず、銃劍を持つ兵の懷へ入り、その進路を一刀で斷つた。
遠くからミサキがそれを見た。
「宮本君!」
聲が裏返つた。靖忠の軍衣に廣がる血は、離れてゐても分るほど濃かつた。ミサキは反射的にそちらへ走らうとしたが、眼前にはまだ二人の兵がゐる。ここを捨てればユウタとレオがむき出しになる。サーベルを握る指が震へた。
「ミサキ、前!」
ユウタに呼ばれて、やうやく刃を受けた。相手の軍刀がサーベルを押し込み、火花が散る。その間にも視線が靖忠へ戻る。今度は敵兵の刃が靖忠の肩口を掠めた。岡本が間へ入り、兵を斬つて退かせる。靖忠は片膝をついたが、すぐ立つた。
その姿を見た瞬間、ミサキの目から涙が溢れた。
「……やだ。」
口から出た聲は自分でも驚くほど弱かつた。しかし敵は待つてくれない。ミサキは涙を拭ふ暇もなくサーベルを振つた。刃が滲む。呼吸が亂れる。怖かつた。昨日までは靖忠が強いことを知つてゐるだけで何となく安心してゐた。彼なら勝つ。彼なら自分を守れる。いつの間にか、そんな勝手な前提を置いてゐた。しかし血を流して膝をついた彼は、當然のことながら死ぬことのある十三歳の少年でしかない。その事實が急に目の前へ出てきた。
「宮本君、死なないでよ……!」
涙を流しながらも、ミサキは前を離れなかつた。サーベルを短く持ち、來る一人を受け、もう一人の銃身を蹴り上げる。嗚咽で呼吸が亂れながら、ユウタの前へ立ち續けた。靖忠は遠くで一度だけこちらを見たが、何か慰めを言ふ餘裕もなく、再び兵の軍刀を受けた。
山路と郡司の戰ひは、廣場中央で完全に他の戰線から離れてゐた。山路は年長であり、經驗も多い。第一合から郡司に試すやうな刃を出さず、本氣で頸を狙つて來た。郡司も受けずに外し、返す刀を山路の胴へ送る。山路が鍔で逸らし、そのまま肩を押して間合を潰す。軍刀を持つ二人が組み合ふほどの距離になれば、今度は拳、肘、足が動く。山路は郡司の腹へ膝を入れ、郡司は身を捻りながら肩で押返した。互ひに一度退き、また斬り込む。二本の軍刀が立續けに鳴り、石畳へ火花が落ちた。
「弱かつたから、俺たちは奪はれた。」
山路は刃を押し合ひながら、息を切らさず言つた。
「貧しければ耐へるしかなかつた。病人が出ても藥を買へず、父親が倒れれば家財を賣つた。金を持つ者はその横を馬車で通つた。それでも弱い俺たちには何も出來なかつた。ならば強くなつた今、奪ひ返して何が惡い。」
郡司の腕に力が入つた。しかし押し返すのではなく、一度だけ力を拔いた。
「強くなつたからこそ、弱い者から奪はぬのだ。」
山路の上體が僅かに前へ流れる。郡司はそこへ入つた。午前、ブラッドと組み合つた時に何度も身體へ叩き込まれた感覺――力そのものではなく、力の向きを崩す。相手が最も強く押す瞬間こそ、その軸は一方へ寄る。郡司は軍刀を持つ山路の手首を押さへ、腰へ入らうとした。だが山路も昨日その動きを見てゐる。重心を殘し、逆に郡司の襟を取つた。
「二度も同じ手を食ふか!」
郡司の身體が浮き、石畳へ投げられた。受身を取つても肺から空氣が拔ける。山路は間髮を容れず軍刀を落す。郡司は橫へ轉がつて避け、膝立ちのまま刃を振り上げた。山路が後退する。その一連の動作の中で、二人は互ひに一度だけ笑つた。相手が強い。それを嬉しいと思つてしまふ種類の人間であることまで、二人は似てゐた。しかし似てゐるからこそ、郡司には山路の理屈が許せなかつた。
廣場では銃聲がさらに増えた。ユウタは一人を眠らせた直後、別の兵に襟を摑まれ、魔法書を落した。咄嗟に腕へしがみついて地面へ倒れ込む。兵はすぐ起き上がらうとしたが、ブラッドが横から入り、肩を取つて投げた。ところがブラッド自身も二名に組みつかれ、さらに一人が背後から腰へ入る。柔道の達人であつても三方向から同時に力を掛けられれば容易には動けない。ジュキヤが助けに入らうとすると、その前へ別の兵が軍刀を持つて現れる。大棒と軍刀がぶつかり、ジュキヤが一歩下がつた。彼もまた、今までなら力任せに振つてゐたところを、棒を短く持つて相手の手首と武器だけを狙ふ。その程度には、もう戰ひ方を學んでゐた。
それでも敵は減らない。正確には減つてゐる筈なのに、一人を倒すまでが長過ぎるのである。ユウタはようやく、兵たちの强さが個人の技術だけではないことに氣付いた。彼らは互ひを助ける。一人が危ければ二人目が入り、二人目が危ければ三人目が射線を作る。ユウタたちは一人一人がそれぞれ自分の戰ひをしてゐる。この差であつた。
「みんな、バラバラに戦わないで!」
ユウタは落した魔法書を拾ひながら、短く指示を出した。自分が足を止め、ブラッドが武器を奪ひ、ミサキはユウタとレオへ近づく者だけを押へ、ジュキヤは倒れた者を再び戰線へ戻さない。ドニーは人ではなく武器のみを撃つ。それだけに役割を絞る。ゲームなら當然にやつてゐたことである。しかし命が掛かつた戰場で、その單純な考へへ辿り着くまでが遲れた。
そこから、やうやく少しづつ流れが變つた。ユウタの魔力の帶が一人の足を止めれば、ミサキが援護へ入る兵の進路をサーベルで塞ぎ、ブラッドが止まつた一人だけを確實に投げる。ジュキヤは倒れた兵の前へ立ち、大棒を横にして起上らせない。ドニーの拳銃が小銃の機關部を撃ち抜き、武器を失つた兵が徒手で突進すれば、今度はブラッドが容易に崩す。ユウタたちは山路の兵たちのやうに長年訓練した部隊ではない。それでも互ひの得意なことを繋いだ時、初めて彼らに對抗する形が出來た。
その間にも靖忠と岡本の戰ひは激しさを増してゐた。靖忠の脇腹から流れる血は止まらず、左腕を上げるだけで傷が引つ張られる。それでも敵兵は彼を弱つた子供として扱はない。むしろ今倒すべき相手として三名が集中した。一人の軍刀を靖忠が受ける。その刀へ力を取られた瞬間、二人目の銃聲が響いた。彈丸は肩を掠め、靖忠の身體が大きく傾いた。三人目が踏込む。岡本がそこへ割つて入り、軍刀同士が激しく噛み合つた。
「靖忠、下れ。」
「まだ動ける。」
それ以上の言葉はなかつた。岡本は説得を諦め、靖忠の左側を自分が受持つた。二人は背中を近くし、互ひの見えない方向だけを補つた。靖忠が一人を斬れば岡本は横から來る一人を受け、岡本が銃を避ける間には靖忠がその射手へ間合を詰める。血を流してゐても、靖忠の動きは無駄を削る方向へ變つただけであつた。速さが落ちれば少なく動く。一刀で足りるところへ二刀目を出さない。痛みに呼吸を亂されても、刀の軌道だけは亂さない。
兵の一人が「總帥閣下の爲だ!」と叫んで突進した時、靖忠の眼だけが變つた。
「總帥閣下の御命令でもない戰で、勝手に死ぬな。」
それだけ言ひ、刃を外して返した。兵が倒れる。靖忠自身もそこで片膝をついた。遠くでミサキの嗚咽が聞こえたが、振返る餘裕はなかつた。
郡司と山路は、既に何十合打合つたか分らなくなつてゐた。郡司の頬には切創があり、山路の軍衣も肩から裂けてゐる。疲れは互ひに來てゐる。それでも先に氣を切らした方が負けることを知つてゐるから、二人とも荒い呼吸を相手へ見せまいとしてゐた。山路が上段から落す。郡司が受ける。刀身が軋むほどの力が掛かる。今度は郡司が押し返さず、山路の力の方向へ僅かに身をずらした。山路は前へ出る。郡司はそこで刀を離さず、その腕ごと抱へ込むやうに懷へ入つた。
ブラッドの柔道で學んだのは技の形ではない。相手が立つてゐるためには、相手自身が気づいてゐない均衡が必要だといふことであつた。
郡司の腰が沈んだ。
山路の足が石畳から離れた。
山路も即座に郡司の襟を摑み、二人は絡み合つたまま倒れた。鈍い衝撃が廣場に響く。山路の方が先に起き、郡司の胸へ膝を載せて拳を一發入れた。郡司の顏が橫を向く。二發目も入る。三發目を腕で受け、その手首を摑んだ。今度は下から山路の軸を崩し、身を返して上下を逆にする。山路が立たうとする。郡司は腕を背へ取り、肩と肘を固定した。
「離せ!」
「離さん!」
山路は郡司を背負ふほどの力で立上らうとした。郡司の足が石畳を滑る。それでも手だけは離さない。山路が身体を捻り、二人とも再び地面へ倒れる。郡司の拘束が一瞬緩む。山路が軍刀へ手を伸ばす。その指先が柄へ觸れるより早く、郡司は軍刀を足で遠くへ蹴り飛ばした。
「終りだ。」
「まだだ!」
「終りだ、山路!」
山路はそれでも動いた。拳を握り、郡司へ向かふ。郡司も立つ。互ひにもう軍刀を持つてゐない。最後は拳であつた。山路の一發が郡司の頬へ入り、郡司も腹へ返す。山路がよろめいても倒れない。郡司が胸を打たれて下がつても、また前へ出る。やがて山路の拳が遲れた。その一瞬、郡司は身を沈め、腰を入れ、今度こそ完全に山路の軸を奪つた。
山路の身體が宙へ舞つた。
石畳へ落ちる。
郡司はすぐ腕を取り、今度は逃がさなかつた。
その頃にはユウタたちの戰線も終りへ近づいてゐた。十八名のうち、なお戰へる者は僅かであつた。拘束された者、意識を失つた者、靖忠と岡本の軍刀に倒れた者。中には既に動かぬ者もゐる。レオはその一人へ治癒魔法を掛け、何の光も返らないのを見て顔を白くした。彼らは一度、現實世界で死んでゐる。異世界で迎へる死は二度目であり、その死に蘇生魔法は届かない。
「……この人、戻らない。」
レオはそれだけ言ひ、次の負傷者へ走つた。今は悲しんでゐる暇もなかつた。
最後まで立つてゐた山路派の兵が一挺の小銃を拾はうとした。ユウタの魔力の帶が腕へ絡む。それでも兵は地面を這つて銃へ向かふ。ユウタは思はず叫んだ。
「もういいよ! 山路さんのためなら、なおさら生きてよ!」
兵の動きが止まつた。視線の先では、山路が郡司に押へられてゐる。軍曹はもう戰つてゐない。周圍を見れば仲間の多くも倒れてゐる。兵は暫く動かなかつたが、やがて伸ばした手を石畳へ置いた。
戰ひが終つた。
その途端、ミサキはサーベルを落しかけた。敵が來ないことを確めるより先に靖忠へ走り、途中からほとんど泣き崩れるやうにその傍へ膝をついた。靖忠は岡本の肩を借りて坐り、軍衣の脇腹からかなりの血を流してゐる。肩にも新しい傷がある。ミサキはそれを見た瞬間、戰鬪中に無理に止めてゐた感情を完全に失つた。
「宮本君……宮本君……!」
言葉にならなかった。両手で靖忠の腕を掴み、子供のように声を上げて泣いた。靖忠は自分の傷より、目の前でここまで泣かれてゐることに困つたやうな顏をした。
「泣くな。死んではゐない。」
「そういう問題じゃない!」
ミサキはそれだけ叫ぶと、また泣いた。靖忠は返す言葉を失ひ、結局そのままにした。レオが駈け寄り、脇腹へ治癒魔法を掛ける。今回は光が傷へ入り、開いた古傷と新しい裂創が徐々に塞がつてゆく。それを見て命に別状がないと分つた途端、ミサキは安心したせいで却つて激しく泣いた。靖忠は「もう大丈夫だ」と短く言つたが、それすら彼女を泣かせるだけであつた。
少し離れた石畳では、郡司に押へられた山路がその光景を見てゐた。部下たちも見た。生きてゐる者にはレオが次々と魔法を掛け、ユウタやブラッドが武器を遠ざける。死んだ者だけは動かない。山路が率ゐた十八名は、自分の正義のために此處へ來て、自分の命令に從つて戰ひ、その何人かは二度目の死を迎へた。その事實が、先ほどまでの激情から一枚づつ言葉を剝がしていつた。
郡司は押へる腕を僅かに緩めた。
「貴樣は強い。だからこそ、こんなことに力を使つたのが腹立たしい。」
山路は暫く答へなかつた。やがて低い聲で、「……俺は、大尉殿を助けたかつただけだ」と言つた。その聲には、廣場で演説してゐた時の力がなかつた。
ユウタが近づいた。戰ふ相手ではなくなつた山路の前へしゃがみ、何も飾らず手を差し出した。
「じゃあ帰ろうよ。畠中さんと話そう。間違ったことがあるなら謝ればいいし、責任があるなら生きて考えればいい。まだできるよ。」
山路は差し出された手を長く見てゐた。ユウタは彼を許すとは言つてゐない。何もなかつたことにすると言つてもゐない。寧ろ生きたまま、自分のしたことを背負へと言つてゐる。その手は山路にとつて、敵の軍刀より重かつた。
「……貴樣は、何故そこまで人を生かしたがる。」
「死んだら、もう話せないから。」
山路は僅かに笑つた。
「……さうか。」
その右手が軍衣の内側へ入つた。
郡司が最初に氣附いた。
「山路!」
隱してゐた小型拳銃が出た。ユウタも意味を理解し、手を伸ばした。
「待って!」
山路は立ち上がらなかつた。ただ膝をついたまま一度だけ背筋を伸ばした。郡司が飛び掛かり、靖忠も治療の途中で身を起さうとした。しかし間に合はなかつた。
「總帥閣下萬歲。」
銃聲が一つ、廣場へ響いた。
今まで泣き續けてゐたミサキさへ、聲を失つた。
ユウタは數秒の間、目の前で起きたことを理解出來なかった。山路はほんの少し前まで話していた。自分の言葉を聞き、笑い、返事までした。それなのに今は動かない。
「レオ!」
ユウタの叫びでレオが走つた。山路の傍へ膝をつき、兩手を當てる。いつものやうに白い光を起こさうとする。しかし光は傷へ入らず、淡く散つた。
もう一度試す。
同じであつた。
「……駄目だ。」
ユウタがレオを見る。
「なんで……?」
「二回目だから。」
レオは山路から手を離さなかつた。
「この人は七=二八事件で一回死んでる。こっちで死んだら二回目だ。二度死んだ人には……僕の魔法は届かない。」
廣場に沈默が落ちた。
ユウタは山路を見た。ジュキヤも何も言はず、大棒を下ろした。ドニーは帽子を取つた。ブラッドも黙つてゐる。ミサキは靖忠の腕を掴んだまま、今度は山路を見て震へ始めた。つい先ほどまで靖忠が死ぬのではないかと恐れ、今はレオの魔法で助かつた。そのすぐ傍で、山路は自分から二度目の死を選び、もう戻らない。
ユウタはそこで靖忠たちを見た。
三人の反應が、自分たちとは違ふことに氣附いた。
郡司は拳を強く握つてゐる。岡本は山路を見てゐる。靖忠も傷の治療を受けながら、ただ靜かに死者を見てゐる。悲しんでゐないわけではない。それでも誰も取り亂してゐなかつた。
「宮本君たち……怖くないの?」
靖忠は少し考へた。
「怖くないわけではない。殘念だが、今や慣れつこになつてゐる。」
その言葉に、ユウタたちは却つて怯えた。
十三歳の少年が、目の前で人間が死ぬことを「慣れた」と言ふ。それは勇敢だからでも、命を輕く見てゐるからでもない。何度も見てしまつたからである。郡司は山路の落した拳銃から彈倉を拔き、低く「慣れたくて慣れたわけではない」と言つた。岡本も「何も感じなくなつたのではない。驚かなくなつただけだ」と續けた。
ミサキはまた涙を流した。
「そんなの……嫌だよ。」
靖忠は否定しなかつた。
「俺もだ。」
それ以上は誰も言はなかつた。
郡司は山路の前へ膝をつき、その亡骸を暫く見てゐた。
「……何故、生きなかつた。」
問ひに返事はない。
岡本がその傍で、「これも責任を取つたことにはならん」と呟いた。死ねば謝ることも、部下へ説明することも、畠中ともう一度論爭することも出來ない。責任を感じて死ぬことと、責任を果すこととは同じではない。その言葉は冷たく聞こえる筈なのに、ユウタには「だから生きてゐて欲しかつた」と言つてゐるやうに聞こえた。
靖忠は支へを借りながら立ち、山路へ敬禮した。郡司、岡本も續いた。山路のしたことを認めるためではない。軍人として強かつたこと、己なりの忠義を最後まで持つてゐたこと、その事實と、彼が犯した過ちとは別である。ユウタたちはそれを完全には理解出來なかつたが、止めもしなかつた。
午後、山路の亡骸と生き殘つた部下たちは舊内務廳へ戻された。傷ついた兵はレオの魔法によつて命を繋いだが、既に二度目の死へ至つた者だけは戻らなかつた。擔架が一つ、また一つと玄關へ運ばれる。最前列には山路がゐた。
畠中仁は建物の外まで出て待つてゐた。
擔架の上に山路を見た瞬間、畠中の顏から血の氣が引いた。昨夜まで自分の前に立ち、「大尉殿を裏切つた積りはありません」と訴へてゐた部下である。謹愼を命じれば、明日にはまた叱ることが出來ると思つてゐた。軍紀違反として處分し、その後いつか酒でも飮みながら「あの時は馬鹿をした」と言へる日さへ、心の何處かで當然のやうに想像してゐたのかもしれない。
「最後に、何と言つた。」
郡司が答へた。
「『總帥閣下萬歲』でありました。」
畠中は長いこと動かなかつた。
山路は最後まで、畠中仁のために死んだとは思つてゐなかつた。己の貧困も、怒りも、斬奸も、命令違反も、最後の死さへも、總帥閣下への忠義の中へ包み込んだ。その忠義を政治へ持込み、「奸を斬る」と兵へ語り、軍人の武力に善惡を裁かせる入口を作つたのは誰であつたか。畠中には分つてゐた。
彼は山路の擔架の傍らへ腰を落した。
「……俺は、此奴に何を教へた。」
答へる者はなかつた。
神衞維新はまだ制度の上では續いてゐる。役所には兵が立ち、行政文書には畠中の署名があり、市内には維新政府の旗が翻つてゐる。しかし、その旗の下へ初めて、敵に斬られたのではない部下の亡骸が歸つてきた。
己の信じた正義の果てに、己で二度目の死を選んだ男の亡骸であつた。
畠中仁はその夜、初めて神衞維新の敗北を、思想ではなく現實として考へ始めた。
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