第17話 発見
1877年12月23日。
例の殺人事件は犯人不明のまま半年が過ぎていた。
街にはある程度の活気が戻り、妖怪だの怪人だのといった噂話も、いつしか聞こえなくなっていた。
事件そのものは解決していない。しかし、日々の暮らしを続ける人々にとって、いつまでも恐怖に囚われているわけにもいかない。
油田駅を中心とした街では、朝になれば商人が店を開き、工員が工場へ向かい、技師たちは研究所へと足を運ぶ。
夜になれば花街に明かりが灯り、酒場からは笑い声が聞こえる。
一見、平穏が戻ったように見えた。
その一方で、黒金油を巡る研究は休むことなく続いていた。
そしてこの日、大田は、長らく取り組んでいた研究の一つに、ようやく目処をつけていた。
重質油から潤滑油を精製する方法である。
机の上には、透明とはいかないまでも、黒金油そのものとは明らかに違う、琥珀色の油が小さなガラス瓶に入れられていた。
大田は瓶を光にかざす。
「うむ・・・これなら良いかもしれないですな」
その声には、いつもの興奮よりも慎重さがあった。
「これが潤滑油ですか・・・」
鉱山長、松戸井健(まつどい けん)もまじまじと見つめている。
見た目だけなら、それほど大したものではない。
すこしさらさらしているハチミツのようだ。
しかし、これまでの試作品とは違う。
熱を加えても急激に粘度が変化せず、金属同士が擦れ合う場所へ塗布しても、油膜が比較的長く残る。
もちろん、まだ実用化には程遠い。
大田が行ってきた実験は、主に二つだった。
一つ目は、熱による耐久性の確認。
二つ目は、金属同士が擦れ合う際の油膜の保護能力である。
単純な試験である。
二枚の金属片を用意し、その間に一定量の油を塗る。
それを一定時間擦り合わせ、表面の傷や摩耗の具合を見る。
さらに油を加熱し、どの程度まで粘度や性状が変化するかを調べる。
菜種油などと比較すると、今回作った油は高温になった際の変化が少ない。
そして冷却した後も、ある程度元の性状を保っていた。
「少なくとも、菜種油より悪いということはなさそうですな」
大田は金属片を手に取り、表面を眺めた。
問題は、これを大量に作れるかどうかだった。
研究室で小さな瓶を一本作るのと、工場で何十、何百リットルも作るのでは、まったく話が違う。
黒金油には、さまざまな成分が混ざっている。
それらを単純に蒸留しただけでは、機械油として使える品質にはならない。軽質油、ケロシン分の少ない重質油を取り出したとしても、その中にはまだ不要な成分が残っている。
さらに、加熱しすぎれば油そのものが変質する。
大田はそこに頭を悩ませていた。
そこで採用したのが、濃硫酸による処理だった。
濃硫酸には強力な脱水作用と酸化作用がある。
油の中に含まれる不飽和化合物や樹脂質など、望ましくない成分を反応させ、油から分離しやすい状態にする。
大田たちはこれを便宜上、「焼き切り」と呼んでいた。
鉱山長はイマイチピンと来ていないような顔である。
「試しにこちらをご覧に入れましょう。」
大田は砂糖を持って来た。
「鉱山長殿、これは砂糖です。特別な処理はしておりません。これに硫酸を垂らすと・・・」
大田がスポイトで数滴の硫酸を垂らす。
そうすると、砂糖が徐々に黒く変色し、煙が上がる。
「これは・・・!」
鉱山長が驚いた顔で見つめる。
「これがこの硫酸と呼ばれる薬品の特徴の一つ、強い脱水・酸化作用です。」
大田が鉱山長に説明する。
「つまり、濃硫酸によって不純物を反応させ、黒く変質したものや沈殿したものを分離するのであります。」
ただし、この工程には無視できない大きな問題があった。
硫酸を入れすぎれば、必要な油まで傷めてしまう。
少なすぎれば不純物が残る。
しかも原料となる黒金油は、採取する場所や時期によって性質が微妙に違う。
昨日うまくいった配合が、今日の油ではうまくいかないことすらある。
そのため大田は、何度も少量の試験を繰り返していた。
試験管、ガラス瓶、ビーカー。
少量ずつ油を取り、濃硫酸の量を変えて処理する。
その後、沈殿したものを確認し、上澄みだけを取り出す。
松戸井は、
「同じ黒金油でも、随分と違うものですな・・・」
と呟いた。
大田の記録帳には、日付、採取場所、蒸留温度、使用した硫酸の量、処理時間などが細かく書き込まれていた。
研究者にとって、失敗は失敗ではない。
条件を一つ減らすための材料である。
大田はそう考えていた。
しかし、硫酸処理を終えれば完成というわけでもない。
硫酸によって処理された油には、強い酸性の成分や反応によって生じた物質が残る。
これをそのまま機械へ入れるわけにはいかない。強力な酸と不純物は必ず機械を壊す。
そこで次の工程として、水酸化ナトリウムを加える。
「次に、この上澄みに水酸化ナトリウムを追加します」
鉱山長が、隣で興味深そうに覗き込む。
「それでどうなるんです?」
「中和反応が起きます。酸性だったものが中性へ近づく」
大田は慎重に薬品を加えていく。
量を間違えれば、今度はアルカリ性になりすぎる。
これもまた、簡単な作業ではない。
濃硫酸も水酸化ナトリウムも、どちらも扱いを誤れば危険な薬品である。
皮膚に付けば火傷を起こす。
木製の机や通常の金属容器では長期的な使用に耐えない。
そのため研究室では、ガラス製の器具が重宝されていた。
ただし、ガラス器具には別の問題がある。
大量の油を処理するためには、ガラス製の大きな容器が必要である。
しかし、そのような大きいものは前代未聞で、製作できるかわからない上、できたとしても、輸送中や分離作業中のちょっと衝撃で割れる危険もある。
「これでは、工場で大量に作るのは難しいですな」
松戸井が言う。
「ええ。今のところは」
大田も認めざるを得なかった。
「少量生産するなら今私がやっているように研究室で時間をかけるだけです。ですが、大量生産するとなると、問題はこれだけではないですな」
大量生産するなら、薬品を投入する装置、撹拌する装置、沈殿させるための槽などが必要になる。と工場長に説明する。
「こちらの沈殿物は、塩(えん)と言います。食べるものではありませんが、こちらは機械に付着すると破壊の原因となる。つまり、これを取り除かなければなりません」
「ここで、塩が油よりも水に溶けやすい事を利用します。」
硫酸と水酸化ナトリウムで処理された油に水を加え、十分に撹拌する。
すると、油に残っていた塩類が水側へ移る。
しばらく放置すると、比重の違いによって二つに分かれる。
上部には琥珀色の油が、下部には水が溜まっている。
「水で油を洗うのですか?」
松戸井が不思議そうに尋ねた。
「ええ。油そのものを洗うというより、油に残った塩を水へ移す、と考えればよいでしょう」
ただし、この工程も簡単ではない。
激しく撹拌すれば塩は水へ移りやすくなるが、油と水が細かく混ざり、分離に長い時間を要する。
逆に撹拌が弱ければ、十分に洗浄できない。
つまり、程よい加減で攪拌しなければならない。一定の質で出荷するためには、まだ研究が必要だった。
そして次に、洗浄が十分であるかを確認する。
酸性、アルカリ性の確認にはリトマス試験紙を使う。
青い紙が赤色に変われば酸性。赤い紙が青色に変わればアルカリ性。
中性に近ければ、大きな変化はない。
「では、塩が残っているかどうかは?」
松戸井が尋ねる。
「排水を金属皿に取り、加熱します」
水分が蒸発すると、そこに塩の結晶が残る。
「結晶が残れば、まだ塩があるということです」
「それを繰り返す?」
「いいえ、ある程度です。」
まだ何かあるのか、といった顔の松戸井。
「最後に、排水を捨て、この白土を粉にしたものとよくかき混ぜます。それを布で濾しとるのです。」
そうすると、黄金色が増した美しい色になる。
「こうすると様々なところで使用できる形になります。鉱山のトロッコや蒸気機関の金属可動部にもつかえますな。」
だが、製造自体は成功したものの、問題点は大量生産できない事だけではなかった。
「そして、この実験の途中で出た汚物の処分に、今困っていたところでした。」
厄介なのが、廃棄物だった。
濃硫酸で処理した後に生じる黒い沈殿物。
中和によって生じる塩や、洗浄に使用した水。そして濾過に使用した白土や布。
これらをそのまま川へ流すわけにはいかない。
黒金油の生産量が増えれば増えるほど、廃棄物も増える。
つまり、潤滑油を作るためには、油を精製する設備だけでなく、不要物を処理する設備まで必要になる。
廃酸、廃水、沈殿物の処理方法を確立すること。これもまた、研究の一部だった。
抽出した黄金色の潤滑油を見る。
ある程度の成果は生まれたが、別の問題も山積みである。
「まだまだ続きそうですな。」
大田はため息をついた。
———
その後、大田は完成したばかりの油を、蒸留所内、トロッコ置き場へ持っていった。
現在、トロッコはほとんど油槽を積んだものに改装されている。そうでないものは資材は機械の運搬に使われており、鉱山時代の面影を残すものはほとんどない。
大田はしゃがみ込み、軸受け部分へ少量の油を注した。
そしてゆっくりとトロッコを押す。
カタン、カタン
金属の車輪がレールの上を滑っていく。
「うむ・・・」
大田は耳を澄ませた。
もう一度押す。
今度は少し強く。
トロッコは滑らかに進んだ。
「菜種油と変わらない潤滑性のようだ」
大田は手帳を開いた。
そして、いつものように簡潔な文字で記録する。
『菜種油ト変ワラヌ滑リ也』
さらにその下へ、いくつかの項目を書き加えた。
『加熱後ノ粘度変化、少ナリ』
『金属面ノ摩耗、目立タズ』
『長期保存試験、継続ノ要アリ』
その時だった。
「大田さーん!」
遠くから声が聞こえる。
振り返ると、鉱山長の松戸井がこちらへ駆け寄ってくる。
「今度は屋外試験ですかな?」
「そうです。今はこのトロッコの軸に塗っておりました。滑りは菜種油と変わらないように感じる。」
「松戸井さん、押してみてください。」
松戸井はトロッコへ近づき、実際に押してみる。
カタン、カタン。
トロッコは軽快に進んだ。
「すごいですな。随分と滑らかだ」
松戸井は感心したように頷いた。
しかし、大田は笑わなかった。
「まだ喜ぶのは早いです」
「そうですか?」
「これは、あくまで試作品です」
大田は油の入った瓶を見る。
「大量に作った時にも同じ品質になるか分かりません。原料そのものにもばらつきがありますし、硫酸の量、中和の程度など、どれか一つが変われば、出来上がる油も変わるでしょう」
松戸井は黙って聞いている。
「それに、今の方法では時間がかかりすぎます」
一回ごとに油を取り出し、硫酸を加え、沈殿を待つ。
その後に中和し、水洗し、さらに静置して、濾過する。
大量の機械油を生産し、出荷するような規模になれば、作業時間そのものが問題になる。
「ですから、次は作り方、です」
大田は言った。
「どうすれば、同じ品質のものを、何度でも、もっと大量に作れるのか。それを考えなければなりませんな」
もしこの研究が成功すれば、これまで捨てるか、用途を限定されていた重質部分から、機械を動かすための油を生み出せる。
蒸気機関車や工場の機械、発動機。
あらゆる場所で、油は必要になる。
菜種油の供給量には限界がある。
食用油との競合も避けられない。
その点、黒金油から作る鉱物性潤滑油ならば、地下から湧き出る資源を原料にできる。
大田は蒸留所の奥を見た。
そこでは今日も黒金油が処理され、蒸留釜が低い音を立てている。
「・・・捨てるところが、また一つ減りましたな」
そう呟くと、大田は手帳を閉じた。
しかし、その表情にはまだ満足していない研究者の顔が残っていた。
試作品ができた。
それは確かに一つの成果である。
だが、本当の研究はここからだった。
品質を安定させ、製造時間を短縮すること。
そして薬品の使用量を減らし、廃棄物を安全に処理すること。
最後に、工場規模で製造できる設備を作ること。
その全てを解決しなければ、この油は「研究室で作れる珍しい油」のままで終わってしまう。
大田は研究室へ戻る。
さらに考えを巡らせる。
机の上には、まだ何本もの試験瓶が並んでいる。
その一本一本に番号が振られている。
失敗したもの、途中まで成功したもの。
そして、今日完成したもの。
その中から一本を手に取る。
大田は再び実験台へ向かう。次なる目標に向け、実験を始めるのであった。
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