第5話 動き出した日本
2011年11月13日 午後2時38分
東京都千代田区・霞が関
会議室の正面に国内各地で撮影された映像が並んでいた。
日比谷公園。
北海道の山中。
東北地方の河川敷。
西日本の農地。
撮影された場所も周囲の景色も違う。
映像の質もばらばらだった。
遠く離れた道路から撮られたもの。
車の窓越しに撮られたもの。
携帯電話を縦に構えたまま走りながら撮影されたもの。
手ぶれがひどく音声が割れている映像もある。
それでもどの画面にも同じようなものが映っていた。
地面から垂直に立つ巨大な黒い構造物。
厚みは確認できない。
表面は光を反射しない。
角度を変えてもただ黒い。
日比谷公園に出現したものと外見上はよく似ていた。
「現時点で国内では十数件の通報が寄せられています」
内閣官房の職員が説明した。
「このうち、日比谷と同種の現象である可能性が高い地点は複数ありますが、正式確認数は確定していません。重複通報、模倣物、誤認の可能性を含めて確認中です。現段階で確定した数字を公表することはできません」
会議室の中央に座る内閣官房副長官は手元の資料へ視線を落とした。
資料の表紙には仮の名称が印字されていた。
黒色構造物等に関する緊急対応会議。
正式名称ではない。
会議を開くために急いで付けられた呼び名にすぎなかった。
出現直後から必要に応じて関係省庁の担当者を集めた緊急会議は開かれていた。
だがそれは正式な常設組織ではない。
出席者も連絡要員もその都度集められていた。全国からの情報を二十四時間受け付け、各省庁へ継続的に指示を出す体制もまだ存在していなかった。
この会議も正式な合同対策本部が設置されるまでの臨時的な関係省庁会議だった。
資料の中でも呼称は統一されていない。
黒色構造物。
異常構造物。
未知空間入口。
門状物体。
各省庁がそれぞれの文書に使った表現が混在している。
政府が呼び方を決められないまますでに二日が過ぎていた。
「一般の投稿状況を」
副長官が言った。
画面が切り替わった。
動画投稿サイト。
個人ブログ。
掲示板。
短文投稿サービス。
数え切れないほどの画像と文章が時刻順に並べられている。
最も古いものは十一日の午前中に投稿されていた。
日比谷公園に変な黒い壁が出ている。
その下にはさまざまな反応が続いている。
映画の撮影ではないか。
新しい広告設備ではないか。
事故現場ではないか。
軍事施設ではないか。
誰か近づいてみろ。
触った人間はいないのか。
投稿が増えるにつれ呼び方も増えていた。
黒い壁。
黒い門。
ゲート。
ポータル。
異世界への入口。
そしてその中に一つの言葉が混じり始めていた。
ダンジョン。
「最初の使用者は特定できていません」
職員が説明した。
「一人の投稿が拡散したのか、複数の利用者が同時に同じ表現を使い始めたのかも不明です。ただ十一日の夜には複数の投稿で確認されています。十二日以降使用数は急増しています」
表示された画面には日比谷ダンジョン、東京ダンジョン、黒いダンジョンといった言葉が並んでいた。
政府が名称を決めるより先に人々はそれを呼ぶための言葉を作っていた。
「報道でも使用されています」
昨夜放送されたニュース番組の映像が流れた。
若い男性アナウンサーが緊張した表情で原稿を読んでいる。
『インターネット上で“ダンジョン”などと呼ばれている黒い構造物は国内の複数地点で確認されています』
背景には日比谷公園の映像が映っていた。
規制線。
警察官。
自衛隊車両。
白い防護服を着た調査員。
そしてその奥に立つ黒い門。
映像が止まった。
「存在自体を秘匿することは不可能です」
内閣官房の職員は言った。
反論する者はいなかった。
日比谷公園は東京の中心部にある。
出現時周囲には多くの一般人がいた。
最初の写真が撮影されてから現場が完全に封鎖されるまでには時間がかかっている。
地方の出現地点でも事情は同じだった。
道路脇。
住宅地から見える空き地。
農地。
観光地に近い山中。
行政機関より先に一般人が発見した場所もある。
すでに画像や映像は複製され、転載されていた。
一つを削除しても別の場所に同じものが残る。
否定すれば事実を隠しているという疑いを招くだけだった。
「問題は存在を認めるかどうかではない」
副長官は資料を閉じた。
「何をどこまで公表するかだ」
室内には内閣官房、外務省、防衛省、警察庁、消防庁、厚生労働省、文部科学省の関係者が集まっていた。
会議に先立ち官房長官から基本方針の了承は得ていた。副長官に任されたのはその方針を具体化することだった。
昨日までそれぞれの組織は日比谷公園への対応を優先していた。
現場の封鎖。
周辺住民と通行人の避難。
構造物の外部調査。
無人機による進入。
第一次有人調査。
そして今朝実施された第二次有人調査。
動きが速すぎた。
十一日の午前までこの国のどこにも存在しなかったものについて政府はわずか二日で人間を内部へ送り込んでいる。
慎重さを欠いたと批判されてもおかしくない。
だが日比谷公園という場所が通常では考えられない速さを可能にした。
国会議事堂。
霞が関。
首相官邸。
警視庁。
防衛省。
国の中枢がすぐ近くに集中していた。
各組織の担当者を集めるのに長い時間は必要なかった。
測定機器も防護装備も人員も短時間で現場へ運び込めた。
距離が近かっただけではない。
各組織は正式な決定が下りてから準備を始めたのではなかった。次に起こり得る事態を想定し、承認前から人員と装備の手配を並行して進めていた。
そこには国民を守るためという理由だけでなく、対応の遅れによって自らの組織へ責任が集中することを避けたいという事情もあった。
誰も自分の判断の遅れが新たな犠牲者を生んだと記録されたくはなかった。
省庁も政治家も未知の危険と同時にその後に問われる責任を恐れていた。
善意と使命感だけではない。
組織防衛と保身もまたこの異例の速さを生み出していた。
それでも二度の有人調査で分かったことは少ない。
副長官は別冊の報告書を開いた。
内部には森林に類似した環境が存在する。
地面には土壌に似た物質がある。
植物に似たものが生育している。
鳥類に似た生物が確認された。
内部では携帯端末、照明、撮影機器、無線機などが作動した。
内部に入った機器同士の無線通信も成立した。
一方入口の境界を越えた通信は遮断された。
内部から外部へ電波も有線信号も届かない。
衛星測位は利用できない。
携行機器と持ち帰った試料で確認した範囲では人間の活動を直ちに妨げる濃度の有害成分は検出されていない。
酸素濃度など一部の測定値は地上の大気と近かった。
しかしそれは安全を意味しない。
短時間の測定では検出できない物質が存在する可能性がある。
未知の微生物。
胞子。
毒性物質。
長時間の暴露によって影響を及ぼす成分。
人体への影響が現れるまでに時間がかかるもの。
まだ名前すら付いていない危険がどれほど存在するのか分からない。
調査隊員は防護服と空気呼吸器を着用し、内部の空気を直接吸ってはいない。
六名は帰還後そのまま隔離区画へ移された。
防護服と装備の表面を測り、所定の除染と健康確認を行ったうえで現在も経過観察が続けられている。
採取した土壌状物質、植物状試料、空気試料は二重に密閉され、一般環境から隔離された管理区域で保管されていた。
映像記録装置などの持込機器も表面処理を終えたものだけが解析へ回されている。
「大気については公表表現を修正する必要があります」
厚生労働省の担当者が言った。
机の上に置かれた資料を指で押さえている。
「案には『人間が呼吸可能な大気』とありますが、現時点でそこまで断定する根拠はありません」
「酸素濃度は通常範囲内なのだろう」
警察庁の出席者が尋ねた。
「測定した範囲では、です」
厚生労働省の担当者は即座に答えた。
「調査員は空気呼吸器を着用しています。実際に直接呼吸し、健康上の問題がないことを確認したわけではありません。短時間の数値だけで安全性を保証することはできません」
「ではどう表現する」
「取得した試料および測定値からは現時点で重大な異常は確認されていない。ただし安全性は未確認です。調査員は帰還後に隔離と除染を受け、現在も経過観察下にあります。今後も安全性が確認されるまでは防護装備を継続する。表現できるのはそこまでです」
副長官は広報案の該当箇所に線を引いた。
「その表現に改める」
文部科学省の担当者が口を開いた。
「植物や生物についても同様です。外見だけで既存の種と判断すべきではありません。映像に映っている青い鳥も、鳥類に似た未知生物という表現が適切です」
「一般向けにそこまで慎重な言い方をすると何も分かっていないように聞こえる」
「実際何も分かっていません」
短い沈黙が落ちた。
副長官は反論しなかった。
その通りだった。
森に見える。
鳥に見える。
土に見える。
空気の測定値は地上と似ている。
だがそれらが地上のものと同じである保証はどこにもない。
見た目が似ていることと安全であることは別の問題だった。
「未知のものを既知の言葉で説明しなければならない」
外務省の出席者がつぶやいた。
「それでいて既知のものだと思わせてもいけない」
誰も答えなかった。
会議室の外では政府の発表を待つ報道機関が増え続けている。
日比谷公園の周辺には朝から中継車が並んでいた。
規制線の外には報道陣だけでなく見物人も集まり始めている。
警察が近づかないよう繰り返し呼びかけても人数は減らない。
映像を撮りたい者。
自分の目で確かめたい者。
内部へ入れるのではないかと期待する者。
政府が何かを隠していると疑う者。
現場に集まる理由はそれぞれ違っていた。
「封鎖区域の拡大が必要です」
警察庁の出席者が言った。
「日比谷だけではありません。地方の確認地点でも人が集まり始めています。現在の警察力だけで長期封鎖を続けるのは困難です」
「自衛隊による調査支援は当面災害派遣の枠内で継続できます」
防衛省側の出席者が答えた。
「しかし、全国の出現地点へ部隊を長期間常駐させ、封鎖や警備を主任務として担わせるには、別途法的な整理が必要です。通常の自然災害とは性質が異なり、終期も明確ではありません」
「内部から何かが出てきた場合はどうする」
「現時点で構造物の外へ生物が出た事例は確認されていません」
「確認されていないことと起きないことは違う」
「その場合の武器使用や任務区分も現行制度のままでは整理しきれていません」
消防庁の担当者が資料をめくった。
「周辺住民の避難基準もありません。火災でも、地震でも、化学事故でもない。何を危険の兆候と判断するのか決められない状態です」
「だからといって全国の出現地点の周囲から住民をすべて避難させるわけにもいかない」
「何も起きなければ過剰対応と批判されます」
「何か起きてからでは遅い」
声が重なった。
副長官はしばらく議論を止めなかった。
警察は一般人を近づけたくない。
防衛省は法的根拠が不明確なまま部隊の任務を拡大したくない。
厚生労働省は感染症や有害物質の危険を軽視できない。
文部科学省は研究対象としての価値を見ている。
外務省は海外で起きている同様の事象を意識している。
それぞれの主張は間違っていなかった。
問題は間違っていない主張同士が同時には成立しないことだった。
すべての危険を排除しようとすれば何も調査できない。
調査を急げば未知の危険に人間をさらす。
情報を隠せば不信を招く。
公開しすぎれば一般人による無断進入や混乱を招く。
「一度整理する」
副長官の声で室内が静かになった。
「現時点で必要なのは恒久制度ではない。今日と明日を乗り切るための暫定措置だ」
全員の視線が集まる。
「第一に確認されたすべての構造物について警察を中心に立入規制を行う。必要に応じて自治体、消防、自衛隊が支援する」
職員が記録を始めた。
「第二に一般人の内部進入を認めない。調査は政府が承認した人員に限定する」
「報道機関から同行取材の要望が出ています」
内閣官房の職員が言った。
「認めない」
副長官は即答した。
「安全性が確認できていない。事故が起きた場合救助方法も確立していない」
「第三に各地点で無断進入が起きないよう全国共通の注意喚起を行う。名称は暫定で構わない。国民に伝わる言葉を使え」
「ダンジョン、ですか」
誰かが言った。
副長官は正面の画面を見た。
そこには短文投稿サービスの画面が表示されたままだった。
日比谷ダンジョン。
黒い門。
異世界。
未知の入口。
政府が正式名称ではないと説明しても人々はすでにダンジョンと呼んでいる。
行政文書の中で正式名称として採用するかどうかはまだ決められない。
しかし注意喚起で誰にも伝わらない言葉を使っても意味がない。
「『インターネット上などでダンジョンと呼ばれている黒色構造物』とする」
副長官は言った。
「政府による正式名称ではないことも明示する」
職員がうなずいた。
「第四に有人調査の概要を公表する」
その言葉に防衛省の出席者が顔を上げた。
「内部映像まで公開するのですか」
「一部を公開する」
「調査経路や装備、通信方法まで知られる可能性があります」
「部隊運用や警備・防衛上の機微情報は除く。指揮系統、部隊や武器の配置、装備の詳細、隊員の個人情報、現場詳細図、全通信記録は出さない」
「映像を出せば一般人の進入意欲を刺激します」
警察庁の出席者が言った。
「森があり、生物がいると知れば危険ではないと考える者が出る」
「出さなければ政府が内部で重大な発見を隠しているという憶測が広がる」
内閣官房の職員が答えた。
「すでに内部には財宝がある、政府が未知の兵器を回収した、人間が住んでいる、といった情報が流れています」
「事実ではないと否定すればいい」
「映像を見せずに否定しても信じない者はいます」
副長官は机の上で指を組んだ。
どちらを選んでもすべての人間を納得させることはできない。
ならば判断の基準は別に置くしかなかった。
国民が何を知れば自分の身を守るための行動を取れるか。
何を隠せば安全を守れるのか。
何を隠すことでかえって危険が増えるのか。
「一般向けには編集した抜粋映像を公開する」
副長官は言った。
「森林に類似した環境、地形、植物に似たもの、生物に似たもの、調査隊が活動し、全員帰還した事実を示す。調査員の顔、会話、個人名、装備の詳細、機器表示、進入手順、警備や部隊運用に関わる部分は除外する」
「政府間共有は別資料にしますか」
外務省の出席者が尋ねた。
「分ける。各国政府には一般公開版より詳細な映像と調査概要を送る。ただし完全な未編集映像は出さない。隊員の個人情報、警備配置、部隊編成、国内の指揮系統、詳細な運用手順は政府間共有資料からも除外する」
厚生労働省の担当者が確認する。
「大気については安全とは表現しない」
「しない」
「空気呼吸器を着用していたことも公表してください」
「入れる」
「病原体や毒性物質の有無は引き続き検査中とする」
「それも入れる」
文部科学省の担当者が続けた。
「一般向けには土壌状物質、植物状試料、空気試料を採取した事実だけを公表します。分析値や試料の詳細は結果が確定するまで非公開でよいでしょうか」
「一般公開はそれでいい。分析途中の数値だけが独り歩きする可能性がある」
副長官は外務省側へ視線を移した。
「各国政府へ送る資料には採取地点、採取方法、外見上の特徴など、安全確保と比較調査に必要な概要を入れる。ただし試料そのものは提供しない。未確定の分析結果も出さない」
防衛省側が資料を見ながら尋ねた。
「通信については」
「内部の機器同士では無線通信が可能。境界を越える通信は成立しなかった。その事実は出す」
「全通信記録は」
「出さない」
決定事項が一つずつ積み上がっていった。
わずか二日前まで存在しなかった問題に対して国の方針が形を持ち始めていた。
それは法律ではない。
制度でもない。
名称すら決まっていない。
それでも現場を動かすには決定が必要だった。
誰を近づけるのか。
誰を入れるのか。
何を調べるのか。
どこまで知らせるのか。
決めなければ各組織が別々の判断で動き始める。
その混乱だけは避けなければならなかった。
「組織体制についても決める必要があります」
内閣官房の職員が新しい資料を配った。
表紙には合同対策本部設置案と書かれている。
「現状では、日比谷は内閣官房主導、地方は自治体と警察、調査は防衛省と関係省庁が個別に対応しています。情報の集約先も統一されていません」
「本日中に内閣官房へ二十四時間体制の合同対策本部を設置する」
副長官は資料をめくった。
「各省庁から常駐の連絡要員を出す。国内で新たな構造物が確認された場合、位置、周辺状況、規模、封鎖状況をここへ集約する」
「二十四時間体制ですか」
「当然だ」
出現が昼間だけとは限らない。
地方自治体が突然現れた黒い門を前にして霞が関の始業を待つことなどできない。
「調査隊も常設化する必要があります」
防衛省の出席者が言った。
「現行の隊員だけでは複数地点を同時に調査できません。防護装備にも限りがあります」
「全国すべてへ同時に入る必要はない」
副長官は答えた。
「優先順位を決める。まずは外部観測と封鎖。内部調査は日比谷で得た情報を検証してからだ」
「地方からはなぜ東京だけ調査するのかという反発が予想されます」
「東京だからではない。最初に調査体制を整えられた場所だからだ。その説明も必要になる」
日比谷公園に最初の構造物が出現したのは偶然だった。
その偶然によって日本政府は世界のどの国より早く内部へ人間を送り込んだ可能性が高い。
だが先に入ったからといって先に理解したわけではない。
見つけたのは答えではなかった。
分からないことが想像以上に多いという事実だった。
会議室の扉が開いた。
職員が一枚の紙を持って副長官の近くへ歩み寄る。
「海外からの照会状況です」
副長官は紙を受け取った。
複数の国から日比谷公園で行われた有人調査について問い合わせが届いている。
内部環境。
通信状況。
隊員の健康状態。
採取試料。
進入方法。
危険生物の有無。
各国が知りたがっている内容は日本政府が今まさに議論しているものとほとんど同じだった。
「外務省としてはどこまで共有する」
副長官が尋ねた。
外務省の出席者は少し間を置いて答えた。
「安全確保に関わる基礎情報は共有すべきです。境界を越える通信が成立しないこと、防護装備を継続していること、安全性が確認されていないこと。少なくともこの三点は各国の人的被害を減らす可能性があります」
「日本だけが情報を出すことになる」
防衛省側が言った。
「各国が何を確認しているかは分かりません。すでに独自調査を実施している国がある可能性もあります」
「だからこそこちらから共有を提案する意味があります」
外務省の出席者は答えた。
「日本が持っているのは数日分の先行情報にすぎません。各国の構造物はそれぞれの領域内にあります。情報を独占しても長期的な優位にはなりません」
「共有した情報を軍事利用する国もある」
「共有しなくてもいずれ独自に調べます」
短い応酬のあと全員が副長官を見た。
日本政府が世界規模の問題で先に情報を示す。
それはこの国にとって馴染み深い選択ではなかった。
多くの場合日本は他国の動きを確認し、国際社会の反応を見た上で立場を決めてきた。
だが今回は参考にできる前例がない。
他国の判断を待っている間にも誰かが黒い門の向こうへ入るかもしれない。
内部から外部へ連絡できないことを知らないまま。
地上と似た空気だと考え、防護装備を外したまま。
安全そうな森に見えるという理由だけで。
「共有する」
副長官は言った。
「ただし一般公開する情報、政府間で共有する情報、国内だけで管理する情報を明確に分ける」
職員たちが資料へ視線を落とした。
「各国政府には一般公開版より詳しい映像、測定結果、機器の作動状況、衛星測位が使えなかったこと、土壌状物質と植物状試料の概要を送る。測定条件と限界も必ず付ける」
「完全な映像記録も送りますか」
「送らない。政府間共有用に必要箇所を抽出し、隊員の個人情報、部隊編成、武器や警備の配置、国内の指揮系統、詳細な運用手順は除去する。未確定の分析結果も国内に留める」
「日本が安全を保証したと受け取られない表現にします」
外務省の出席者が答えた。
「保証はできない」
副長官は言った。
「我々自身がまだ何も保証できないのだからな」
午後四時を過ぎた頃会議は一度中断された。
各省庁の職員が決定事項を持って部屋を出ていく。
広報案を修正する者。
記者会見の準備をする者。
全国の警察本部へ連絡する者。
自治体向けの通達を作る者。
調査映像を編集する者。
各国へ送る資料を整理する者。
会議室の外では電話の音が絶え間なく鳴っていた。
廊下を歩く職員の足音が重なる。
コピー機が動き続けている。
机の上に置かれた資料は数時間前まで白紙だったものばかりだ。
国は巨大な仕組みだった。
平時なら動き始めるまでに時間がかかる。
だが今回は誰もが判断の遅れによって責任を負うことを恐れていた。
一度方向が定まれば多くの人間が同時にそれぞれの役割を果たし始める。
人命を守ろうとする者もいた。
自分の組織へ非難が集中することを避けようとする者もいた。
理由は一つではなかった。
それでも異なる思惑が同じ方向へ重なったことで巨大な仕組みは異例の速さで動き始めていた。
午後五時三十分。
内閣官房長官による臨時記者会見が開かれた。
会見場には国内外の報道機関が集まっていた。
カメラのシャッター音が続く。
内閣官房長官は用意された文書を机の上に置いた。
「東京都千代田区の日比谷公園内に出現した黒色構造物について、本日午前、第二次有人調査を実施しました」
会場の空気が変わった。
記者たちが一斉に手元の資料を見る。
「調査員は全員帰還しています。帰還後には隔離区画で所定の除染と健康確認を行い、現在も経過観察を続けています。現時点で急性の健康被害は確認されていません」
内閣官房長官の背後にある画面へ編集された映像が映し出された。
黒い境界を越える調査員。
その先に広がる森林。
地面を覆う草。
遠くに立つ木々。
枝の上を移動する青い鳥に似た生物。
公開映像からは調査員の会話を含む音声が除かれていた。
調査員の顔や個人情報、装備の詳細、機器表示、進入手順、部隊運用が分からないよう、必要な部分には処理が施されている。
「内部では森林に似た環境、植物に似たもの、生物に似たものが確認されました。ただし既存の生態系との関係は不明です」
次に測定機器の映像が流れた。
「採取した空気および現地での測定値から現時点で重大な異常は確認されていません。しかし内部環境の安全性が確認されたわけではありません」
内閣官房長官は一語ずつ区切るように続けた。
「調査員は防護服および空気呼吸器を着用しており、未知の病原体、有害物質、そのほか人体へ影響を及ぼす要因について現在も検査を継続しています」
記者の一人が手を挙げた。
「内部の空気は人間が呼吸できるということでしょうか」
「そのような判断はしていません」
内閣官房長官は答えた。
「測定した範囲で通常の大気と著しく異なる数値は確認されていませんが、安全性を保証する段階ではありません。政府としては引き続き防護装備を用いた調査を行います」
別の記者が質問する。
「映像に映っている森は本物の森なのですか」
「森林に類似した環境が確認されたという表現にとどめます」
「鳥のような生物は危険ではないのですか」
「現時点で調査員への攻撃行動は確認されていません。ただし危険性がないと判断したわけではありません」
「内部の広さは」
「確認できていません」
「どこにつながっているのですか」
「分かっていません」
「異世界だという可能性は」
「現時点で回答できる科学的根拠はありません」
質問が続いた。
政府は分かったことよりも分からないことの方を多く答えることになった。
それでも公開された映像は国民に大きな衝撃を与えた。
黒い門の向こうには壁も暗闇もなかった。
森があった。
空があった。
生き物らしきものがいた。
数日前まで空想の中にしか存在しなかった光景だった。
会見の映像はすぐに全国のテレビ局で繰り返し放送された。
飲食店のテレビ。
家電量販店の展示画面。
駅前の大型モニター。
病院の待合室。
学校から帰った子どもたちが見る居間のテレビ。
仕事を終えた会社員が開く携帯電話。
日本中の人間が同じ森を見ることになった。
驚く者。
恐れる者。
興奮する者。
作り物だと疑う者。
政府がもっと多くの情報を隠していると考える者。
黒い門の向こうへ行ってみたいと思う者。
反応は一つではなかった。
ただ一つ共通していたことがある。
誰も十一月十日までと同じ世界に生きているとは思えなくなっていた。
午後八時。
内閣官房に設置された合同対策本部では全国から報告が集まり続けていた。
新たな目撃情報。
規制線へ近づこうとした者。
動画配信を目的に現場へ向かった若者。
周辺道路の混雑。
住民からの問い合わせ。
自治体からの支援要請。
大学や研究機関からの調査参加希望。
企業からの技術提供の申し出。
宗教団体からの声明。
それまで別々だった動きが黒い門を中心に結び付き始めていた。
政府だけではない。
警察も。
自衛隊も。
自治体も。
研究者も。
報道機関も。
そして国民も。
まだこの現象が何なのかは分からない。
危険なのか。
利益をもたらすのか。
人類の未来を変えるものなのか。
一時的な異常にすぎないのか。
答えは何一つ出ていない。
それでも待っているだけではいられなかった。
日本はこの日初めて黒い門が存在することを前提に動き始めた。
その夜内閣官房と関係省庁が取りまとめた政府間共有資料が外務省の正式な外交ルートを通じて各国政府へ送信された。
一般公開された資料よりも詳しい最初の調査概要だった。
そこには国内限定情報を除いた境界通過時の映像と調査隊が内部で記録した詳細映像が含まれていた。
資料にはさらに大気の測定結果と測定条件、土壌状物質・植物状試料の概要、各機器の作動状況も含まれていた。内部にいる機器同士では無線通信が成立し、衛星測位は利用できなかったことも記されていた。
機械式時計と電子式時計が内部でも作動し、今回の短時間調査では日比谷の内外に大きな時間差が確認されなかったことも記載された。
ただし完全な未編集映像、個人情報、部隊運用の詳細、未確定の分析結果は資料から除外されていた。
資料の中で日本政府が特に強調したのは三点だった。
境界を越える通信は成立しない。
内部環境の安全性は確認されていない。
安全性が確認されるまでは防護装備を継続すべきである。
日本が世界に先駆けて有人調査に成功した可能性を示す記録であり、その成功だけでは安全を保証できないことを伝える資料でもあった。
日本政府には他国の人的被害を減らすという目的があった。
同時に日本が世界に先駆けて有人調査を実施した可能性は高い。その情報を各国へ提供した国として今後の国際協議で発言力を確保したいという思惑もあった。
善意だけでも、威信だけでもない。
人命を守るための共有と国益を守るための外交が同じ文書の中に並んでいた。
それを受け取った国々がどのような判断をするのか。
まだ日本には分からなかった。
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