第2話 一日目――警護対象
一族のファミリーオフィスが手配したチャーター機は、予定より七分早く着陸した。
礼奈は腕時計を見た。
早着は遅延より面倒なことがある。
だが空港側も車両側も準備はできている。
イヤホンから短い報告が入る。
『車両位置、変更なし』
「了解」
『荷物、先行搬送準備完了』
「了解」
『降機まで三分』
「了解」
八月の東京は、午前中から容赦なく暑かった。
黒いパンツスーツの背中に熱がこもる。
隣で芦田が息を吐いた。
「金持ちは飛行機まで自分で持ってていいな」
「本人所有とは限らないよ」
「主任、夢がない」
「仕事中だから」
「はいはい」
礼奈は笑って受け流した。
やがて機体のドアが開いた。
最初にマテオ。
次に秘書のダニエル。
そのあとに、アドリアン・デ・サンテルが姿を見せた。
礼奈はまず足元を見た。
革靴。
タラップを下りる速度は一定。
途中で立ち止まらない。
視線だけで左右を確認する。
誰かに促される前に、待機車両の位置を見つけている。
警護されることに慣れている人間の動きだった。
資料写真より、少し背が高い。
地上に降りたアドリアンは、マテオに何か言われて礼奈を見る。
そのまま真っすぐ歩いてきた。
「瀬尾礼奈?」
発音は予想より正確だった。
「はい。クロス・リスクパートナーズの瀬尾です。一週間、日本側の警護責任者を務めます。よろしくお願いします」
差し出された手を握る。
握手は短い。
「アドリアンでいい」
礼奈は軽く笑った。
「ありがとうございます。必要な場面では、こちらで適切な呼び方を使わせてください」
英語で交わすと、それほど堅い言葉ではない。
アドリアンは目を細めた。
「マテオが言ってた通りだ」
「何をです?」
「気が合いそうだって」
礼奈はマテオを見る。
彼は知らない顔をしていた。
「それは一週間後に判定しましょう。では、車へご案内します」
「もう?」
「ご希望なら、タラップの前でもう少しお過ごしになります?」
一拍置いて、アドリアンは笑った。
「いや。行こう」
車内では、礼奈が助手席。
アドリアンとマテオが後部座席。
芦田が運転する。
最初の予定は、都内のエネルギー関連企業との会談だった。
「日本は初めてじゃない」
後ろから声がした。
「承知しています」
「前回は京都にも行った」
「資料で拝見しました」
「資料には、僕がどこで何を食べたかも?」
「必要な範囲では」
「好きな酒は?」
「必要なら確認します」
「恋人の有無は?」
礼奈は振り返らなかった。
「警護上必要なら、それも確認しますね」
運転席で芦田の肩が揺れた。
「君、僕に興味がないんだね」
礼奈はバックミラー越しに彼を見る。
「ありますよ」
「本当?」
「もちろん。クライアントとして」
英語なら、ただの *Yes. As a client.* だった。
アドリアンは面白そうに笑った。
会談会場に着いたのは十一時三分前。
礼奈は先に車を降りる。
周囲。
出入口。
歩行者。
車両。
問題なし。
アドリアンを降ろす。
玄関を抜けた瞬間、彼の歩き方が変わった。
速度がわずかに落ちる。
さっきまで車内でどうでもいい質問を続けていた男が、会議室に入るころには別人のようだった。
相手の説明を途中で遮らない。
通訳のあとではなく、話している相手を見る。
数字について尋ねる。
利益率だけではなく、事業撤退時の地域雇用について確認する。
曖昧な回答には、角度を変えてもう一度聞く。
礼奈は壁際からそれを見ていた。
会議が終わり、車へ戻る。
後部座席に入ったアドリアンがネクタイを緩めた。
「疲れた」
「次の予定まで二十七分です。少し休めますよ」
彼は窓の外を見てから、礼奈を見た。
「さっき、驚いてたでしょう」
「何がです?」
「僕が仕事してたから」
礼奈は否定しようとして、やめた。
守られる側。
若い。
王室につながる家の人間。
自分で何かを決めるより、誰かに整えてもらう人間。
少し雑だった。
「多少は」
「失礼だな」
「そうですね」
礼奈は口元を緩める。
「認識は修正しておきます」
「それは光栄だ」
今度は礼奈も笑った。。
### 4 三日目――守られる技術
三日目は、文化施設での公開イベントだった。
アドリアンの財団と日本側団体による共同事業の発表。
一般参加者も入る。
開場前。
礼奈は会場を一周した。
正面出入口。
スタッフ導線。
非常口。
控室。
壇上から退出した場合の最短ルート。
アドリアンが壇上へ向かう直前、礼奈は伝えた。
「終了後、人が集まったら左へ。私についてきてください」
「分かった」
「身体に触れて誘導することがあります。そのときは止まらずに」
彼は頷いた。
イベントそのものは穏やかに進んだ。
終了後、想定より多くの参加者がアドリアンの周囲へ集まる。
握手。
写真。
名刺。
一人の男性がスマートフォンを構えたまま、急に距離を詰めた。
危険人物ではない。
ただ、速い。
礼奈は一歩入る。
男性とアドリアンの間に身体を置く。
「こちらからお願いします」
その瞬間、アドリアンはすでに半歩下がっていた。
礼奈が左へ動く。
彼も動く。
理由を聞かない。
出口まで十数秒。
車に乗り込み、ドアが閉まる。
礼奈は周囲を確認してから助手席へ入った。
「今の人は?」
後ろからアドリアンが聞いた。
「問題ありません」
「そう」
「驚きました?」
「少し」
礼奈は振り向く。
彼はもう平然としている。
「慣れていますね」
「何に」
「守られることに」
アドリアンは苦笑した。
「生まれたときからだから」
礼奈は昨日のことを思い出した。
「守られるのが上手ですね」
アドリアンが目を丸くする。
「そんな褒め方、初めてされた」
「警護する側からすると、かなり大事なんですよ」
「例えば?」
「勝手に止まらない。こちらの指示を聞いてくれる。私たちの動きを見てくれる」
「昨日のことも、理解していただいたみたいですし」
アドリアンは窓の外を見た。
「昨日は、本当に悪かった」
「もう大丈夫です」
「僕は慣れてるつもりだった」
「警護に?」
「守られることに」
少し間があった。
「でも、守られる側が何もしなくていいって意味じゃないんだね」
礼奈は答えなかった。
車が動き出す。
それ以降、アドリアンは礼奈が周囲を見ているときには話しかけなくなった。
礼奈が視線を戻すと、それを待っていたように用件を言う。
ほんの小さな変化だった。
### 5 四日目――予定にない三十分
四日目は東京を離れた。
アドリアンが出資を検討している地方企業と、文化財団が支援する工房を訪れる。
東京駅から新幹線。
彼は国内線のチャーター機を使う案を断っていた。
三時間以内なら列車でいい。
その希望は、事前に出されていた。
礼奈たちは前日から駅構内と現地動線を確認した。
工房での視察は予定より四十分早く終わった。
車へ戻ったところで、アドリアンが時計を見る。
「時間、空いたね」
「四十分です」
彼は窓の外へ目を向けた。
古い町並みが続いている。
昨日までなら、先に歩きたいと言ったかもしれない。
今日は言わない。
そのまま車に乗った。
礼奈が気づいた。
「何かあります?」
「いや」
「行きたいところがあるなら、先に言ってください」
アドリアンがこちらを見る。
二日前の言葉を、そのまま返されたことに気づいたらしい。
「歩ける?」
礼奈はマテオを見る。
無線で確認を取る。
近くに人通りの少ない旧市街がある。
導線を限定すれば可能。
「三十分なら」
「本当?」
「こちらの指示には従ってください」
「もちろん」
「では行きましょう」
通りには古い建物が並んでいた。
低い軒。
小さな植木鉢。
店先に下がった風鈴が、ときどき鳴る。
アドリアンは何も買わなかった。
ただ歩いた。
礼奈は半歩後ろ。
もう一人のエージェントが少し離れてつく。
しばらくして、彼が聞いた。
「休みの日も歩く?」
「歩きますよ」
「一人で?」
「一人のときもあります」
「好き?」
「一人が?」
「うん」
礼奈は考えた。
「好き、というより困らないですね」
「違う?」
「違います」
アドリアンはそれ以上聞かなかった。
しばらく歩く。
古い家の壁に、午後の光が落ちていた。
礼奈の方から口を開く。
「あなたは?」
彼が振り向く。
「休みの日」
「何もしない」
「意外です」
「そう?」
「予定を増やしたがるので」
彼は前を向いた。
「それは、予定を決められてるから」
礼奈は黙った。
「何もしない、を自分で決めたいんだよ」
風鈴が一つ鳴った。
彼の生活について、礼奈は資料でかなりのことを知っていた。
移動歴。
同行者。
会合。
宿泊施設。
家族構成。
けれど、予定が埋まっていることと、自分で予定を決められないことは別だった。
二日前、時計店の前でドアに手をかけた理由を、少しだけ理解した。
理解したからといって、許す話ではない。
「君は?」
今度はアドリアンが聞く。
「私は、自分で決められます」
「だいたい?」
「だいたいは」
彼は何か言いかけて、やめた。
礼奈も聞かなかった。
三十分後。
礼奈が腕時計を見る。
アドリアンもそれに気づいた。
「戻ろう」
「はい」
二人は車の方へ向きを変えた。
### 6 五日目――空いた二時間
五日目。
午後の会談が一件、先方の事情で取りやめになった。
二時間近く、予定が空いた。
ホテルへ戻る車の中で、アドリアンが礼奈を見る。
「少し外に出るのは可能?」
「希望はあります?」
「特には」
礼奈は笑った。
「それが一番困りますね」
「じゃあ、君ならどこへ行く?」
「私なら家に帰ります」
「もっと参考にならない」
礼奈はタブレットを開いた。
ホテルから近い。
屋内。
複数の出口がある。
人の流れもある程度読める。
近くの複合施設を候補に出した。
書店、ギャラリー、いくつかのショップが入っている。
「ここなら一時間程度取れます」
「行こう」
今度は、決まるまで勝手に動かなかった。
施設内でアドリアンは本屋に長くいた。
英語で書かれた建築の本を一冊手に取り、日本語の写真集を何冊か眺める。
礼奈は少し離れた場所から周囲を見る。
一階へ降りる途中、ガラス張りのパティスリーの前を通った。
色の鮮やかな小さなケーキが並んでいる。
礼奈はほんの一瞬だけ足を緩めた。
レモンのタルト。
よく買う店とは違う。
けれど、見た目は悪くなかった。
そのまま歩く。
隣にいたアドリアンが言った。
「好きそう」
礼奈は彼を見る。
「何がです?」
「今の」
「見てませんよ」
「見てた」
「よく見てますね」
「君ほどじゃない」
礼奈は笑った。
それで終わった。
エスカレーターを降りる。
外へ出る前に、礼奈が時計を見る。
「そろそろ戻りましょう」
「分かった」
ホテルに戻り、礼奈はチームと次の予定を確認する。
アドリアンは離れた場所で秘書と話している。
ふと顔を上げる。
目が合った。
礼奈は軽く顎を引く。
彼も同じように返した。
それだけだった。
その日の夜。
礼奈は家に帰り、冷蔵庫にあったチーズと残り物のサラダで夕食を済ませた。
レモンのタルトのことは、もう忘れていた。
### 7 六日目――彼の世界
ガラの日。
礼奈は午後から会場に入った。
外周。
車寄せ。
ホワイエ。
ダイニング。
非常口。
バックヤード。
退避先。
前日にも見た場所を、もう一度歩く。
何も変わっていないことを確認する。
午後五時半。
ホテルの一室で、黒いドレスに着替えた。
足首が隠れる長さ。
裾は広がりすぎない。
低いヒール。
小さなバッグ。
右腕を塞がない位置に通信機器を収める。
髪はまとめた。
鏡を見ても、特に感想はなかった。
必要な服を着た。
それだけだ。
部屋を出ると、廊下にいた芦田が二度見した。
「おお」
「何?」
「主任、女だったんですね」
礼奈は笑った。
「明日のシフト、覚えておくね」
「すみませんでした」
「早い」
エレベーター前にはマテオがいた。
礼奈を見て、一度頷く。
「Perfect」
「目立たなければいいんですけど」
「それは難しいかも」
「困りますね」
そこへアドリアンが来た。
黒のタキシード。
いつもより髪が整えられている。
彼は礼奈を見て、言葉を止めた。
「何です?」
「いや」
視線が足元へ下がる。
「その靴で走れる?」
礼奈は意外だった。
「必要な程度には」
「ならいい」
それだけだった。
車内では警護確認しか話さなかった。
到着後の動線。
撮影区間。
ダイニング。
退室。
会場に着く。
受付を抜ける。
想定より海外メディアが多い。
王室の中核にいる人物ではない。
それでも、サンテルという姓には価値がある。
アドリアンがレセプションラインを進む。
礼奈は一歩離れてつく。
その先に短い階段。
周囲では、男女が自然に腕を組んで上がっていく。
夫婦。
仕事上のパートナー。
親族。
礼奈は一歩後ろへ下がろうとした。
アドリアンが振り返る。
腕を差し出した。
礼奈は見る。
「その方が自然ですか」
「たぶん」
周囲を見る。
正しい。
礼奈は彼の左側についた。
右手を自由にしておきたい。
腕に手を置く。
彼の身体に触れること自体は珍しくない。
警護では必要なら押すことも、引くこともある。
ただ、これは意味が違って見える。
見えるだけだ。
「念のため。私があなたをescortしてますからね」
アドリアンの口元が動く。
「ようやく僕が君をescortできると思ったのに」
「今日は逆です」
階段を上りきる。
礼奈は自然に手を離した。
ダイニングでは、二人の席は隣同士だった。
前菜。
スープ。
魚料理。
肉料理。
皿が変わるたび、給仕が静かに入れ替わる。
礼奈も普通に食べた。
ゲストとして入っている以上、料理に手をつけない方が不自然だった。
ワインは最初の一杯に口をつける程度。
あとは水を飲む。
食事をしながらも、視界の端では人の動きを追う。
扉が開く。
スタッフが一人増える。
席を立つ客。
ホールの端を移動する人影。
そのたびに視線だけが動く。
隣のアドリアンは、何も言わなかった。
最初の数日なら、何を見ているのか聞いたかもしれない。
今は、横目で確認するだけだった。
彼自身は、よく話した。
正面に座る財界人と。
斜め向かいの文化財団の理事と。
途中で挨拶に来た大使と。
彼より二十歳ほど年上の女性が、頬にキスをして久しぶりだと笑う。
別の男は、彼の父親の名前を出して握手を長くした。
若い招待客は、以前ある王室行事で会ったことを、周囲にも聞こえる声で話した。
誰かはアドリアン本人を見ている。
誰かは彼の姓を見ている。
誰かは、その向こうにいる国王を見ている。
敬意。
好奇心。
打算。
親しさ。
その区別は、外からでは簡単につかなかった。
アドリアンは全部に感じよく応じた。
相手の名前を覚えている。
家族について尋ねる。
必要なら父親の話もする。
冗談には笑う。
声の調子も崩さない。
礼奈は隣に座ったまま、それを見ていた。
これも彼の仕事なのだ。
本人が自分で選んだ仕事だけではない。
生まれたときからついてきた仕事。
何もしないことを、自分で決めたい。
四日目の言葉が、少しだけ違って聞こえた。
最後にデザートが運ばれてきた。
大きな白い皿の中央に、小さな白いムース。
その上に薄い飴細工。
赤い果実のソース。
緑色の粉。
横には、何かを薄く焼いたものが立てかけてある。
給仕の説明を聞いても、結局何を表現している料理なのか礼奈にはよく分からなかった。
隣でアドリアンが普通にフォークを取る。
礼奈も食べる。
思ったより酸味がある。
それだけだった。
アドリアンが一度、横目で礼奈を見る。
礼奈も気づいた。
どちらも何も言わない。
ディナーは三時間近く続いた。
ずっと隣に座っていた。
それなのに、二人だけで交わした言葉はほとんどなかった。
会は予定通り終わった。
何も起こらなかった。
車に戻り、ドアが閉まる。
礼奈はイヤホンを外した。
向かいの席に座ったアドリアンが言った。
「何も起きなかったね」
「はい」
「それが一番?」
礼奈は頷いた。
「最高です」
彼は窓の外を見た。
しばらくして、
「いい仕事だね」
と言った。
礼奈は彼を見る。
「ありがとうございます」
それだけで十分だった。
ホテルに着く。
翌朝は帰国。
最後の引き継ぎを終える。
礼奈が立ち去ろうとすると、アドリアンが名前を呼んだ。
「瀬尾」
「はい」
「今日はありがとう」
礼奈は一瞬考えて、
「どういたしまして」
と答えた。
いつもの「仕事です」は、もう言わなかった。
アドリアンも何も言わなかった。
### 8 七日目――契約終了
帰国日は、朝から雨だった。
空港へ向かう高速道路を、細い雨粒が流れていく。
アドリアンは静かだった。
礼奈も話さない。
一週間の案件は、最後の数時間ほど気を抜かない。
空港到着。
出国手続き。
荷物。
機体側との引き継ぎ。
すべて予定通り。
チャーター機の前まで来る。
七日前、ここで握手をした。
アドリアンがマテオと短く話す。
それから礼奈の前へ来た。
「一週間、ありがとう」
「こちらこそ。ご協力ありがとうございました」
「僕、優良クライアントだった?」
礼奈は考える。
「途中から」
彼が笑った。
「厳しいな」
「かなり改善しましたよ」
「学習したから」
「助かりました」
「それ、褒めてる?」
「ちゃんと褒めてます」
彼が手を差し出す。
礼奈も握る。
初日と同じ握手。
ただ、互いに相手の手の出し方を知っている。
「次に日本に来るときも、君の会社に頼むよ」
「ありがとうございます」
「担当は指定できる?」
「そこはお約束できません」
「そう言うと思った」
「そのときの勤務状況と案件内容次第ですね」
「合理的」
礼奈は笑う。
「仕事なので」
アドリアンが顔をしかめた。
「それは聞き飽きた」
「でしょうね」
「では、お気をつけて」
彼はすぐには離れなかった。
何か言うのかと思った。
言わなかった。
代わりにマテオへ目を向ける。
マテオが、小さな白い箱を持ってきた。
礼奈は見る。
「これは?」
「契約終了後」
アドリアンが言う。
「そういう問題ではない気もしますけど」
「もう終わったでしょう?」
礼奈は腕時計を見る。
現場警護の終了時刻は過ぎている。
「会社の規定を確認したくなりますね」
「チーム全員にもある」
振り返ると、芦田が大きな紙袋を持っていた。
目が合う。
にやりと笑われた。
礼奈はため息をついた。
「そういうところだけ用意がいいですね」
「だけ?」
「今のは余計でした」
箱を受け取る。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
それ以上、何も聞かなかった。
アドリアンも説明しなかった。
「では」
「うん」
彼はタラップへ向かう。
途中、一度だけ振り返った。
礼奈はその場に立っている。
手は振らない。
彼も振らなかった。
機内へ消える。
ドアが閉まる。
機体が動き出すまで見送った。
「主任」
隣で芦田が言う。
「何?」
「その箱、俺たちのと違う」
礼奈も見る。
確かに。
「店、教えた?」
「俺は何も」
「本当?」
「珍しく本当」
では、誰が。
礼奈は一瞬考えて、やめた。
雨はまだ降っていた。
帰宅したのは昼過ぎだった。
スーツを脱ぐ。
シャワーを浴びる。
洗濯機を回す。
コーヒーを淹れる。
テーブルの上に白い箱を置いた。
紐をほどく。
レモンのタルトだった。
五日目。
複合施設の一階。
ほんの一瞬、足を緩めただけの店。
礼奈は笑った。
箱には、小さなカードが一枚入っている。
英語で、たった一行。
**For a job well done.**
それだけだった。
電話番号もない。
次を匂わせる言葉もない。
礼奈はカードを裏返す。
白い。
一週間で、いくつか覚えた。
緊張すると、左の親指を擦る。
予定を変えたがるくせに、警護の指示にはちゃんと従う。
何もしない休日を、自分で決めたい人だった。
彼の方は、礼奈が一瞬立ち止まったものを覚えていたらしい。
スマートフォンは静かなままだった。
当然だった。
礼奈はコーヒーを一口飲む。
タルトにフォークを入れる。
酸味が強い。
悪くない。
報酬としては、かなり甘かった。
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