これまでのあらすじ
1872年――黒金油の発見
1872年2月、秋田。
廃藩置県によって久保田藩は秋田県となり、県内では各地の鉱山開発が急速に進められていた。
そんな中、とある銀鉱山で働いていた黒川一徹(くろかわ いってつ)、梶原清(かじわら きよし)、佐々木一郎(ささき いちろう)は、坑道から湧き出す水の表面に油膜のようなものが浮いていることに気づく。
黒川は当初、それを「灯り竹の油ではないか」と考えた。
しかし試掘を進めるにつれ、湧水の量とともに油膜も増加。やがて坑道からは、水に混じった油ではなく、鼻をつんざくような臭いを放つ黒い液体そのものが湧き出すようになった。
後に「黒金油」と呼ばれることになる、巨大な油資源の発見であった。
同年10月2日、明治政府から派遣された調査団が鉱山へ到着する。
調査団を率いる菊池一(きくち はじめ)と、米国や英国の工業技術に詳しい大田寧(おおた やすし)もその中にいた。
黒金油を目にした大田は、それが米国で採掘・利用され始めていた原油に近いものであると推測する。
分離・精製すれば、灯火用のケロシンを得られる。
さらに、精製後に残る重質な部分にも道路舗装などの用途がある。
大田の説明を聞いた菊池は、この資源が単なる鉱山の副産物ではなく、日本の産業そのものを変える可能性を秘めていることを悟った。
銀鉱山から黒金油研究所へ
10月15日、明治政府は銀鉱山を閉鎖し、黒金油をはじめとする地下資源の調査・開発・研究を行う方針を決定する。
ただし、住民の立ち退きを求めるものではなかった。
ところが、その内容を「鉱山そのものを取り壊し、街を閉鎖する」と誤解した商人たちが猛抗議。
調査団は行商人や工員、住民たちへ説明して回り、騒動が収まったのは10月17日早朝のことであった。
同日午前、鉱山長の松戸井健(まつどい けん)立ち合いのもと、鉱山事務所から徒歩数分の場所にある倉庫を研究施設として利用するための整備が始まる。
翌18日には住民向けの説明会も開かれ、大方の理解を得ることに成功。
さらに商人組合から、使われなくなった鉱山寄宿舎を改装し、研究所兼宿舎として利用してはどうかという提案が出される。
10月24日から改装工事が始まった。
大田は完成まで三か月ほどかかると見積もっていたが、鉱山町の豊富な人手を投入したことで工事は予想以上の速度で進み、12月16日には完成。
こうして、秋田の山間に黒金油研究の拠点が誕生した。
日本初の本格的な黒金油精製
1873年1月20日。
本格的な回分式蒸留設備が完成し、火入れ式が行われた。
日本で本格的に黒金油を蒸留・精製するための設備が稼働した瞬間である。
さらに4月には、米国式の連続芋釜蒸留設備が完成。
研究所では黒金油からケロシンを取り出すための研究が本格化していく。
しかし、黒金油を大量に生産するためには、輸送手段の整備が不可欠だった。
4月22日、鉄道輸送のためのレール工事に向けた準備が始まる。
28日に現地調査から戻った鉄道工から、約5キロの区間には多少の難所こそあるものの、大規模なトンネル工事などは必要なく、すぐに着工できるとの報告が届く。
菊池と大田は即座に工事開始を決定した。
5月1日から本格的な発破作業が始まり、同時に政府から最新式の機関車2両を提供すること、資機材についても政府が可能な限り手配すること、そしてケロシンの増産体制へ移行するよう指示が届く。
同日にはドイツ製の最新式削岩機も到着し、黒金油採掘用の機材も順次手配されていった。
さらに、蝦夷地でも黒金油が発見されたという知らせが届く。
黒金油は、秋田だけの問題ではなくなりつつあった。
6月初旬には鉄道用トンネルが開通。
引火性の高い黒金油を鉄道で大量輸送する危険を避けるため、地上式の送油管も試験的に導入される。
石炭を燃料とする蒸気機関でポンプを駆動し、油を圧送する方式だった。
9月13日、送油管の建設と試験運転が完了。
15日には鉄道の開通式が行われた。
この鉄道は黒金油蒸留所、黒金油駅、そして既存の幹線鉄道を結ぶ重要な輸送路となり、精製されたケロシンは鉄製油槽貨車によって各地へ運ばれることとなった。
急成長する黒金油の街
1874年4月。
わずか数年前まで人口3,000人ほどだった街は、いつの間にか1万人を超える都市へと成長していた。
かつて数軒しかなかった呉服店や商店、酒場は次々と増え、黒金油駅前には花街まで形成される。
旅館、飲食店、商店、工場、研究施設。
東京や外国から訪れる技師や研究者も増え、それに伴って、表の商売だけでは生きられない者たちや、正体の知れない人物の姿も見られるようになった。
急激な人口増加に伴い、街の治安維持が新たな問題となる。
そこで4月中旬、鉱山長の松戸井を中心に警吏隊が結成された。
警吏たちは花街や街道だけでなく、黒金油を運ぶ送油管の警備も担当する。
巡回時には呼子笛とケロシン灯を携帯し、送油管の始点・終点には警吏小屋を設置。
建設が完了するまでは仮設の詰所を使用することとなった。
帝国石油化学の誕生
1874年11月、菊池一と大田寧は東京へ召喚される。
11月12日午前10時30分、東京へ到着した二人は馬場先門を抜け、旧教部省庁舎を利用した太政官代へ案内された。
そこでは、それまでの研究成果や秋田以外での掘削候補地について説明が行われた。
そして政府との協議の末、黒金油を中心とした研究・開発を担う新組織――「有限責任帝国石油化学」の設立が秘密裏に決定される。
1875年2月20日、その設立が正式に公表された。
その頃、東京では別の人物が秋田研究所への赴任を命じられていた。
変人として知られる発明家、久世玄朔(くぜ げんさく)博士である。
久世博士は黒金油を燃料として利用する新たな機関、後の「久世発動機」の研究を開始する。
1876年を通して研究は続けられ、12月、ついに試作型が完成。
翌1877年3月には、久世博士専用の研究施設「久世発動機研究所」が設立された。
新しい研究室では連日のように運転試験が行われ、ある試験では5分42秒という連続運転記録を打ち立てる。
黒金油は、単なる灯火用燃料から動力源へ。
その用途を少しずつ広げ始めていた。
1877年――新たな問題
しかし、ケロシンを製造すればするほど、新たな問題が浮上する。
軽質油と重質油である。
軽質な部分は一部が久世博士によって回収され、残りは燃焼処分。
重質な部分は砂や砂利と混ぜ、「土瀝青」として街道や駅前などの舗装に利用されていた。
特に荷車を引く行商人たちからは、従来の砂利道より歩きやすいと好評だった。
だが、それだけではあまりにももったいない。
1877年5月4日。
大田は重質油を、土瀝青以外の用途に利用できないか研究を開始する。
加温すれば粘度が下がり、扱いやすくなる。
菜種油とも混ざる。
しかし加温を続ければ菜種油が劣化し、スラッジ状の物質へ変化する。
そのまま加熱すれば、煤のような物質が器具にこびりつく。
大田は試行錯誤の末、強アルカリによる処理に可能性を見いだした。
失敗を繰り返しながらも、重質油の新たな利用法を求める研究は続けられる。
やがてこの研究は、黒金油産業における大きな転換点へとつながっていくことになる。
新しい警吏と、夜の怪影
同じ頃、街では警吏制度そのものも整備されていた。
松戸井は、従来の着物や法被姿では警吏として分かりにくく、動きづらいと判断。
陸軍で採用されたフランス式の服制を参考に、新しい警吏服を制定する。
6月中旬、濃紺の制服に揃いの帽子、胸元の徽章、そして警棒などを装備するための帯を備えた新しい警吏服が完成した。
そして、その制服が初めて夜の街を巡回した日。
配管警吏を務めていた松崎一(まつざき はじめ)と尾形正(おがた ただし)は、送油管の近くで怪しげな人影を目撃する。
尾形が追跡。
しかし、その人物は異様な速さで逃走し、ついには姿を消した。
追跡中に尾形は足を挫き、警吏たちが現場へ集結。
街中に警報の鐘が鳴り響き、送油管周辺の警備はさらに強化されることとなった。
翌日、菊池と大田は警吏たちとともに現場を調査する。
そこで二人は、送油管の近くに残された不審な痕跡を発見する。
それは、送油管につけられた縄の跡だった。
しかし、その意味を二人が知ることはなかった。
怪しき影の正体は、黒金油を盗み出そうとしていた日本人の協力者。
そして、その背後にはロシア人の工作員がいた。
協力者は、送油管から少量の黒金油を採取していた。
警吏に見つかったのは、いつもの手口が偶然露見しただけだった。
彼は警吏を撒いた後、川沿いを戻り、あらかじめ縄で繋いでおいた小舟へ乗り込む。
縄を切り、小舟を川の流れに任せて逃走する。
しかし――。
数日後、その協力者は川で遺体となって発見された。
喉には鋭利な刃物による傷。
警吏たちが目撃した「怪しき影」は、単なる不審者ではなかった。
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