ペトリコール
要四季
第1話
「ねぇ、知ってる?」
君の口癖だった。
少しだけ上体を倒して、横に並ぶ俺の顔を覗き込むみたいにして。
「これ、ペトリコールって言うんだよ。雨の降り始めの匂い」
真新しい制服が濡れていくのも気にせず、自慢げに笑う。
「はいはい、とりあえず雨しのげるところ探すよ」
「ギリシャ語で、石っていう意味の
彼女の腕を引っ張って屋根を探しながらも、その言葉は止まらない。ギリシャ語の発音が妙に良くて笑ってしまう。
絶妙に役立たない知識ばかり披露してくる、そんな君との時間が何より尊くて。
──彼女の影から、目を逸らし続けてしまった。
♦︎♦︎♦︎
「私、死のうと思ってる」
その日は、なんということもない日だった。
ギラギラとした太陽が牙を納め、山々が色づいてきた頃。
「…………そっ、か……」
彼女は見慣れた微笑を浮かべていて、紅葉狩りの由来ってねー、なんて変な知識を披露してくるいつもの彼女そのもので。
ほんの少し、目が赤いだけで。
聞き間違いだと思った。模試の勉強でここのところ根を詰めていたから、変なふうに聞こえてしまっただけだと。
「あ、ねぇ、知ってる?」
俺の動揺を置き去りに、彼女はまたいつもの口癖を紡ぐ。
「体育館ってよくミシミシ言ってるじゃん、あれって実は──」
彼女の瞳は光を反射していた。
いつも通りの彼女に、やっぱり聞き間違いだったんだと安心した。
──何も、しなかった。
♦︎♦︎♦︎
『今日の放課後、屋上に来て』
一週間後の朝だった。
滅多に届かないスマホの通知に、心臓がドクンと音を立てる。
──私、死のうと思ってる。
一週間前の彼女の言葉が蘇る。首を振る。
『わかった』
一言だけメッセージを送って、スマホを閉じる。
空気が、粘度を増したようだった。
♦︎♦︎♦︎
「……来てくれたんだ」
「……わかったって、送ったはずなんだけど」
「それはそうだけど……まぁいいや」
彼女は扉の前で立ち尽くす俺の手を取って、屋上の真ん中へ導いた。
ぐいと引っ張る彼女に逆らわず、その場に腰を下ろす。
「ねぇ、知ってる? 屋上って、毎月サッカー部が掃除してるらしいよ」
「……そう」
そっけない返事を返す俺を気にせず、彼女は何気ない会話を続ける。
いつも通りの会話で、だけど俺の言葉も彼女の言葉も、どこか上滑りしていた。
地面より少しだけ強く吹く風が、片っ端から言葉をさらっていくみたいだった。
──どれだけ経っただろうか。
「ね、一週間前、私が言ったこと覚えてる?」
静かな声で、彼女が言う。赤く照らされた横顔は、震えるほど美しかった。
「……覚えてない」
「……嘘が下手だなぁ」
立ち上がり、彼女は屋上の縁へ歩いていく。
二メートルほどのフェンスに背中を預け、彼女は俺の顔をまっすぐ見た。
「私、今日死ぬよ」
すっと、笑みが消えた。
いつもの温かみもお茶目さも消えた、冷たい無機物のような瞳に貫かれる。
「……な、んで」
「まぁ、色々あるんですよ。ねぇ、知ってる? 女はめんどくさいんだよ」
彼女が肩をすくめる。
スカートが風に吹かれ、彼女の足が露出する。──痛ましい痣と共に。
「でも……」
何か言わなければならない。けれど、どんなに広大な空を探しても、紡ぐべき言葉は見つからなかった。
今の関係が崩れてしまうことを恐れて、彼女に深く踏み込むことを恐れて。
ずっと表面的な会話しかしてこなかった俺には、彼女が抱える傷を知らなかった。
「ふふ」
冷や汗をかきながら必死に言葉を探す俺を見て、彼女が笑う。
見慣れたはずの彼女の笑みに、背筋が凍る。
「……なんで、俺を呼んだんだ?」
「知りたい?」
彼女が近づいてくる。俺の手を強く強く握る。
「……教えてあげない」
至近距離で彼女と目が合う。その瞳は、わずかに潤んでいた。
「……俺に、何をして欲しいんだ」
「見てて。最期まで。それだけでいいから」
彼女は俺の手を引いてフェンスに向かった。
下の方をぐっと押すと、パキン、と小さな音を立ててフェンスに大きな穴が開く。
「ちゃんと準備してきたんだよ。偉いでしょ」
俺の手を離し、彼女は躊躇いなくフェンスをくぐり抜けた。
風が止む。
何をすればいい? 止めればいいのか。彼女が何を抱えているかも知らずに。
「じゃあね」
あっさりと彼女が言う。
夕陽の影になった背中が、やけに黒々として見えた。
雨の中傘を差す彼女。
スマホの通知を慌てて隠そうとする彼女。
赤くなった目を伏せて笑う彼女。
くだらない雑学を、自慢げに披露する彼女。
ひゅう、とわずかに風が吹く。
俺は──
「…………」
「……なんで?」
「…………」
「ねぇ、なんで止めたの」
「……わからない」
気づけば、俺は無我夢中で彼女の体を引き戻し、腕の中に抱いていた。
足からふっと力が抜け、共にその場に座り込む。
「でも、俺は君に死んでほしくないみたいだ」
勝手に、その言葉が口を出た。腕の中から、わずかに震えが伝わってきた。
ひゅうう、と音が鳴る。
「……そっか」
彼女が立ち上がる。
「……時間取らせてごめん。帰ろっか」
彼女の顔には微笑が浮かんでいて、俺も強張った表情筋を叱咤して不器用な笑みを浮かべた。
「うん」
♦︎♦︎♦︎
翌朝。
目覚ましが鳴る前に目が覚めた。やけに、喉が渇く。
昨日、屋上を出てから、彼女は俺の知る彼女になった。
さっきまでのことはまるで何も無かったみたいに、お喋りで、元気で、よく笑って。
家に帰ってから、ずっと夢を見ているようだった。
何が起きていたのか、全然分からなかった。
無性に、彼女に会いたかった。彼女の、どうでもいいような豆知識を聞きたかった。
だから、いつも以上に早く家を出て、早く学校に向かって。
──ツンと鼻をつく匂いがした。
生暖かい鉄錆の匂い。
どっと全身から汗が噴き出す。
石で整備された通路に、血が広がっている。それはうつ伏せになっていて、顔は見えなかった。
「ゔっ……」
えずきかけて、ぐっと堪える。
鼻をつく匂いはますます強まっていく。俺に絡みついてくるみたいに。
──ペトリコール
ふと、その言葉が蘇った。
──ギリシャ語で、石っていう意味のpetrosと、神の血液っていうichorを掛け合わせた言葉なんだって。
呆然を空を見上げる。雲ひとつない快晴が広がっている。
「キャーーー!」
悲鳴が聞こえる。
どんどん人が集まってくる。
サイレンが鳴る。
大人たちがわらわらと群がる。
ひゅう、と風が吹いた。
目を閉じる。
「──ペトリコール」
蘇るのは、昨日の瞳でも血まみれの体でもなく、自慢げに笑った彼女の笑みだった。
ペトリコール 要四季 @Punyon
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