盗賊姫のドレスは、誰にも盗めない
怪盗姫のドレスは、誰にも盗めない。
少なくとも、本人が着ている間は。
舞踏会の前夜、俺たちは王都の裏市場へ入った。アリアーネの礼服を正式な市民服へ変えるには、王家の織糸ではなく、身分を隠せる裏布が必要だった。裏市場には盗品や禁制布が流れる。師匠なら絶対に近づくなと言う場所だ。
俺は人混みが苦手なので、フィオナの袖をつかむ許可を取ってから、彼女の後ろを歩いた。セレネは先頭で人を避け、アリアーネは外套のフードを深くかぶっている。
「巻尺を盗んだ女を探すのですか」
アリアーネが尋ねた。
「返してもらわないと、仕事ができません」
「仕事ができないと、困りますか」
フィオナが横から顔を覗き込む。
「困ります。巻尺は、俺の手の延長なので」
「手の延長を女の人に預けたんですね」
「預けたわけではありません」
「盗まれたのですから、かなり親しい盗み方だったのでは?」
「フィオナ」
セレネが振り返った。
「あまりレントを困らせるな。面白いから続けろ」
「二人とも、職人をおもちゃにしないでください」
俺がそう言うと、背後から声がした。
「おもちゃにするなら、もっと高い値段をつけるわ」
振り向くより先に、俺の巻尺が宙を舞った。
黒髪の女が、金の片眼鏡をかけて立っている。深い緑のドレスは左右で色が違った。片側は夜の青、片側は葡萄色。二つの布が中央で同じ縫い目へ戻っている。
「ミリア・フェン。巻尺は返してほしい?」
「はい」
「なら、私のドレスを測って」
彼女は巻尺を指へ絡めたまま、こちらへ一歩近づく。香水ではなく、雨上がりの石と金属の匂いがした。
「採寸は、本人の許可と、目的の確認が必要です」
「目的は、あなたを困らせること」
「それは仕立ての目的ではありません」
ミリアが声を上げて笑った。
「なるほど。王女様が気に入るわけね」
アリアーネのフードがわずかに揺れた。
「私は、気に入っているとは言っていません」
「でも、私がレントの隣に立つと、少しだけ肩が上がる」
「それは警戒です」
「聖女様は?」
フィオナがにこやかに答えた。
「私は、レントさんが赤くなるところを気に入っています」
「そちらは正直ね」
ミリアは俺の前へ巻尺を差し出した。
「測るなら、許可するわ。ただし、ドレスの外側だけ。肌へ触れないこと」
「分かりました」
俺は巻尺を受け取った。金属の留め具に、見慣れない黒い糸がついている。ミリアのドレスの縫い目は、表と裏の色が違うだけではない。裏布の一部に、身分印を削り取った跡がある。
「これは、盗品ですか」
ミリアの笑顔が止まった。
「そう。貴族の令嬢から盗んだ」
「返すつもりは?」
「返すと、私が困る」
「返さないと、持ち主が困る」
「仕立て屋は、善悪まで縫うの?」
「縫えません。だから、誰が何を選ぶかを聞きます」
ミリアはしばらく俺を見た。人の視線が怖いのに、こういうときだけ逃げると余計に悪いことが起きる気がする。
「この裏布を見つけたら、持ち主へ返す。ただし、私が盗んだことまで言わない方法を探したい」
「なぜですか」
「盗まれた側にも、盗まれたと公表できない事情があるから」
彼女はドレスの内側へ指を入れた。裏布の縫い目から、細い紙札を抜き出す。
「この布は、家名を消すために使われた。誰かが身分を奪われ、誰かが別の家名を着せられた。私は、その裏布だけを集めている」
「どうして」
「いつか、測られ方を選べる服を作りたいから」
その言葉は、俺の仕事と似ていた。けれど、ミリアの目的はもっと危うい。裏市場の奥から、白い手袋の男たちが歩いてくる。
「ミリア・フェン。衣冠院の窃盗容疑で拘束する」
ミリアが巻尺を俺の手へ押し戻した。
「返すわ。舞踏会のあとで」
「今でないと困ります」
「なら、私を連れていって」
「え?」
「あなたの客として。王女様と聖女様と竜騎士様の、仕立て屋の客。私のドレスを測る理由は、もうあるでしょう?」
追手が路地を塞いだ。セレネが剣の柄へ手を置き、アリアーネがフードを脱ぐ。
「王女殿下を確認した。全員、動くな!」
白い手袋の男が叫ぶ。ミリアは俺のすぐ後ろへ隠れた。隠れたというより、背中へ体重を預けた。ドレスの布が俺の作業着へ触れ、彼女の髪が首の近くへ落ちる。
「レント、逃げるなら今よ」
「あなたは?」
「私は逃げる。あなたの道具を持ったまま」
「返してくれました」
「返したのは巻尺だけ。あなたの工房へ入る許可は、まだもらっていない」
「今、来てくださいと言いました」
「聞いた。でも、私が自分で決めたことにしたいの」
追手が踏み込んだ。セレネが一人を受け止め、アリアーネが外套の襟を外して王家の印を光らせる。兵士の足が止まった。フィオナは祈り布の余白を広げ、逃げ道の地面へ白い線を引く。
「右の屋根へ」
ミリアが言った。
「どうして分かるんですか」
「私が今、逃げる道として選んだから」
彼女は俺の手首をつかみ、すぐに離した。
「触れていいか聞くのを忘れたわ」
「今のは、緊急なので」
「許可してくれる?」
「はい」
「では、もう一度」
今度は彼女が自分から手を差し出した。俺が握ると、指先が細く震えている。いつも軽口を叩く人の手とは思えなかった。
屋根へ上がる階段は、裏市場の看板の奥に隠されていた。セレネが最後尾で追手を止め、ミリアが先に走る。俺は高い場所が苦手で、足元を見るたびに膝が固くなった。
「レント、前を見て」
「落ちます」
「落ちたら、私が受ける」
「それは、もっと怖いです」
「私を信用していない?」
「信用の問題ではなく、体重の問題です」
ミリアが吹き出した。彼女は屋根の端で振り返り、俺の手を引く。金の片眼鏡が外れ、俺の胸へ落ちた。拾おうとした俺の指と、ミリアの指が同時に片眼鏡へ触れる。
顔が近い。
雨の匂いと、彼女の髪の匂いが混ざる。ミリアの目が、俺の左手へ一瞬だけ落ちた。
「あなたの手、鏡に映らないって本当?」
「どうして知って」
「盗みをする人間は、隠されたものをよく見るの」
彼女は片眼鏡を取り、いつもの笑顔へ戻った。
「その手で、私のドレスを縫ってくれる?」
「身分を隠すための服なら、作れます」
「私が何者かを隠す服ではなく、私が何者になるかを選ぶ服がほしい」
「なら、採寸からです」
「今夜、舞踏会でね」
屋根を渡り切ったところで、ミリアは巻尺を俺へ返した。代わりに、裏布から抜いた紙札を一枚、胸元へ挟む。
「これを持ち主へ返せるなら、私も工房へ行く」
「持ち主は誰ですか」
「王家の紋を持つ、まだ名前のない人」
「名前がない?」
「服に名前を奪われた人よ」
風がドレスの裾をめくり、裏布の印が光る。ミリアは自分で裾を押さえ、追手の見えない街路へ視線を向けた。
「あなたの工房で、私を測って。私が止めたら、止めて」
「分かりました」
「今度は、少しだけ近くてもいいわ」
俺はまた、返事の代わりに巻尺を握り直した。
「私の工房へ入るなら、規則を守ってください」
「どんな規則?」
「勝手に道具を持ち出さない。採寸の前に目的を言う。嫌なら、止める」
「最後の規則、守れる?」
ミリアが俺の耳元へ顔を寄せた。頬に触れそうな距離で、金の片眼鏡が光る。
「あなたが止めると言ったら、止めるわ」
「……なら、来てください」
言ってから、俺は何を誘っているのか分からなくなった。ミリアは目を細め、俺の巻尺を今度は両手で返した。
「今のは、採寸の許可? それとも、私の滞在の許可?」
「両方です」
「そういうところ、好きになりそう」
アリアーネの咳払いが、路地に響いた。
俺たちは追手の脇を抜け、裏市場の屋根へ上がった。ミリアが先に跳び、フィオナが続き、俺はセレネに腕を支えられて登る。
王都の上には、明日の舞踏会の灯りが並んでいる。
ミリアのドレスの裏布が風を受け、消されたはずの身分印を一瞬だけ浮かべた。
その印は、王家のものだった。
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