第33話 四苦八苦

簡単にことを済ませようと思ったが、そうもいかなかった。


まず問題になったのは、高低差だった。


山の中腹にある取水地と、花街との標高差が予想以上に大きい。


水を高いところから低いところへ流す。


理屈だけなら、これほど簡単なことはない。


しかし、高低差が大きいということは、それだけ管の中の水圧も高くなる。つまり、継ぎ手やバルブ部分に予想以上の大きな圧力がかかったとしたら、はじけ飛ぶだろう。


高橋が図面を睨みながら呟く。


「そうだ。途中で管が耐えられなければ、破裂する。」


志村も頷く。


せっかく山の水を利用できても、送水管そのものが壊れてしまえば意味がない。


しかも問題は、それだけではなかった。


ここは秋田である。


冬になれば、事情は一変する。


1879年1月13日。


正月も過ぎたこの日は、朝から、深々と雪が降り続いていた。


山の中腹に設ける予定の取水地も例外ではない。昨日まで人の手が入っていた場所が、わずかな時間で白一色へと変わっていく。


せっかく掘った溝も、二時間と経たぬうちに雪で埋もれてしまった。


「旦那、こりゃあ無理だ」


作業をしていた大工の一人が、雪を払いながら頭を振った。


「俺は関東の生まれだから、ここまで降る雪を見たこたねぇ」


そう言って、雪に埋もれた資材へ目を向ける。


「確かに水は必要だ。だが、掘っても掘っても雪が隠しちまう」


「・・・」


「おまけに、木が濡れて反っちまった。これじゃあ使い物にならねえ」


高橋は黙って、雪に埋もれた木材を見つめた。


頭の中では、すでに立派な水道設備が完成している。


しかし現実には、その第一歩となる工事すら難航していた。


「木材を屋根のあるところへ運び込めないか?」


高橋が尋ねる。


「運ぶったって、この雪じゃ山道を人力で下ろすだけでも一苦労ですぜ」


大工が答える。


「それに、濡れた木は乾かす場所も必要だ」


志村も周囲を見回した。


雪は止む気配がない。


「・・・工事そのものを、冬にやるのが間違いだなぁ」


「しかし、春まで待っていたら?」


高橋が答える。


「その間も、街の人間は井戸水を使い続ける」


二人は黙り込んだ。


現在、花街では渋沢の指導によって、井戸から汲み上げた水をそのまま飲まず、一度加熱して煮沸するようにしている。


簡単な加熱式の飲み水濾過器も各所に設けられ、町民たちは手間を掛けながら安全な水を確保していた。


以前のように、井戸から汲んだ水をそのまま口にする者は少なくなっている。


だが、それにも限界がある。


薪やケロシン、石炭を使う。


時間も使う。


何より、毎日大量の水を煮沸するのは大変な仕事だった。


「・・・やはり必要だ」


志村が静かに言った。


「うむ・・・」


高橋も頷く。


「必要だからこそ、急がなければならない」


二人は雪の向こうに見える花街を眺めた。


だが、その時――。


「お二人さん」


大工が声を掛ける。


「急ぐのはいいが、もう一つ問題があるぞ」


「何だ?」


「この雪だ」


大工は足元を指差した。


「春になって雪が解けたら、今度はここを大量の水が流れる」


「……」


「せっかく掘った場所が崩れたり、管が浮いたりしたらどうする?」


高橋と志村は顔を見合わせた。


また一つ、問題が増えた。


水源そのものは見つかった。


水量もある。


街までの高低差も利用できる。


しかし、それを「一年中使える水道」にするとなると、話はまったく違ってくる。


「・・・一から考え直す必要があるな」


高橋が苦笑する。


「そのようだ」


志村も苦笑した。


「水を引くだけなら簡単だったんですがね」


二人の背後では、大工たちが雪に埋もれた道具を掘り出している。


その姿を見ながら、高橋は小さく息を吐いた。


「さて・・・どうしたものか」


雪はなおも降り続いていた。


花街の飲み水計画は、まだ始まったばかりだった。


———


一方そのころ、渋沢は花街の医者たち数人と、とある問題について頭を悩ませていた。


「大医院を、どこに造るか」


コロリ虫騒動がようやく収束へ向かいつつある今、渋沢たちは新たな医療施設を造ろうとしていた。


これまで花街には、小さな医院がいくつも存在していた。


渋沢医院もその一つである。


しかし、今回の騒動を経験して、医者たちは思い知らされた。


小さな医院だけでは、どうにもならない。


患者が一気に押し寄せれば、診察する場所が足りなくなる。


寝かせる場所、医薬品、看病する人間も足りない。


そして何より、病人と健康な者を分けておく場所がなかった。


今回のコロリ虫騒動では、それが大きな問題となった。


「患者を診察しているすぐ隣で、別の者が倒れる。我々は人数が少ないから、掃除する暇もありません。」


その患者を別の部屋へ運ぼうとしても、空いている場所がない。


それどころか。汚れた衣服や手拭いをどこへ置くべきなのかさえ、最初は誰にも分からなかった。


渋沢は、そんな経験を二度と繰り返したくなかった。


「やはり花街の中心部分はどうだろうか」


若い医者が地図を指差した。


「人も多い。どこから来るにしても近い。患者を運ぶにも都合がいいでしょう」


「確かに」


別の医者が頷く。


「商店も多い。薬や食料を集めるにも便利だ」


「それに、人目につく場所のほうがいい。病院がどこにあるのか分からなければ、急病人が出た時に困る」


若い医者はそう言って、地図の中央を叩いた。


「ここなら誰でも場所を知っている」


しかし、その意見に異を唱える者がいた。


髭をたくわえた年嵩の医者である。


「いや」


低い声で言う。


「かえって遠い方が良いだろう」


若い医者が顔を上げる。


「遠い方が?」


「今回の騒動を忘れたのか」


髭の医者は、ゆっくりと地図を見回した。


「コロリ虫のような病の場合、大医院の周囲から一気に広がる可能性もある」


「しかし、それは病院が原因になるわけではないでしょう」


「原因にならなくとも、人が集まる」


髭の医者は指を一本立てた。


「病人が集まり、看病する者が集まる。家族も集まる。薬を持ってくる者も来る。飯を運ぶ者も来る」


「それだけ人が集まれば、もし病がうつるものであった場合、そこが新たな病の中心になる可能性もある」


若い医者は黙り込んだ。


別の医者が口を挟む。


「だが、遠過ぎては元も子もないのではないか」


「そうです」


若い医者も頷く。


「患者が歩いて来られるとは限らない」


「担架が必要になる」


「そうなれば、運ぶ人間も必要ですな」


「冬ならなおさらだ」


話が進むにつれ、医者たちの表情が険しくなっていく。


誰も間違ったことを言っているわけではない。


中心部なら便利だ。


しかし、感染症が発生した時には危険になる。


離れた場所なら衛生面では有利かもしれない。


だが、患者を運ぶには不便だ。


どちらを選んでも問題が残る。


険悪な雰囲気になってきたのを感じ、渋沢が口を開いた。


「皆さん」


医者たちが渋沢を見る。


「まず大前提として、町民のことを考えねばなりません」


静かな声だった。


「不潔な場所ではいけません」


渋沢は地図の上へ手を置く。


「水が汚れている場所も避けるべきでしょう。厠や汚水が溜まる場所の近くも駄目です」


「・・・確かに」


「もし不潔な場所を選定してしまったら、それこそ我々も病に陥る可能性がある」


渋沢は、コロリ虫騒動の最中に見た光景を思い出していた。


吐瀉物。


激しい下痢に、汚れた衣類。


そして、それを片付けた人間が同じ井戸の水を使って手を洗っていた。


ほんの少しの判断違いが、次の患者を生み出す。


それを目の前で見てきた。


「病院は、病人を治す場所です」


渋沢が続ける。


「しかし同時に、病を外へ広げない場所でもなければならない」


医者たちは黙って聞いていた。


「治療だけを考えて場所を決めてはいけません」


「風通しや水。」


渋沢は一つずつ挙げていく。


「そして、人の動線です」


若い医者が眉を上げる。


「人の動線?」


「ええ」


渋沢は頷いた。


「患者が入ってくる道と、元気になって帰る者の道が同じである必要はありません」


「なるほど・・・」


「重い患者を受け入れる場所。軽い患者を診る場所。薬を渡す場所に看病する場所」


「それらを分ける、と?」


「そうです」


渋沢の目が鋭くなる。


「今回のように、一つの部屋へ全てを押し込めるようなことは、もう二度としたくありません」


その言葉に、誰も反論しなかった。


しばしの沈黙。


やがて、髭を蓄えた医者が口を開く。


「・・・例えば、こういうのはどうだろうか」


全員がそちらを見る。


「受け入れる場所は、花街の中心とする」


「中心に?」


「ええ。まず患者を受け付ける。そこで容体を確認する」


髭の医者は地図に線を引いた。


「軽症なら、その場で診察する」


「そして?」


「重大であれば、そのまま別の場所にある処置できる場所へ移動する」


「なるほど」


若い医者が頷く。


「受付と診療を分けるわけですな」


「そうだ」


「それなら病人を中心部まで運ぶ距離は短くできる」


「そのうえで、重症患者だけを離れた場所へ運ぶ」


「理屈としては分かります」


渋沢は頷いた。


「その考えは良いと思います」


しかし、そこで一度言葉を止めた。


「ですが」


医者たちが渋沢を見る。


「患者が歩けるとも限りません」


「・・・」


「コロリ虫の場合、離れた場所に行かせるのも一苦労だと思います」


誰もが思い出していた。


安田の姿。


米のとぎ汁のような下痢。


止まらない嘔吐。


水を飲ませても吐き戻す。


身体から水分が失われ、立ち上がることすらできなくなる。


あれほどの患者を、数百メートル、あるいは一里近く運ぶとなれば――。


「・・・確かに」


若い医者が呟く。


「担架が必要になる」


「担架を運ぶ人間も必要だ」


「雪が降れば、さらに難しい」


「病人を運んでいる間に容体が悪化する可能性もある」


皆が次々に意見を出す。


渋沢はその様子を黙って見ていた。


そして、ふと別の話を切り出した。


「ところで」


「はい?」


「今、帝国石油化学の皆さんに、沢の水を街まで届けてもらう送水管を作ってもらっています」


医者たちが顔を上げた。


「沢の水を?」


「ええ」


渋沢は頷く。


「もちろん、まだ計画段階です。雪が解けなければ工事も進みませんが、完成すれば街の井戸に頼る必要が減ります」


「それはありがたい」


「水が安定して手に入るなら、病院にも使えますな」


「はい」


渋沢は続ける。


「病院にも送水管を引いてもらう予定です」


「それなら、洗浄も楽になる」


「器具を洗うこともできる」


「手洗いも徹底できますな」


医者たちの表情が少しずつ変わっていく。


今回の騒動で、水の重要性を思い知らされたからだ。


渋沢はさらに付け加える。


「もちろん、コロリ虫対策も必要です」


「さらし粉ですか?」


「ええ」


渋沢が頷く。


「沢の水そのものに問題がないとしても、途中で汚染される可能性はあります。ですから、一定の消毒を行う予定です」


「なるほど」


「それなら飲み水だけでなく、病院の洗浄用水としても使えそうだ」


「病院を清潔に保てる」


「そうなれば、病院そのものが感染源になる危険も減らせる」


渋沢は静かに頷いた。


「そこです」


「はい?」


「大医院は、ただ大きな医院を造ればいいというものではありません」


渋沢は地図を見つめる。


「病気を治す場所であると同時に、病気を広げない仕組みそのものを造る必要があります」


誰も口を挟まなかった。


やがて、髭を蓄えた医者が地図の端を指差した。


「・・・それなら」


「はい?」


「駅の北側に、少し広い、ひらけた場所があります」


若い医者が地図を覗き込む。


「駅の北?」


「確か、あそこには広い野原があったと思うが……」


「ええ」


髭の医者は頷いた。


「人家は少ない。街の中心からも、それほど離れてはいない」


「駅も近い」


別の医者が言った。


「それなら、医具や薬品を運び込むのも容易そうだな」


「患者を遠くから運ぶ場合も、鉄道を使えるかもしれません」


「鉄道から病院へ道を一本整備すればいい」


若い医者の顔が明るくなる。


「そう考えると、案外いい場所ではありませんか?」


渋沢も地図を見る。


駅。


その北側に広がる土地。


街の中心から少し離れている。


周囲には人家が少ない。


そして、先ほど話していた沢の水を引ける可能性もある。


「・・・確かに」


渋沢が呟いた。


「ここなら、病院の周囲にある程度の空間を確保できます」


「病室も増やせる」


「庭も造れる」


「隔離する建物を別に設けることもできる」


「薬品庫や器具庫も置ける」


医者たちの話が、次々と広がっていく。


渋沢はその様子を見ながら、少しだけ微笑んだ。


「それに、将来的には――」


「将来的には?」


若い医者が尋ねる。


渋沢は少し考えた。


「医師だけでなく、看護を専門にする者も必要になるでしょう」


「看護を専門に?」


「ええ」


「今のように、我々や家族、若衆に任せるだけでは限界があります」


渋沢は続ける。


「病人の食事を管理する者」


「薬を管理する者」


「寝床を清潔にする者」


「傷を処置する者」


「そして、患者の容体を記録する者」


医者たちは顔を見合わせた。


「そこまで分けるのですか?」


「分けるべきでしょう」


渋沢は即答した。


「一人の医者が全てをする必要はありません」


「医者は診断と治療に集中する」


「看護をする者は看護に集中する」


「薬を扱う者は薬を管理する」


「そうして初めて、大勢の患者を受け入れられる」


しばらく誰も言葉を発さなかった。


それは、今までの医院とはまるで違う考え方だった。


一人の医者が患者を診て、家族が看病する。


それが当たり前だった。


しかし、渋沢が考えているのは、それよりはるかに大きな仕組みだった。


若い医者が呟く。


「一つの組織ですな」


「そうかもしれません」


渋沢は頷いた。


「病人を受け入れ、診察し、治療し、看護し、回復させて帰す」


「それを一つの仕組みにする」


「そして、感染症が出た場合には、隔離する」


「水を確保する」


「汚物を処理する」


「必要なら、街の衛生そのものを指導する」


髭の医者が笑った。


「先生は、病院一つ造るつもりではないようですな」


渋沢は苦笑する。


「・・・そうかもしれません」


窓の外を見る。


そこには、まだ冬の名残がある。


雪は大地を覆い、街のあちこちには除雪されていない場所も残っている。


「ですが」


渋沢は言った。


「次にコロリ虫が現れた時、また同じことを繰り返すわけにはいかないでしょう」


その言葉に、医者たちは静かに頷いた。


一人の患者を救う。


それだけなら、一つの医院でもできる。


しかし、千人、二千人という患者を救うには――。


個人の力だけでは足りない。


仕組みが必要だった。


「では」


髭の医者が立ち上がった。


「雪が止んだら、駅の北側を見に行きましょう」


「ええ」


「土地の高さも確認する」


「水は引けるか」


「道路は造れるか」


「鉄道からどれほど離れているか」


「風通しも見なければならない」


次々と課題が出てくる。


渋沢はそれを紙へ書き留めていく。


「それから、土地の周囲に汚水が溜まる場所がないかも確認しましょう」


「分かりました」


「それと、沢の水源からどれほど離れているかも測りたい」


「帝国石油化学の高橋さんと志村さんにも協力を頼みましょう」


「ええ」


話は次第に具体的になっていった。


まだ、何も建っていない。


設計図すらない。


土地が本当に適しているかどうかも分からない。


それでも――。


この日、渋沢たちは初めて、大医院というものの形を思い描き始めていた。


単なる「大きな医院」ではない。


診察室があり、病室があり、隔離室があり、薬品を保管する場所があり、清潔な水が流れ、汚れた水を外へ排出する仕組みがある。


そして、医師だけでなく、看護や衛生を担う者たちが働く。


それは、この街にとって初めての、本格的な医療施設になるはずだった。


渋沢は最後に地図へ大きく丸を付けた。


駅の北側。


「ここを、一度見に行きましょう」


「雪が止んだら、ですな」


「ええ」


渋沢は窓の外を見た。


外では、また雪が舞い始めている。


「・・・今は、少し待つしかありません」


医者たちは苦笑した。


「秋田の冬には、敵いませんな」


「まったくです」


その場に小さな笑いが起こった。


しかし、渋沢は再び地図へ目を戻す。


この雪が解けた時。


街には新しい水道が造られ始める。


そして、その水道が届く先には――。


新しい大医院が建つことになる。


それが、この街の医療を大きく変える最初の一歩になるとは、この時の誰もまだ知らなかった。

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