二十 普通

 四月。


 拓真は高校三年生になった。


 二年の秋。文化祭が終わり、生徒会の代替わりが近付いた頃、当時の会長と顧問から次の会長を頼まれた。


 本当は少し迷った。


 三年になれば進路のこともある。今まで以上に忙しくなることも分かっていた。


 それでも、「如月なら安心して任せられるから」と言われてしまえば、結局断れなかった。


 生徒会長になってから、もう何か月か経つ。


 新しい教室。新しい席。


 窓の外には、まだ桜が残っている。


 去年までと大きく変わったようには見えなかった。


 けれど、朝になっても大和がいない。


 廊下を歩いていても、後ろから名前を呼ばれない。


 それだけで、学校が少し広くなったように感じた。




『クラスどう?』


 昼休み。


 スマートフォンを見ると、大和からメッセージが届いていた。


『普通』


 送る。


 少しして返事が来た。


『感想雑すぎ』


『そっちは』


『普通』


『同じじゃん』


『真似すんな』


 拓真は小さく笑った。


「何笑ってるの?」


 声を掛けられて顔を上げる。


 黒川が立っていた。


「大和」


「ああ、水嶋君」


「新しいクラスどうって」


「何て返したの?」


「普通」


 黒川が呆れたような顔をする。


「水嶋君かわいそう」


「なんでだよ」


「せっかく連絡してくれたのに」


「向こうも普通って返してきたけど」


「似た者同士じゃん」


「それは嫌だな」


「水嶋君も同じこと言いそう」


「言うかも」


 二人で笑った。


 こうして連絡を取っていると、大和が遠くへ行った感じはあまりしない。


 ただ、以前のように毎日話すわけではなくなった。


 大和には大和の新しい学校がある。拓真にも、こちらの生活がある。


 返事がすぐに来ない時もあるし、自分も後で返そうと思ったまま忘れることがあった。


 それでも、まだ繋がっている。


 そう思えた。




「如月君」


「何?」


「最近どう?」


「普通」


「また普通」


「何だよ」


「さっきも言ってた」


「あれは大和のクラスの話だろ」


「でも如月君、最近そればっかりじゃない?」


「そう?」


「『普通』『大丈夫』『何でもない』」


「そんなに言ってる?」


「結構」


 黒川が指を折るような仕草をする。


「数えてんの?」


「暇だから」


「他にすることあるだろ」


「あるよ。だから本当に数えてはない」


「何だよ」


 拓真が笑うと、黒川も笑った。


「まあ、普通ならいいけど」


「普通だって」


「はいはい」


「信じてないだろ」


「半分くらい」


「半分は信じろよ」


「信じてるじゃん」


 黒川は笑って鞄を持ち上げた。


「ほら、移動教室」


「あ、待って」


「遅いよ」


「まだチャイム鳴ってないだろ」


「階段混むじゃん。如月君、プリント持った?」


「持ったよ」


「ほんと?」


 拓真は机の上を見る。


「……あ」


「ほら」


「今取ろうと思ってた」


「絶対嘘」


「うるさいな」


 黒川が笑いながら教室を出る。


 拓真は慌ててプリントを掴み、その後を追った。




 放課後。


 生徒会室では、新年度最初の仕事が思っていた以上に溜まっていた。


「会長、これって今日中ですか?」


 後輩から差し出された書類を受け取る。


「明日でも大丈夫。でも、先生の確認がいるから先にこっちやった方がいいかも」


「分かりました」


「あと、こっちは俺やっとくから」


「ありがとうございます」


「如月先輩、これも見てもらっていいですか?」


「うん」


 頼まれれば答えられる。


 何をすればいいのか分かる。


 優先順位を決めて、仕事を振って、困っている後輩がいれば手を貸す。


 そういうことなら難しくなかった。


 しばらくして、最後の後輩が鞄を持った。


「会長、お疲れさまでした」


「お疲れ。また明日」


「はい」


 扉が閉まる。


 一人になった生徒会室で、拓真は机の上を片付けた。


 会長。


 いまだに呼ばれると、自分には少し大げさな肩書きに思える。


 それでも周りから見れば、自分は任せても大丈夫な人間なのだろう。


 拓真は最後の書類をファイルへしまい、生徒会室を出た。




 家へ帰ると、母親がキッチンにいた。


「ただいま」


「おかえり。今日遅かったね」


「生徒会」


「ああ、そっか」


「父さんは?」


「今日も遅いって」


「そっか」


 最近は、その返事にも慣れていた。


 父親の帰宅が遅いことにも。


 三人で食卓を囲む日が減ったことにも。


 慣れたのか。


 慣れたことにしたのか。


 自分でもよく分からなかった。




 夜。


 夕食は母親と二人だった。


「学校どう?」


「普通」


 答えてから、拓真は動きを止めた。


 昼間の黒川の声が浮かぶ。


『また普通』


「……三年になっても、そんな変わんないよ」


 少しだけ言い直した。


「そう」


「進路の話は増えたけど」


「もう三年生だものね」


「うん」


「生徒会長は?」


「忙しい。新年度だから余計に」


「大変そうね」


「まあ。でも前からやってたことの延長みたいなもんだし」


 母親が笑った。


「拓真って、昔からそうよね」


 拓真は顔を上げる。


「何が?」


「頼まれると断れないところ」


「……そう?」


「そうよ。小さい頃から」


「覚えてない」


「本人はそうでしょうね」


「そんな何でも引き受けてた?」


「引き受けてた。嫌な顔もしないで」


「へえ」


「だから余計に頼まれるのよ」


「それ、あんまり褒めてないだろ」


「半分くらいは褒めてる」


「今日それ二回目だな」


「何が?」


「いや、何でもない」


 昼間の黒川を思い出して、拓真は少し笑った。


 母親もつられるように笑う。


 一瞬だけ、以前と同じ食卓に戻ったような気がした。


 その笑顔を見ながら、拓真は思う。


 今なら、聞けるかもしれない。


「あのさ」


「何?」


 母親が顔を上げた。


 父さんと何かあった?


 最近、二人とも変じゃない?


 あの夜、泣いてたよね。


 言葉は、ちゃんと頭の中にあった。


 あとは口にするだけだった。


「……今日のハンバーグ、美味しい」


 母親が一瞬、目を丸くする。


 それから、ゆっくり笑った。


「ほんと?」


「うん」


「よかった」


 拓真は皿へ視線を落とした。


 また違うことを言った。


 本当に聞きたかったことは、何一つ聞けなかった。




 それから数日後。


 父親が珍しく早く帰ってきた。


 三人で夕食を食べるのも久しぶりだった。


 けれど、懐かしい感じはしなかった。


 父親も母親も、ほとんど話さない。


 拓真だけがテレビを見ながら、ときどき適当なことを口にした。


「これ、前もやってなかった?」


「そうだっけ」


 母親が答える。


「去年じゃないか?」


 父親が言う。


「やっぱり?」


 そこで会話は途切れた。


 続けようと思えば続けられるはずなのに、誰も何も言わない。


 テレビの中だけが騒がしかった。


 食事が済んでも、父親と母親は席を立たなかった。


「拓真」


 父親に呼ばれる。


「何?」


「ちょっといいか」


 母親もこちらを見ていた。


 二人の顔を見た瞬間。


 聞きたくない。


 なぜか、そう思った。




「話しておきたいことがある」


 父親が言った。


 拓真は椅子に座ったまま、黙って続きを待つ。


 母親は膝の上で両手を組んでいた。


「父さんと母さんな」


 一度、父親が言葉を切った。


「離婚することにした」


 音が消えたように感じた。


「……え?」


 何を言われたのかは分かった。


 言葉の意味だって知っている。


 それなのに、すぐには頭に入ってこなかった。


「離婚?」


「うん」


 母親が小さく答えた。


「なんで」


 二人はすぐには答えない。


「一つの理由じゃないんだ」


 父親が言う。


「前から二人で話してた」


「前からって……」


「拓真には関係ないことよ」


 母親の声は優しかった。


 その優しさが、なぜか余計に嫌だった。


「関係ないって」


 拓真は二人を見る。


「俺、一緒に住んでるじゃん」


「そういう意味じゃないの」


「じゃあどういう意味?」


 思ったより強い声が出た。


 自分でも驚いた。


 母親が言葉に詰まる。


 しばらく誰も話さなかった。


 その沈黙に耐えられなくなったように、言葉が勝手に漏れた。


「……俺が何かした?」


 どうしてそんなことを聞いたのか、自分でも分からない。


 父親がすぐに首を振った。


「違う。そうじゃない」


「拓真は何も悪くないよ」


 母親も重ねるように言う。


「これは父さんと母さんの問題だ」


「じゃあ」


 声が少し震えた。


「なんで」


 父親が視線を落とした。


 母親も何も言わない。


 答えがなかったわけではないのだろう。


 ただ、それを今の自分にどう伝えればいいのか、二人にも分からないように見えた。


 俺は、どうなるの。


 その言葉も喉まで来た。


 母さんと暮らすのか。


 父さんについていくのか。


 この家はどうなるのか。


 聞かなければならないことはいくつもある。


 なのに、自分のことになると、何から聞けばいいのか分からなかった。


「いつから?」


 結局、口にできたのはそれだけだった。


 父親と母親が一度顔を見合わせる。


「話し合い始めたのは、少し前から」


 少し前。


 その言葉で、いくつもの場面が蘇った。


 食卓で途切れた会話。


 父親の帰りが遅くなったこと。


 言い争う声。


 そして夜中。


 一人で泣いていた母親。


 リビングの扉まで行った。


 手を伸ばした。


 でも、開けなかった。


「あの時……」


「拓真?」


 母親がこちらを見る。


 もし。


 あの時、扉を開けていたら。


 泣いている母親に、どうしたのと聞いていたら。


 もっと前に、今の家の空気が嫌だと言っていたら。


 前みたいに三人でいたいと伝えていたら。


 何かが変わったのだろうか。


 分からない。


 変わったかもしれない。


 何も変わらなかったかもしれない。


 それでも、何も言わなかった自分には、もう確かめることができなかった。


「……何でもない」


 また、その言葉が出た。


 父親も母親も、それ以上は聞かなかった。




 部屋へ戻った。


 扉を閉める。


 拓真はベッドに腰を下ろしたまま、しばらく動けなかった。


 スマートフォンが震える。


 大和からだった。


『新しい担任めっちゃ声でかい』


 いつもなら、何か返す。


 けれど今日は、画面を見ていることしかできなかった。


 返信欄を開く。


『うち、父さんと母さん離婚するって』


 文字が並んだ。


 打てた。


 言葉にはできた。


 あとは送信を押すだけだった。


 指が止まる。


 こんなことを突然送られても、大和は困る。


 新しい学校で頑張っているのに、心配させるだけだ。


 ふと、あの声が蘇る。


『困るかどうかは、そいつが決めることだろ』


「……分かってるよ」


 誰もいない部屋で、小さく呟いた。


 それでも、指は動かなかった。


 拓真は、一文字ずつ消した。


『大変だな』


 それだけ送る。


 すぐに既読がついた。


『マジで耳壊れる笑』


 拓真は画面を伏せた。




 如月だったら。


 今の自分を見たら、きっと呆れる。


 何度も同じことを言われた。


 分かっている。


 分かっているのに。


 もう夢には出てこない。


 不機嫌そうな顔で自分を見る、もう一人の姿も。


 答える声も。


 どこにもなかった。




 拓真はベッドに横になった。


 天井を見る。


 離婚すると言われても、明日になれば学校がある。


 朝になれば起きて、制服を着て、いつも通り家を出る。


 生徒会室へ行けば、会長と呼ばれる。


 誰かに頼まれれば、何をすればいいのか分かる。


 仕事だって、たぶんいつも通りできる。


 それくらいなら、できる。


 ただ、今までと同じ家には、もう戻れない。


 何も変わっていないと思っていた。


 これが、自分の「普通」なのだと思っていた。


 けれど、その普通はもう、どこにもなかった。

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