#4

 二度目は、同じ直線をもう一度。七日後の三度目で、草地の端の旋回を試みた。


 全速からの急な方向転換。一号の脚は乱れなかった。蹄が鋭く地を掴み、巨体を深く傾けながら、一号はそのまま加速へと繋げる。外側へ振り飛ばされそうになるのを、蓮は必死にしがみついて耐えた。重い和馬では、脚が縺れて転倒するか、速度を殺すしかない動きだった。


 四度目は上り坂だ。


 牧の裏手にある緩やかな斜面。駆け上がる一号の歩幅は、平地と変わらなかった。和馬なら明らかに減速する勾配を、大陸馬の長い四肢が力強く蹴り上げていく。


 この頃から、夜明け前の草地に人影が増え始めた。作吉が口を滑らせたのか、牧の若い衆が一人、また一人と現れるようになった。一号が朝靄を切り裂いて走り抜けるたびに、どよめきのような歓声が上がった。


 五度目は、雨上がりのぬかるみを選んだ。


 泥を噛む蹄が滑るかと思ったが、杞憂だった。一号の蹄は、湿った重い土を確実に捉えていた。跳ね上がった泥が蓮の顔を汚したが、速度は一切落ちなかった。


 六度目は、長距離の持久力を試した。


 草地を三往復。最後には一号の息も荒くなったが、脚は止まらなかった。最後の直線でも、最初の一歩と変わらぬ力強さを見せた。


 この日は、草地の端に重蔵の姿があった。腕を組み、微動だにせず一号の走りを眼に焼き付けていた。走り終えた蓮が戻ると、重蔵は何も言わず、ただ深く一度だけ頭を下げた。


 一号は、蓮が課したすべての条件を、期待以上の結果で返してきた。蓮の中で、確信が積み上がっていく。


 この馬は、自分が求めていたすべてを満たしていた。


 どんな地面でも、どんな条件でも、あの速さで走ることができる。


 そして、七度目の朝が来た。


 夜明け前、一号を草地へ連れ出した。


 湿り気を孕んだ朝の空気が、一号の熱い鼻息に触れて白く濁る。手綱を握る蓮の拳には、一号の弾むような歩調が直に伝わってきた。


 一号の様子は、いつもと変わらなかった。


 しきりに前脚で土を掻き、薄い皮膚の下で太い血管が浮いている。掌を置けば、力強い鼓動が皮膚を突き上げてきた。


「こいつ、早く走りたがってますね」


 隣で馬体を見上げていた作吉が、嬉しそうに声をかけてくる。


「ああ、そうだな」


 蓮はこころなしか弾んだ口調で短く応えた。


 今日は、これまでで最も人が集まっていた。牧の若い衆だけではない。古株の馬飼いたちも来ていた。重蔵が腕を組んで立っている。そして、厳の姿もあった。


 蓮は父と目が合った。厳は何も言わなかった。ただ、小さく顎を引いた。見届けてやる、という意味だろう。


 いとも来ていた。いつもの場所で、一号の走りを見届けようとしている。


 今日は、これまでと違う。


 六度の試しで、草地での走りは確かめた。直線、旋回、登坂、湿地、持久。すべて問題なかった。だが、戦場は草地ではない。石が転がり、木の根が走り、斜面が続く荒れた地形。そこで走れなければ、意味がない。


 今日は草地を越えて、その先の荒れ地を下る。牧の外れにある長い下り坂。そこを全力で駆け下りる。


 蓮は昨日のうちに下見を済ませていた。


 坂の傾斜、地面の硬さ、露出した石の位置。それらすべてを確かめ、己の理屈に当てはめてある。和馬がこの坂を駆け下る速度と、その際に足裏にかかる衝撃は、これまでの経験から割り出せる。一号はその数段上を行くが、これまでの六度の試走結果を照らし合わせれば、この荒れ地で出すべき速度も、止まるまでに要する距離も、自ずと算出できた。


 坂が平地へと変わる地点から、さらに百歩先に作吉を待機させた。一号の勢いを完全に殺し、安全に停止させるための十分な距離だ。


「若様、ここでいいですか」


 遠く坂の下で、作吉が声を張り上げる。


「ああ。一号がそこに来る頃には、速度は十分に落ちているはずだ。手綱を掴んで止めろ」


 作吉は力強く頷いた。


 作吉が坂の下で待機し、蓮は一号の首筋を叩いた。一号が小さく鼻を鳴らす。


「今日は、坂を下る。大丈夫か」


 一号が首を振った。任せろ、と言っているように見えた。


 蓮は鞍に跨り、手綱を握り直した。


 この坂の入り口で、いつもと同じ手順を踏む。常歩から速歩、そして駆歩。坂の頂にあるわずかな平坦地を使って円を描き、一号の筋肉を十分に解していく。蹄が石を蹴り、硬い衝撃が鐙を通して蓮の足裏に伝わった。準備は整った。


 蓮は一号の向きを、真っ直ぐに坂の下へと向けた。


 眼下には、作吉が待つ百歩先の平地まで、えぐり取られたような急傾斜が続いている。


 蓮は一号の首に深く身を伏せた。


「走れ」


 一号が、爆発的に加速した。


 坂を下り始めた瞬間、蓮の身体が激しく後ろに引かれた。


 速い。


 計算と違う。一号の背中が深く沈み込み、後肢が爆発的な力で坂を蹴り上げる。蹴るたびに、蓮の身体は前方へ、奈落へと突き出された。


 重力がすべて四肢に乗っている。走っているのではない。落ちながら、地面を叩きつけているのだ。


 和馬なら、ここで膝を折り、重心を下げて速度を殺す。それが馬の、そして乗り手の本能だ。


 だが、一号は殺さない。殺せない。


 その長い脚が、逃れようのない加速をそのまま受け止め、狂ったように地面を叩き続ける。


 景色が線になった。


 視界の両端で、木々が音もなく後ろへ吹き飛んでいく。耳元を切り裂いていた風の音が、不意に消えた。速すぎて、音が置き去りにされていく。


 坂の終わり、平地で作吉が待っているのが見えた。


 だが、この速度では——。


 あの百歩の距離など、まばたき一つで消え去ってしまう。


 まずい。


 蓮は必死に手綱を引き絞った。だが、一号は止まらない。止まれない。


 下り坂の狂ったような勢いが、四肢を止めることを許さない。手綱を引いても、狂おしい加速は一切の衰えを見せなかった。


 蹄が荒れ地の石を叩く。


 硬い地面を撃ち抜く衝撃が、鐙を通して蓮の脊髄まで突き上げてくる。その衝撃は、手入れされた草地でのそれとは絶望的なまでに異なっていた。


 蓮の脳裏で、無機質な数字が高速で弾き出される。


 一号の巨躯、加速する質量、垂直にかかる重力。着地の瞬間に蹄へと叩きつけられる、計算外の衝撃。蹄壁の厚さ。蹄底の面積。衝撃を逃がすべき角質の限界量。


 ——足りない。


 この速度、この地質では、一号の蹄の構造では耐えきれない。


 その瞬間、音が響いた。


 今まで一度も聞いたことのない、異質な音だった。


**パキィィン。**


 乾いた、硬い結晶が内側から弾け飛ぶような音。石を叩いた音ではない。湿った骨が折れる音でもない。一号の走りを支えていた「蹄」そのものが、速度の重圧に耐えかねて砕け散った音だ。


 前脚が、耐えきれず折れ曲がる。


 一号の巨体が地面に叩きつけられる。凄まじい慣性に突き飛ばされ、蓮の身体は宙へ放り出された。


 空と地面が、行先を失った独楽のように回った。


 草と土と、剥き出しの石が視界を高速で横切る。やがて、身体が何かに突っ込んだ。


 柔らかい。


 坂の脇に茂っていた背の高い夏草が、弾丸のような蓮の身体を強引に受け止めた。転がる。何度も、泥を噛みながら転がる。草を薙ぎ倒し、自身の重みを土に擦り付け、ようやく身体が止まった。


 不意に、音が戻ってきた。


 ざわめく草の音。遠くで誰かが叫んでいる声。そして、鼻をつく土の匂い。


 蓮は、自分が生きていることを知った。


 いとの悲鳴が聞こえた。


 遠くからか、近くからか、判然としない。耳の奥では不快な金属音が鳴り続けている。頭が割れるように痛み、全身の関節が軋みを上げていた。だが、動ける。あの深い夏草がなければ、自分も今頃は石だらけの地面に叩きつけられ、物言わぬ塊になっていただろう。


 蓮は震える手で地面を突き、這い上がるように起き上がった。


 視界の先に、一号が横たわっていた。


 十歩ほど先だろうか。草と土が深く抉り取られた無惨な軌跡の終点に、一号の巨体が投げ出されている。四肢はありえない方向に折れ曲がり、土に汚れていた。一号は必死に首を持ち上げようとしたが、力なく地面に落ちる。


 蓮は無我夢中で駆け寄った。膝が砕け、肩が抜けるような痛みに襲われるが、そんなものは意識の外だった。泥にまみれた一号の傍らに、崩れるように膝をつく。


「一号……!」


 一号の大きな目が、ゆっくりと蓮を捉えた。濡れたような黒い瞳。痛みで瞳孔が大きく開いている。それでも、一号は真っ直ぐに蓮を見ていた。


 その瞳の奥には、裏切りを責める色など微塵もなく、ただ主人の声を、いつものように静かに聞き届けようとする光が宿っていた。


 蓮は、一号の前脚を凝視した。


 左の前脚。そこにあるべき蹄が、なかった。


 正確には、蹄壁が粉々に砕け散っていた。角質の破片が、血にまみれて草むらに飛び散っている。本来は見えてはいけない中の組織——白い蹄骨が、生々しく剥き出しになっていた。溢れ出した赤が、夏草をどす黒く染めていく。


 蓮は、喉の奥で息を呑んだ。


 縋るように右の前脚を見たが、同じだった。蹄壁は割れ、蹄底が剥がれ落ちている。中の組織が泥にまみれ、血が止まらない。


 蓮の指先が、激しく震えた。


 この速度、この地質。草地なら耐えられたはずの衝撃が、下り坂の重みとともに、一号の蹄を食い破ったのだ。蹄が砕け、支えを失い、そのまま脚が折れた。


 すべては、自分が求めた「速さ」の結果だった。


「若様……!」


 作吉が、絞り出すような声を上げた。


 坂の下、停止地点で待っていた作吉は、真っ先に駆け寄り、蓮と一号のそばに立ち尽くしていた。一号が巻き上げた土埃を被りながら、作吉はその姿を逃げ場のない目で見つめている。砕け散った蹄、剥き出しの白い骨。あの百歩の先で、この手で止めるはずだった。その悔恨を抱えたまま、作吉は変わり果てた一号から目を逸らさなかった。


「蓮!」


 坂の上から、いとが駆け下りてきた。息を切らし、蓮のそばまで辿り着いたいとは、そこで言葉を失った。一号の惨状を目の当たりにし、顔から血の気が引いていく。何かを叫ぼうとした口からは声ひとつ漏れず、ただ震える手で自分の口元を覆った。


 蓮は、一号の首筋にそっと手を置いた。


 太い頸動脈が、今も力強く脈打っている。掌から伝わる一号の体温は、驚くほど熱い。まだ、生きている。


 だが、助からない。


 両の前脚は砕け、骨が露出している。立てない。歩けない。そして、二度と元には戻らない。


 蓮は知っていた。馬飼いの子として、嫌というほど知っていた。


 こうなった馬に、明日は来ない。


 このまま地を這い、苦しみながら死んでいくか。それとも、人の手で終わらせてやるか。道は二つに一つだ。それ以外に、一号を救う術などなかった。


 一号の大きな目が、じっと蓮を捉えて離さない。その瞳は痛みで曇り、激しく震えている。それでも、一号は蓮を見つめ続けていた。


 生まれたときから、この掌の温もりを知っている。この声を、この匂いを、信じ抜いてきたのだ。


 蓮は震える指で懐から一振りの小刀を引き抜いた。


「蓮……」


 いとの、掠れた声が背後に落ちた。


 蓮は、振り返らなかった。


 蓮は一号の首筋に手を当て、速く打つ頸動脈の脈動を確かめた。


「……すまない」


 自分でも聞こえないほど小さな声で呟き、刃を当てる。


 一号の目が、まだ蓮を見ていた。何かを言おうとしているように見えたが、何も言えず、何も伝えられない。蓮は一瞬の躊躇を断ち切り、一気に刃を引いた。


 熱い血が噴き出し、蓮の手を濡らした。一号の体が大きく痙攣して脚が跳ね、首が一度振れた。そして、止まった。


 大きな黒い目は、もう蓮を見ていなかった。


 蓮は首から手を離し、血まみれの手を見た。小刀を握ったまま、その手は激しく震えていた。


 静寂が戻った。いとのすすり泣きさえ、風にかき消されていた。


 少し離れたところに、父・厳が立っていた。いつの間にか坂を下りてきたのか、無言のまま一号の亡骸と息子を見つめていた。


 蓮は立ち上がれなかった。


 一号の傍らに膝をついたまま、指一本動かすことができなかった。いとの嗚咽が響き、作吉が何かを叫んでいる。だが、その声は遠い膜の向こう側の出来事のように感じられ、蓮の頭の中はただ真っ白な空白に支配されていた。


 ふと、蓮の視線が草の上に散らばる「それ」を捉えた。


 砕け散った蹄の破片だ。血にまみれた、白い欠片。蓮は震える手を伸ばし、それを拾い上げた。指先で触れる破片は、あまりに薄く、脆かった。


 この薄さが、一号を殺したのだ。この脆さが、蓮の手で一号を殺させたのだ。


 血で濡れた指の間で、蹄壁の欠片が朝日を弾いた。昇ってきた太陽を受けて、それは透き通るような赤に輝いていた。


 不意に、蓮の肩に重い掌が置かれた。


 顔を上げずとも分かった。父、厳だった。厳は何も言わなかった。ただ、一号の亡骸と、その血で染まった息子の手を、静かに、そして深く見つめていた。

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