【サザンの楽曲「勝手に小説化」シリーズ(25)】『JOURNEY』(原案:桑田佳祐)<戦争4部作・『妙子と脩の物語』-④>

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【サザンの楽曲「勝手に小説化」シリーズ(25)】『JOURNEY』(原案:桑田佳祐)<戦争4部作・『妙子と脩の物語』-④>

私は、アメブロの、

「頑張れ!法政野球部」

にて、私が大好きな、サザンオールスターズや桑田佳祐の楽曲の歌詞を題材にして、私が「短編小説」を書くという、

「サザンの楽曲・勝手に小説化シリーズ」

を、断続的に連載している。


そして、その中からチョイスした物を、「カクヨム」にも転載しているが、

現在は、妙子(たえこ)と脩(おさむ)という夫婦を中心とした物語…激動の「戦争」の時代を生きた、ある夫婦と家族の物語を、掲載している。


1938(昭和13)年に、妙子と脩という男女が「満州」で出逢い、2人は結婚したが、その後、この夫婦には、長男の博(ひろし)、長女の敏子(としこ)という2人の子供が生まれた。

だが、その頃、戦争が激化し、脩は兵隊に取られ、出征して行った。


その後、この家族は、想像を絶する苦難の道のりを歩む事となった…という、

「戦争4部作」

の物語を書いて来たが、いよいよ、今回は、「戦争4部作」の「最終回(完結編)」である。


「戦争4部作」の「最終回」は、

1994(平成6)年にリリースされた、桑田佳祐のソロ・アルバム、

『孤独の太陽』

に収録されている、

『JOURNEY』

という楽曲の歌詞を元にして、私が書いた小説である。


ちなみに、この年(1994年)桑田佳祐は、最愛の母を亡くしているが、

『孤独の太陽』

というソロ・アルバムや、

『JOURNEY』

という楽曲は、桑田の母親に対する思いが込められている…と、言われている。


そして、この私が書いた、

「戦争4部作」

の「最終回」として、

『JOURNEY』

という曲は、この家族が辿って来た人生の旅路を締めくくるのに相応しいと思い、この曲の歌詞を元にして、小説を書かせて頂いた。


また、「8月」という、日本人にとっては「戦争」を想起させる時期にこそ、この「戦争4部作」は、是非ともお読み頂きたいと思っている次第である。


それでは、「前置き」はそれぐらいにして、

「サザン小説」の「戦争4部作」の「最終回(完結編)」、

『JOURNEY』(原案:桑田佳祐)

を、ご覧頂こう。


(※なお、「カクヨム」は、規約により、歌詞は掲載出来ないとの事なので、「カクヨム」に掲載した本作は、残念ながら歌詞は載せていない「不完全版」である。『1JOURNEY』の歌詞も掲載している「完全版」は、別のサイトに有るが、本作の最後に、その「完全版」のURLを貼ってあるので、宜しければ、そちらもお読み頂ければ幸いである)


<序章・『第4の手記』>


私は、これまで、ある家族から「手記」を託され、その「手記」に基づいて、その家族が辿って来た人生を描いて来た。


今、私の手元には4冊の「手記」が有る。

これまで、私はその「手記」に基づき、『流れる雲を追いかけて』『かしの樹の下で』『孤独の太陽』と題した物語を書いた。


そして、これから私が書こうとしているのは、

「第4の手記」

に基づいた物語である。


この「第4の手記」を書いたのは、外ならぬ私自身であり、私が辿った人生を書かせて頂く。


私の人生は、常に家族の「愛」と共に有った。

その「家族の愛の物語」を、ここに記させて頂きたい。



<第1章・『母の子守唄』>


我が人生を振り返った時、まず真っ先に思い出すのは、

「母の子守唄」

である。


私は、1939(昭和14)年に、満州の大連で生まれた。

私の両親は、元々、日本で生まれ育ったが、1932(昭和7)年、中国東北部に「満州国」が建国された後、満州に移住した。

そして、2人は1937(昭和12)年に大連で出逢い、翌1938(昭和13)年に結婚した。

その両親の間に、私が長男として生まれたのが、1939(昭和14)年であった。


私の母は、とても優しい人であり、私は常に母の愛情をタップリと貰っていた。

そんな私の母は、とても歌が大好きであり、私が赤ん坊の頃から、母はよく私に「子守唄」を聞かせてくれた。


「お母さん、何ていう唄なの?」

私が少し大きくなり、物心ついた頃も、母は私に「子守唄」を歌ってくれたが、一体、何の唄なのかはわからなかったので、私は母に聴いてみた。

「私のお母さんが、よく私にも歌ってくれた唄よ」

母は微笑みながら、私に答えてくれたが、題名はよく知らないという。

でも、母の歌声はとても優しく、子供心にも胸に沁みた。

私は、母の歌が大好きであった。


もう一つ、幼い頃の私にとって、忘れられない光景といえば、満州の大地に沈む、真っ赤な夕陽である。


満州の広大な大地に沈む夕陽は、特に秋の季節は素晴らしかったが、私は、それは美しいのと同時に、

「寂しくて、怖い夕陽」

とも思っていた。


今にして思えば、それは私の家族が歩んで行く道を暗示していたのかもしれない。



<第2章・『僕のお父さん』>


私の両親は、とても仲が良かった。


私の父は、大連の街で、父親の家業である「造り酒屋」を継ぎ、「造り酒屋」の若旦那という身分だったが、その「造り酒屋」に嫁入りした私の母は、大変な働き者であり、私の父の両親にも凄く可愛がられていたようだ。

「あんたには、勿体ないお嫁さんだわね」

私の父方の祖母…つまり、私の父のお母さんから、父はよくからかわれていたらしい。


「ようだ」とか「らしい」と書いたが、そもそも、私が4歳の時に、私の父親は「出征」してしまったので、私が小さい頃は、父の事はハッキリとした記憶は無い。

だが、私の母と同じく、父もとても優しい人だったというのは、間違いない。


父は、昔、野球をやっていたので、腕っぷしもとても強く、私はよく父から、

「高い、高い!!」

と、父の両手で高く持ち上げられたりして、遊んでもらっていた事は、よく覚えている。

そして、子供心にも、私の両親は、とても固い絆で結ばれているように思われた。


1943(昭和18)年、私の母は、2人目の子供を身籠っていた。


しかし、この年(1943年)、その子が生まれる前に、私の父は「出征」してしまった。

その頃の日本は「日中戦争」と「太平洋戦争」の真っ最中であり、健康な男子は、どんどん兵隊に取られてしまった。


大連の駅で、私の母と一緒に、出征して行く父を見送った時、私は俄かに、

「お父さんが、遠くに行ってしまう…」

という、言い知れぬ淋しさに襲われた。

その事はハッキリとわかったが、私は淋しさに耐えかねて、思わず父に抱き着いた。

「お母さんを、頼んだぞ…」

その時の父の言葉は、ずっと私の脳裏に残った。

やがて、父を乗せた列車が大連の駅から出て行き、私と母は、いつまでも、その列車を見送っていた。


「…お母さん、お父さんは帰って来るよね?」

私は不安になって、母を見上げて、そう聞いたが、

「勿論。帰って来るに決まってるでしょ」

母は、即座にキッパリと答えた。


1943(昭和18)年、父が出征して行った後、母は女の子を生んだ。

私にとっては、可愛い妹である。

母は、私の妹の名前を、敏子(としこ)と名付けた。

父は出征しており、居なかったので、妹の名前は母が決めていた。


「おー、よちよち…」

母は、目の中に入れても痛くないほど、私の妹…敏子を可愛がっていたが、私も、自分の妹が生まれたのが、とても嬉しかった。


そして、母は私に歌ってくれたのと同じく、妹にも「子守唄」を歌っていた。

「早く、お父さんが帰ってくるといいわねえ…」

母は、妹をあやしながら、よくそういう事を言っていた。


だが、この2年後、私達は想像を絶するような、酷い目に遭う事となる。



<第3章・『地獄の1945(昭和20)年・夏』>


それは、突然の出来事であった。


私が6歳の年、1945(昭和20)年8月8日、ソ連軍が一方的に「日ソ中立条約」を破棄して、満州へと侵攻して来たのである。

この事を日本軍は全く予想しておらず、ソ連軍の侵攻に対し、満州を防衛する「関東軍」…つまり日本軍は、全く為す術も無かった。

ソ連軍は、まさに無人の荒野を進むが如く、一斉に満州に攻め込み、日本軍は、あっという間に蹴散らされた。


私達の家族が住んでいた大連の街も、あっという間にソ連軍に攻め込まれ、そしてソ連軍に占領された。


私が、子供心にハッキリと覚えているのは、大連の街に掲げられていた「日の丸」の旗が全て撤去され、それに替わって、当時の中国の国旗…「青天旭日旗」が、一斉に掲げられた事である。


「日本は、この戦争に負けた。日本による、満州国の支配は終わりを告げた」

ソ連軍は、戦闘機から一斉に、そのようなビラを蒔いたが、それから1週間後の1945(昭和20)年8月15日、昭和天皇の「玉音放送」によって、日本の戦争は終わった。


「日本が戦争に負けた…」

そんな事になるなんて、その時が来るまで、私達、満州で暮らしていた日本人は、誰一人、思っていなかった筈である。

しかし、それは現実に起こった。


こうして、「満州国」は一夜にして崩壊してしまったが、

「国が崩壊する」

というのは、どういう事かというと、その瞬間に、その国で暮らす国民の生命や財産が、全く保証されなくなるという事である。


我々は、一瞬にして、全財産を失った。

いや、財産を失っただけなら、まだマシだった。

この時、ソ連軍に殺された人も沢山居たからである。


それは、まさしく1945(昭和20)年の夏に現実に起こった「悪夢」であった。



<第4章・『別れ』>


当時6歳の私にとって、ソ連軍は「悪魔」そのものに見えた。


ソ連軍は、大連の街を占領し、我が物顔に振る舞っていたが、ソ連軍は、ちょっとでも逆らう日本人が居ると、容赦なく撃ち殺したり、家を破壊したりしていた。

私達が暮らしていた家…父が受け継いだ、あの「造り酒屋」も、ソ連軍の気に障ったのか、メチャクチャに破壊されてしまった。


その時、母は私と妹を連れ、間一髪で逃げ出したが、その時、私の父方の祖父と祖母…つまり、私の父のお父さんとお母さんとは、はぐれてしまった。

私の祖父母は、その後、何処に行ったのかもわからず、「生死不明」となった。


それから、暫く経った頃の事…。


「お父さん、お父さんは無事なの!?」

母が、血相を変えて言っていた。

母が言う「お父さん」とは、母の実の父親…つまり、私から見れば、母方の祖父である。

その頃、私の母方の祖父は、身体を壊して入院していた…という事が判明したのである。


母は、急いで病院に向かったが、病院はソ連軍に荒らされ、酷い有様だった。

「お父さん…」

母は、私の祖父が寝ているベッドに近付くと、父の手を握った。

「妙子…。今まで色々とすまなかったな…」

祖父はそう言うと、母の頭を撫でていた。


母は泣いていたが、祖父は母の涙を拭うと、

「ここも、いつまで無事か、わからない。お前も、早く逃げなさい」

祖父は、母にハッキリとそう告げた。

そして、孫である私と、私の妹を見ると、祖父は微笑んだ。

「お母さんを、守ってあげるんだよ…」

祖父にそう言われ、私は頷いた。

「お父さん、今まで本当に有り難う…」

母は涙を拭き、そう言うと、私と妹を連れ、病院を後にした。

それが、私達と祖父との、「永遠の別れ」になった。


悪い事は、更に続いた。


私達は、大連から、日本への引き揚げ船が出ている、葫芦島を目指した。

その葫芦島を目指す間、私達が乗った、すし詰め状態の列車は、何度もソ連軍に爆撃を受け、その度に沢山の人が死んで行った。


「絶対に、この手を離したらダメだからね」

母は、私に厳命し、いつも私の手を固く握っていた。

そして、母は幼い妹を、自分の身体に紐を括りつけ、しっかりと「おんぶ」していた。

だが、無理な旅が祟ったのか、妹は病気に罹り、どんどん衰弱して行った。


その後、私達、親子3人は、ようやく葫芦島に辿り着いた。

だが、その時、妹はグッタリとしており、「半死半生」の状態だった。

「お母さん、敏子が…」

私は、今にも死んでしまいそうな妹の様子を見て、泣き出さんばかりに、母に言った。

母も勿論、そんな事はわかっていた。


そして、いよいよ引き揚げ船に乗り込もうという時、

「こんなに衰弱した子供を、乗せるわけにはいかない。途中で死んでしまう」

と、無情にも係員に告げられてしまう。

「そんな…」

母は途方に暮れていた。


そして、母は遂に苦渋の決断を下す。

現地に居た、中国人の若い夫婦に、

「この子を、くれぐれもお願いします…」

と言って、母は妹を託したのだ。

この時、私はすぐ近くに「かしの樹」が立っていたのを、ハッキリと覚えている。


そして、母は中国人の夫婦に、2枚の写真を渡した。

1枚は、私の両親と私の3人で写った写真、もう1枚は、父の出征後に、母と私と妹の3人で写った写真である。


こうして、やむを得ない状況だったとはいえ、私達は、可愛い妹と、泣く泣く「生き別れ」になってしまった。


こうして、私と母は、2人で引き揚げ船に乗り込んだ。


船内は、ぎゅうぎゅう詰めで、酷い衛生環境だった。

確かに、こんな船に乗せたら、妹は死んでしまっていたかもしれない。

だが、母にとっては、身を切られるような思いだったであろう。


こうして、私達の母子は、命からがら、満州から日本へと帰って来た。



<第5章・『涙の跡』>


日本に帰って来た後、母は、親戚を頼り、東京に行った。


かつて、母の実家が有ったという長崎は、「原爆」で壊滅していたので、他に行く所も無かったのである。

私達は、親戚の家の一角に、どうにか住まわせてもらったが、その後、母は力仕事でも何でもやって、歯を食いしばって、私を育ててくれた。


私は、母は本当に凄いと思うのは、どんな過酷な状況でも、絶対に笑顔を絶やさず、

「何とかなるわよ」

と言って、私を元気付けてくれた事である。

母は、私の前では決して泣かなかったし、私はいつも、母に守ってもらっているのを感じていた。

しかし、私が寝静まった後、毎晩のように、母がそっと涙を流していた事を、私は知っていた。

母の頬には、涙の跡が有ったが、私は何も言わなかった。


私も、靴磨きだろうと、廃品回収だろうと、出来る仕事は何でもやって、母を支えた。

その頃、終戦直後の日本には、両親を亡くした「戦災孤児」や「浮浪児」も沢山居たのだから、こうして母が生きてくれているだけで、私は充分に幸せだった。


母が仕事で家に居ない時、私は、母が歌ってくれた、あの名もなき「子守唄」を歌い、寂しさを紛らわせていた。

そして、辛い事ばかりだった私達に、遂に「歓喜の時」がやって来た。



<第6章・『再会』>


1949(昭和24)年、私が10歳の頃、日本とソ連はようやく「国交」を回復し、少しずつ、ソ連の捕虜となっていた日本兵が「帰還」するようになっていた。


そして、この年(1949年)の秋、何と、私の父が日本に帰って来たのである。

「ただいま!!」

ある日、私達が住んでいたバラックの扉を開け、突然、父が帰って来た。


その時の母の様子は、忘れられない。


最初、母は「夢でも見ているのか…」といった、半信半疑の様子だったが、我に返ると、父に駆け寄った。

「脩さん!!」

母は、父に抱き着き、2人は暫く、固く抱き合っていた。

それまで、私の前では決して泣かなかった母が今、喜びのあまり、大泣きしていた。

「妙子、元気だったか?」

父は、私の記憶に残っていた頃より、だいぶ痩せていたが、飛びっきりの笑顔であった。


「博(ひろし)か?…お前、大きくなったなあ…」

父は私の姿を見ると、とても嬉しそうだった。

「うん…」

私は、懐かしさと照れ臭さと、何とも言えない気持ちで、胸がいっぱいになり、それ以上は何も言えなかった。

こうして、私達は実に6年振りに「再会」を果たした。


「…脩さん、どうしてここがわかったの?」

やがて、少し落ち着きを取り戻し、母は父にそう聞いていたが、

「なーに。野生の勘ってやつかな」

と、父は言っていた。

きっと、父はあらゆる伝手を使って、私達の居所を探し当ててくれたのであろう。


「脩さん、でも敏子は…」

母は、父が出征した後に生まれた、私の妹の事を父に告げた。

妹を、泣く泣く中国人の夫婦に預けた事を知り、父は表情を曇らせたが、

「とにかく、こうやってまた会えたんだから、良かったよ…」

と、言ってくれた。


ともかく、父が帰って来た事により、ようやく、私達の家族に、本当の「戦後」がやって来たような気がした。



<第7章・『早稲田へ』>


その後、父は、学生時代の友人の伝手で、鉄工所に勤める事となり、私達家族の暮らしも、ようやく安定した。

私は、中学を出た後、定時制の高校に通い、高校を出た後は、小さな印刷工場に勤めていた。


だが、実は私は、本を読む事が好きであり、

「もっと勉強してみたい」

という気持ちを抑えられなくなっていた。


そして、私は父に、

「お父さん、僕は大学に行きたいんだ…。早稲田大学に」

と、伝えた。

私は、早稲田で「文学」を勉強したいと思っており、その気持ちを父に伝えた。


すると、父は私の言葉を聞き、ニヤリと笑った。

「…どうしたの?」

私が不思議に思い、父に聞くと、父は、

「昔、お前と同じ言葉を、俺も親父に言った事を思い出したんだよ」

と言った。

そう、私は父と同じ大学…早稲田に行きたいと思っていた。

ちなみに、大連で一時、はぐれてしまった父の両親は無事で、今は高松の本家に戻り、余生を送っていた。


「早稲田は難しいぞ…まあ、頑張れ。迷ったら、ゴーだ」

父はそう言って、私の背中を押してくれたが、その言葉を聞き、母も笑っていた。

「迷ったら、ゴー」

という言葉は、私も母も、耳にタコが出来るぐらい、聞いていたからである。

そして、私は「2浪」の末に、1960(昭和35)年、早稲田の第二文学部に入った。

その頃の早稲田には、第二文学部、第二法学部、第二政経学部…といった「夜学」が有ったが、私も働きながら、早稲田の「夜学」である第二文学部に通う事にした。


私は、学費の足しになるように、昼間は、ある喫茶店でアルバイトをしていた。

その喫茶店で、私は恵梨というウエイトレスの子と知り合ったが、彼女はとても本好きで、何故か、初めて逢った時から、私と恵梨は気が合っていた。


そして、私が大学に入った年…1960(昭和35)年秋に、早稲田と慶応が優勝をかけて早慶戦で6度も続けて戦った、

「早慶6連戦」

という伝説の戦いが有ったが、その時、私は恵梨を両親に引き合わせた。


「お父さん、お母さん、今度、早慶戦を見に行こうよ」

私は、両親を、その時の早慶戦に誘い、神宮球場のスタンドに「招待」した。


父は、かつて早慶戦に出場した事も有る、早稲田の選手だったが、スタンドで早慶戦を見るのは初めてだという。

また、あまり野球に興味が無かった母も、早慶戦を見に来るのは、初めてあり、超満員の早慶戦の観客席を見て、目を丸くして驚いていた。


だが、それよりも、もっと両親を驚かせたのは、

「お父さん、お母さん、僕の彼女を紹介するよ…」

と言って、恵梨を紹介した事である。

実は、彼女を両親に引き合わせようとして、私はあらかじめ、彼女をここに連れて来ていた。


「…あんたも、隅におけないわね」

母は苦笑いしていたが、私は両親に、

「まあ、迷ったらゴーだよ」

と言うと、両親は笑っていたが、恵梨は、きょとんとしていた。


そして、私は早稲田で4年間、「文学」を勉強した後、某新聞社へと就職した。



<第8章・『季節は過ぎて』>


私は、大学卒業後、某新聞社に勤める事となったが、それと同時に、恵梨と結婚した。

言い忘れたが、恵梨は私と「同い年」である。


そして、結婚してすぐ、長男の修久が誕生した。

私の両親にとっては、待望の「初孫」である。


勿論、両親はとても喜んでくれた。

だが、両親や私にとって、片時も忘れられなかったのは、満州で「生き別れ」になった、私の妹・敏子の事である。


戦後の中国は、「激動の時代」であった。


1966(昭和41)年、それまで政治の部隊の第一線から退いていた毛沢東が突如、権力の座への復権を狙い、「文化大革命」を引き起こして、劉少奇を追い落としたり、

1972(昭和47)年、日本の田中角栄首相が中国に渡り、「日中国交正常化」を成し遂げたりと、様々なニュースが有った。


そんな中国のニュースを見る度、私の両親は食い入るようにテレビのニュースを見ていた。

「何処かに、敏子が映っていないか…」

と、藁にもすがる思いだったに違いない。

しかし、なかなか敏子の手がかりは掴めなかった。


だが、それから数年後、遂に私達は、敏子と奇跡の「再会」を果たした。


「ちょっと、すぐにテレビを見て!!あれ敏子じゃない!?」

1981(昭和56)年のある日、突如、私の家に母から電話がかかって来た。


その頃、戦争により、肉親と生き別れになってしまった「中国残留孤児」の帰国事業が大々的に行われていた。

「中国残留孤児」は、日本に居ると思しき肉親の行方を捜し、日本に来ていたが、その時、テレビに映し出されていた、1人の女性が、2枚の写真を、テレビカメラに向かって、見せていた。


それは、1枚目が私の両親と、幼い頃の私が写った写真、そして、2枚目が、私の母と私、そして生まれたばかりの妹の3人で写っている写真だった。

「私を育ててくれた、中国のお父さんとお母さんから、この写真を見せてもらいました…」

その女性は、そう語っていた。


そう、間違いなく、それは、私の妹の敏子であった。


両親と私は、すぐに、彼女が居るという成田空港へ飛んで行った。


両親と私の顔を見るなり、その女性は、私達に抱き着いて来た。

「お父さん、お母さん、お兄さん…」

後は、言葉にならない。

私達は皆、大泣きしてしまった。

あの日、生き別れになって以来、36年の時を経て、私達4人の家族は、遂に顔を揃えたのだった。


父は、敏子に会うのは初めてだったが、遂に愛娘に会う事が出来て、感涙に咽んでいた。


「敏子…。会いたかったわ…」

母は泣き腫らした目で、そう言った。


なお、敏子は既に劉さんという中国人の男性と結婚し、2人の子供(※男の子と女の子)を生んでいた。

つまり、両親に、また2人の孫が増えたという事である。


その夜、私達は、いつまでもいつまでも、語り明かしたというのは、言うまでもない。



<終章・『旅路の果てに』>


こうして、私達4人の家族の、長い長い旅路は、ようやく終わった。


「博(ひろし)、お前が、家族の物語を書いてくれ」

私は父・脩にそう頼まれたが、母・妙子と、妹・敏子も、その考えに賛同していた。

こうして、私は3人が書いた「手記」と、私自身が書いた「手記」を元に、私達4人の家族が辿って来た「旅路」を、物語として綴る事となった。


もう、おわかりだろう。

此処まで、私が書いていた「4つの手記」に基づく物語とは、他ならぬ、私自身…妙子と脩という夫婦の間に生まれた長男である、私が書いた物語である。

私は、私の両親と、妹の敏子、そして私自身という、4人家族の物語を綴って来た。

そして、此処にそれが「完結」する事となった。


「色々有ったけど、まためぐり逢えて良かったわ…」

ある時、母が、私達の気持ちを代弁し、そう言っていた。

どんなに長い夜でも、決して明けない夜は無い。

私は、これまで私達家族が辿って来た道を思い起こし、そう実感していた。

「本当にそうだね…」

私がそう答えると、母は微笑んでいた。


「またひとつ、夜が明けて…」

私は、幼い頃から母に歌ってもらった、あの子守唄を口ずさんでいた。

そして、万感の思いを込めて、家族の物語を書き上げたのであった…。



(【サザンの楽曲「勝手に小説化シリーズ」~「戦争4部作・『妙子と脩の物語』」・完)



(※『JOURNEY』完全版は、↓こちら)

https://note.com/sas_hosei_2026/n/n938ec4ceb43f

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