第23話 最悪の日

異世界の夜は、地球のそれよりもどこか底冷えがする。

石造りの古びた宿屋の一角、ほの暗いランプの光が落ちるテーブル席で、隼人と明里は静かに夕食を摂っていた。皿の上が減っていくスピードは遅い。カトラリーが皿に当たる硬い音が、会話の途切れた空間にぽつり、ぽつりと響いていた。

「……今さらだけどさ。よく再現できたよな」

スープをすくい上げながら、隼人がふと思い出したように呟いた。

「何が?」

に向かいに座る明里が、グラスに口をつけながら首をかしげる。

「パーティーの時のことだよ。あの楽器の音さ」

「ああ、あのことね」

明里は納得したように柔らかく微笑んだ。

あの時の驚きは、今でも鮮明に覚思い出せる。国王主催のパーティーで演奏すると玲央が突然言い出した時、隼人は本気で頭を抱えたのだ。この異世界には、彼らが前世で使い慣れていたエレキギターやドラムセット、シンセサイザーといった現代の楽器など存在しない。あるのはリュートや木管といった、素朴で古典的な楽器ばかりだった。

だが、その高い壁を乗り越えさせたのは明里の存在だった。

エルフである彼女は、人間や他の種族には扱うことのできない高度で繊細な魔法を行使できる。この世界に存在する既存の楽器に特殊な魔力を付与し、かつて彼らが鳴らしていた音色や残響、果ては音響エフェクトのニュアンスまでを見事に再現してみせたのだ。

「あれは本当に驚いたよ。明里の魔法がなかったら、俺たちの音は再現できなかった」

「ふふ、エルフの魔法をそんな無駄遣いするなんてって、最初は自分でも思っちゃったけどね。でも、あんなに綺麗に響くなんて思わなかった」

「だな。……けどさ」

隼人は肘をテーブルについて天井を見上げた。

「……肝心の玲央のやつ、どこ行ったんだよ。最近、夜になるとまったく一緒に飯食わねぇだろ」

あのパーティーの夜以来、レオの行動にはあからさまな変化が生じていた。

昼間のクエストを終えて宿に戻ってきても、自分の部屋に荷物を投げ置くやいなや、すぐさま街の闇へと消えていってしまう。

『どこ行ってんだよ』と隼人が尋ねても、レオは『別に』と短く返すだけだった。視線を合わせず、それ以上追及させないような冷ややかな雰囲気を纏って出て行ってしまうのだ。仲間に対して隠し事をするような奴ではなかったはずなのに、今のレオは何か大きな焦燥感に追われているように見えた。

「なあ明里。レオのやつ、夜な夜な街のどこに行ってると思う?」

「……」

「まさか、危ない裏組織の仕事にでも手を染めてるんじゃないだろうな。いや……あいつがそんなバカなことする奴じゃないのは、俺が一番よく分かってるんだけどさ」

吐き捨てるように言った隼人に対し、明里は静かにグラスを置くと、迷いのない瞳で隼人を見つめ返した。

「きっと、鈴ちゃんのところじゃないかしら」

その名を聞いた瞬間、隼人の胸がわずかにきしんだ。

「……でもさ、鈴には記憶がないんだろ? あいつ、自分でそう言ってたじゃないか」

あのパーティーの会場で再会した鈴は、間違いなくかつての仲間である鈴だった。けれど、その瞳に隼人やレオを映した時、そこに宿っていたのは見知らぬ他人に向けられる警戒と困惑だけだった。彼女はこの世界で生まれ育ち、前世の記憶などこれっぽっちも持ち合わせていない。

「確かに、私たちの顔も名前も覚えていなかったわ。……でもね、隼人くん。あの子、私たちが奏でた音楽にははっきりと反応していたでしょう?」

「 それは……」

「あの旋律を聞いた時、鈴ちゃんの瞳が大きく揺れていた。忘れていても、魂の深いところで覚えている音があるのよ。きっと玲央くんは、そのわずかな可能性にすべてを賭けているのよ」

「……なるほどな。あいつらしいや」

隼人は苦笑しながら呟いた。

鈴は、バンド『Re:note』の中で誰よりも音楽を愛していた。音と戯れる時の無邪気な笑顔、フレーズひとつに命を吹き込むような情熱。もし彼女の記憶を呼び覚ます鍵があるとするならば、言葉や思い出話ではなく、音楽そのものなのかもしれない。

「でもさ」

隼人は腕を組み、少しだけ納得のいかないような表情を浮かべた。

「いっそ『俺たち、前世で同じバンドを組んでたんだ!』って直接言っちまえばいいんじゃないのか? じれったいよ」

「それはダメよ、隼人くん」

明里は優しく、だが諭すようなトーンで首を振った。

「玲央くんも、きっとすごく迷っているのよ」

「迷う……? 何をだよ」

「考えてもみて。鈴ちゃんはさ、生まれてからずっと、この異世界でひとりの人間として生きてきたのよ? 突然現れた見知らぬ冒険者から『前世は日本人で、一緒に音楽をやっていたんだ』なんて言われたら、混乱して崩れてしまうかもしれないじゃない。……それに」

明里は言葉を一度切り、少しだけ視線を落とした。

「……思い出したくない、辛い過去だってあるかもしれないでしょう?」

「…………」

隼人は何も言い返せなくなった。

言葉が喉の奥でつかえる。そうだ。明里の言う通りだった。自分たちが過ごしてきた日々は、決して輝かしい青春の思い出だけで満たされていたわけではない。

今でも、目を閉じれば昨日のことのように思い出せる。

あの日──すべてが灰燼に帰した、あの最後の日だけは。

──思い出したくもない、最悪のあの日。



──────────



それは、俺たち『Re:note』にとって、悲願であった初めての海外公演が決まった直後のことだった。

自分たちの作った音楽を携えて、世界へ飛び出すこと。

それは玲央と鈴、2人の幼少期からの最大の夢だった。

その決定を告げられた時、普段はめったに感情を表に出さない玲央が、思わず立ち上がって固く拳を握りしめたのを今でも覚えている。隼人と明里も、もちろん鈴も飛び上がって喜んでいた。

『いよいよ3日後だね! 私、海外なんて行くの初めて! どうしよう、楽しみすぎる!』

鈴は跳ねるような足取りでウキウキと笑っていた。

『あぁ。世界中に俺たちの音をぶちかましてくるんだよ。……って、浮かれてる場合かよ! なんで渡航直前まで誰も荷造りをしてないんだ!』

『……ごめんなさい』

俺が呆れ果てて小言を言うと、鈴、隼人、明里の3人は揃って頭を下げた。

現地で使う生活用品や変換プラグ、衣類の準備すらまともに終わっていなかったのだ。渡航計画があまりにも急に決まったとはいえ、あまりの計画性のなさに、レオはさっきまで大型ショッピングモールのカフェで3人をこっぴどく説教したばかりだった。

あの時は、ただただ楽しかった。

未来のことしか見えていなかった。自分たちの前には無限の可能性が広がっていて、どんな困難も4人で鳴らす音があれば乗り越えられると信じて疑わなかった。

なのに──どうして、あんなことになったのだろう。

『じゃあ、買い出しの分担を決めて効率よく回るぞ』

俺の一言で、俺たちは二組に分かれてモール内を回ることになった。

隼人と明里は日用品と細々とした小物類を担当し、俺と鈴は大型の機材ケースや衣類などを担当する。

『じゃ、また後でなー!』

『うん、買い物が終わったら1階のフードコート集合ね!』

お互いに笑って手を振り合い、別々のエリアへと歩き出した。

──そして、それからほんの数分後のことだった。

耳を裂くような、暴力的で巨大な破裂音がモール内に轟いた。

直後、足元から突き上げるような激しい地響きが襲い、天井のダクトから猛烈な黒煙が吹き出してきた。悲鳴と叫び声が鼓膜を刺す。照明が明滅し、店内は一瞬にして暗闇と火の海へと変貌した。

『火事だ! 火事だーっ! 爆発だ、逃げろ!!』

誰かの悲痛な叫び声が錯乱する中で、一気に広がるパニックの波。

『……うそだろ……ッ!』

煙の匂いが急速に濃くなり、視界が白く不透明に染まっていく。喉が焼けつくように痛む。

『隼人くん?! どこ?!』

『明里、俺の手を離すな! こっちだ!』

恐怖に震える明里の手を強く引き、隼人は必死に出口を目指して人混みを押し分けた。

その時だった。煙の奥から駆け戻ってくる俺の姿と、奇跡的に鉢合わせたのは。

『玲央! こっちだ、早く逃げ──』

隼人が叫んだが、俺は足を止めなかった。その顔は蒼白で、目は焦燥と狂気じみた恐怖で激しく揺れていた。

『鈴が……ッ! 鈴がまだ、あの奥にいるんだ!』

『なんだって!?』

明里が息を呑み、不安そうに隼人の顔を見つめる。

火の手はすでに俺の後方まで迫っていた。黒煙がうねりを上げて天井を這い、炎の熱気が皮膚を焼く。今から奥へ戻ることがどれほど危険か、愚かな行為かなど、隼人にも痛いほど分かっていたはずだ。

けれど──『行くな』なんて言葉は、隼人の口からは出なかった。

『……必ず、無事で戻ってこい! いいか玲央、二人でだ!!』

隼人が絞り出すように背中に声をかけると、俺は走り出しながら、一瞬だけ振り返った。

『ああ。また後で』

それだけを言い残し、俺は灼熱と黒煙が渦巻く火元の方へと躊躇なく飛び込んでいった。

勢いを増す黒煙の中に包まれ、俺の背中はあっという間に見えなくなった。

あの時の俺の目には、鈴の姿しか映っていなかった。

己の命の危険すら投げ打ち、ただ一人大切な存在を守るために炎の中へ消えていく。

それが──玲央という人間だった。



──────────



「……そして俺たちは、この異世界で再び出会った」

隼人は静かに呟き、自分の掌を見つめた。

あの巨大火災で、ショッピングモールにいた明里も隼人も、命を落としたらしい。

意識が途切れ、次に目を覚ました時、視界に広がっていたのは青く澄み渡る見知らぬ空と、中世のような情緒を残す見知らぬ街の景色だった。

異世界転生。

物語の中だけの存在だと思っていた現象が、自分たちの身に起きたのだ。前世の身体を失い、まったく違う環境で、新しい生を受けた。

けれど、神の悪戯か、あるいは強い絆の引き寄せか。

俺たちはまた出会えたのだ。

隼人と、明里と、玲央と、そして記憶を失った鈴と。

更には、前世で自分たちの魂そのものだった『音楽』という存在とも。

「あの日、すべてが燃え尽きて終わったはずだったんだ」

隼人は言葉に力を込め、固く拳を握りしめた。

「でも、違った。俺たちの物語は、あの火災の煙の中で終わったんじゃない。俺たちは今、こうして違う形でも確かに生きている」

明里も小さく頷き、胸の前で手を組んだ。

「ええ。玲央くんが諦めていないなら、私たちが諦めるわけにはいかないわね」

宿屋の窓の外には、異世界の美しい星空が広がっていた。

どんなに離れても、一度は運命に引き裂かれて命を失ったとしても、彼らの絆は途切れていない。玲央が夜の街で一人、葛藤しながらも鈴との繋がりを模索しているように、隼人も明里もまた、自分たちにできる方法で未来を切り開こうとしていた。

いつか、きっと。

鈴が失われた記憶の欠片を取り戻すその日まで。あるいは、新しい歴史をこの世界で紡ぎ始めるその日まで。

(必ず……)

隼人は心の中で、強く、強く誓う。

(必ずまた、あの4人で────あの最高の音を、奏でてみせる)

『Re:note』の旋律は、まだ終わっていなかった。

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