第三章 フルルカンパニー
第一話 ミレイの「何となく」
今日は、ロンダーさんの会計事務所へ行く日だ。
先日、ロンダーから、
「支店長のフィリップさんにミレイさんのことをお話ししたところ、ぜひ一度お会いしたいとおっしゃいまして。」
と、招待を受けていた。
会計事務所がどのようなところなのか、ミレイにはよく分からない。
どんな人たちがいて、どんな仕事をしているのだろう。
そんなことを考えながら和み亭を出ると、店の前には、側面が大きく開いた四人乗りの貸し馬車が停まっていた。
「おはようございます、ミレイさん。」
「今日はよろしくお願いいたします。」
ロンダーとローザが、にこやかな笑顔で待っている。
「おはようございます。こちらこそ、よろしくお願いします。」
ミレイはぺこりと頭を下げた。
挨拶を交わした後、一行は馬車へ乗り込んだ。
車輪が石畳を軽快に鳴らしながら進み始める。
窓から流れる景色を眺めているうちに、馬車は商店街へと入った。
白壁と赤瓦の建物が並ぶ大通りを、商人や買い物客が行き交い、露店の呼び声が響いていた。
路地の片隅には、薄汚れた服を着た大人たちや、物乞いをする子供たちの姿も見えた。
「最近は、浮浪者が増えてきて困りましたわね。あんな小さな子供まで……」
ローザが痛ましそうに眉をひそめた。
「領主様は、何とかしてくださらないのかしら。」
「いやあ、領主様も隣国との争いで手一杯なんだよ。」
ロンダーがため息をつく。
「教会がしっかりしていた頃は、あんな子供たちが出ることもなかったんだけどね。」
ミレイは、路地に座る子供たちから目を離せなかった。
「ミュミュミュ!」
突然、胸元からフルルが飛び出し、馬車の外へ跳び出そうとした。
「だめっ!」
ミレイは慌てて両手を伸ばし、フルルを捕まえた。
「どうしたの、フルル?」
フルルは、左右の綿毛のようなホワホワを揺らし、懸命に何かを訴えている。
「そうなの? 欲しいものがあったのね。」
ミレイは窓の外を振り返った。
「分かった。帰りに寄ってあげるから、それまで我慢してね。」
フルルはうれしそうに、ふわふわの体を震わせた。
その様子を、ローザとロンダーが
「それは……何ですの?」
ローザが、おそるおそる尋ねた。
「驚かせてごめんなさい。この子、フルル。私の一番の親友です。」
ミレイは両手の中のフルルを二人に見せた。
「でも、この子のことは秘密にしておいてください。アテーラさんに、そう言われているので。」
「ミレイさん。」
ローザが身を乗り出した。
「その子に、触らせてくれませんか?」
「フルルに?」
「ロリィが、その子はとってもかわいいから、触りたい、抱きしめたいと言っているんです。」
ローザはそっとフルルを抱き上げた。
「あら……本当にかわいいわね。」
ふわふわの体を、両手で優しく包み込む。
ミレイは、その様子を不思議そうに見つめた。
(あれ……この間みたいに、何かが跳び込んでくる感じがしない。)
「ロリィが、とても喜んでいます。ありがとうと言っています。」
「え? ロリィ?」
「ミュウミュウ」
「フルルもうれしいって。」
「そう……」
ローザは、腕の中のフルルへ優しく微笑みかけた。
「ふふ、ありがとう」
やがて馬車は、商店街を抜けて大きな通りへ入った。
しばらく進むと、三階建ての白い石造りの建物が見えてくる。
正面には大理石の柱が並び、その上には大きな
「こちらが、グランティス会計事務所です。」
ロンダーに案内され、ミレイたちは建物の中へ入った。
そこで働く人々は、積み上げられた書類と向き合い、数字を書き込み、帳簿を確かめている。
ミレイは歩きながら、きょろきょろと周囲を見回した。
(皆、何をしているのだろう。)
案内された支店長室は広々としており、中央には重厚な木製の机が置かれていた。
その奥の椅子から、一人の男性が立ち上がる。
五十代ほどだろうか。
背が高く、知的で落ち着いた雰囲気をまとっている。
「いらっしゃい。お待ちしていました。」
男性は笑顔で歩み寄り、手を差し出した。
「私が支店長のフィリップです。」
「ミレイです。よろしくお願いします。」
ミレイはその手を握り、軽く頭を下げた。
フィリップは続いてローザへ目を向ける。
「ローザさんも、すっかりお元気になられたようで何よりです。」
「はい。ミレイさんのおかげです。」
「どうぞ、お掛けください。」
一行は応接用のソファーへ案内された。
全員が腰を下ろすと、フィリップは改めてミレイを見た。
「ロンダー君から聞いていますよ。奇跡を起こす少女だとね。ぜひ一度、お会いしたいと思っていました。」
そう言うと、興味を隠しきれない様子で、身を乗り出す。
「この後、お食事でもご一緒しませんか。あなたと、少しお話をしたいのです。」
その時だった。
扉が、コンコンと叩かれる。
「失礼します。」
入ってきたのは、副支店長らしい男性だった。
「お客様でしたか。申し訳ありません。しかし、急ぎの案件がございまして。」
その腕には、分厚い書類の束が抱えられていた。
「オスカー商会の決算報告書が完成しました。明日までに税務署へ提出しなければなりません。」
「ああ、あの案件ですか。」
フィリップが苦笑した。
「何度も修正が入ったそうですね。」
「はい。徹夜続きで、ようやく仕上がりました。」
副支店長の顔には、疲労の色が濃く浮かんでいる。
「ご苦労様です。しかし、そこは絶対にミスが許されない場所ですからね。」
「はい」
「あとはこちらで確認しておきます。」
副支店長は深く頭を下げ、部屋を出ていった。
それまでミレイの服の中に隠れていたフルルが、ひょこっと顔を出した。
部屋を見回した後、ぴょんと跳び上がり、フィリップの机の上へ降りる。
「おお?」
フィリップが目を丸くした。
「これは、なんという生き物ですか。」
「フルルです。私の一番の親友なんです。」
「ほう……」
フィリップは身をかがめ、思わずというようにフルルの頭を撫でた。
「これはかわいい。」
その瞬間だった。
ミレイの体が、ふわりと淡い光に包まれた。
(あ……今度は……)
すると、なぜか急に、なんともいえない不快な気分になってきた。
(どこから感じるんだろう。)
ミレイは部屋の中を見回した。
フィリップの机の上の書類。
そう、あの書類から不快感が漂ってくる。
ミレイが嫌な顔をして決算報告書を見ていると、フィリップが尋ねた。
「どうしました?」
「なんだか……その書類が気になるんです。」
「この書類が?」
フィリップは、ミレイの表情を興味深そうに見つめた。
「見てみますか?」
「いえ、ただ、何となく気になっただけですから。」
「ふうむ……」
フィリップの顔から、少しずつ笑みが消えていく。
「お招きしておいて申し訳ありませんが、少々お待ちいただけますか。」
「あ、お忙しいようでしたら、これで失礼します。」
「いえいえ。」
フィリップはすぐに首を振った。
「あなたのその『何となく』を頼りにすることになるかもしれません。もう少し、おつきあいください。」
「それなら、ここで待たせていただきます。」
「ありがとうございます。」
フィリップは机へ戻り、棚から帳簿や資料を引っ張り出した。
決算報告書の横へ並べ、一つずつ数字を見比べ始める。
フィリップは無言で数字を追い始めた。
一分。
五分。
十分。
やがて三十分ほど経った頃、
フィリップがゆっくり顔を上げた。
その顔から笑みは完全に消えていた。
「……まさか。」
彼は震える声でつぶやく。
「支店長?」
ロンダーが不安そうに声を掛けた。
フィリップは立ち上がると、机のインターホンを強く押した。
「副支店長を今すぐ呼んでください。至急です。」
その声には有無を言わせぬ迫力があった。
ほどなくして副支店長が駆け込んでくる。
「お呼びでしょうか。」
フィリップは机を叩いた。
「君はこの書類を確認したのかね!」
部屋中に怒声が響く。
副支店長は顔を青くした。
「は、はい。一応確認したつもりですが……」
「つもりでどうする!」
フィリップが怒鳴る。
ローザたちも初めて見る剣幕だった。
「この書類が何の書類か分かっているのかね!」
「商会の決算報告書ですが……」
「そうだ!」
フィリップは書類を突きつけた。
「これは国へ提出する正式な書類だ! 一つのミスが我が事務所の信用を失墜させることもある!」
副支店長の額から汗が流れる。
フィリップはさらに続けた。
「しかも、この商会の後ろには有力貴族がついている!」
「……はい。」
「もし不正な書類を我々が確認済みとして提出したらどうなると思う!」
副支店長は答えられなかった。
「この支店が潰れる程度では済まん!」
フィリップの声が低くなる。
「本店も巻き込まれる。グランティス会計事務所そのものがなくなるぞ!」
部屋の空気が凍り付いた。
フィリップは書類の数ページを開く。
「ここを見ろ。」
副支店長が目を落とした。
そして顔色が変わる。
「こ、これは……」
「分かったか。」
フィリップは冷たく言った。
「架空の設備投資。」
「存在しない在庫。」
「そして実態のない資産計上。」
副支店長の唇が震える。
「つまりこれは――」
フィリップが断言した。
「粉飾決算だ!」
部屋が静まり返る。
「こんなものを提出すれば、我々は不正の共犯と見なされる。」
「損害賠償請求どころではない。犯罪者として裁かれる可能性すらある。」
副支店長は完全に青ざめていた。
「担当者は誰だ。」
「オットー主席会計官です……」
「直ちに身辺調査を行え。」
フィリップは即座に命じた。
「帳簿、取引記録、関係者との接触履歴。全て洗い出せ。」
「は、はい!」
副支店長は飛び出すように部屋を出ていった。
扉が閉まる。
「ミレイさん、どうでしょう。この部屋の中に、まだ何か感じるものはありますか。」
ミレイはゆっくりと、室内を見回した。
「はい、何も感じません。」
しばらく沈黙が流れた。
そして、フィリップは深々と頭を下げた。
「ミレイさん。」
「はい?」
「あなたのおかげで我が社は救われました。」
「本当にありがとうございます。」
「そんな……私は何となく変だと思っただけで……」
「その『何となく』が、我々では見抜けなかったのです。」
フィリップは苦笑した。
「あと一日遅ければ、取り返しのつかない事態になっていたでしょう。」
そして申し訳なさそうに肩を落とした。
「せっかくお招きしたのですが、今からこの書類を徹底的に調べ直さなければなりません。」
机の上には山のような資料が積まれている。
「食事のお約束は、また日を改めてもよろしいでしょうか。」
「もちろんです。」
ミレイは笑顔でうなずいた。
「ありがとうございます。」
フィリップは再び頭を下げる。
「その時は改めて、正式にお礼をさせてください。」
そう言うと彼は袖をまくった。
「さて……今夜は徹夜ですな。」
その言葉に、ロンダーたちは思わず苦笑するのだった。
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