不死者による常闇迷宮五階層、月下温泉宿経営録
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第1話 人類未踏の地を踏んだ冒険者の末路
常闇迷宮がいつから存在するのか、それは歴史のどこにも残されていない。どれほどの深さを持つのかも、無論、誰一人として知る由はなかった。最初の一階層でさえ、その全貌はいまだ解明されていない。冒険者たちは、各階層の最奥に設置された「階層鏡」と呼ばれる鏡を潜ることで、次の階層へと足を進めていく。アルドもまた、幾多の死地をその鏡越しに乗り越え、ついに十一階層の鏡を潜り抜けていた。それでも、十一階層に踏み込んだ人間は、有史以来アルド・ヴェインただ一人だった。
その事実を、当のアルド自身は特に誇るつもりもなかった。誰かに褒められるためにここまで来たわけではない。ただ、他にやることがなかっただけだ。冒険者として生きるということは、彼にとって選択というよりも、消去法の末に残った唯一の道だった。生まれてこの方、これといった才覚に恵まれたわけでもない。ただ、生き延びるための執念と、常に冷静さを失わない自制心だけは、誰よりも強く持ち合わせていた自覚がある。
孤児院を出た十五の頃、剣一本を頼りに単身で冒険者ギルドの門を叩いた。最初の数年は、雑用同然の依頼をこなす日々。荷運び、薬草採取、村外れに棲みついた小さな魔物の駆除。地味で報われることの少ない仕事の連続だったが、アルドは腐ることなく淡々とこなし続けた。派手さこそなかったが、その堅実な仕事ぶりはやがて周囲の目に留まるようになり、少しずつ格上の依頼が回ってくるようになっていった。二十代の後半には、既にB級冒険者としての地位を確立していた。パーティを組んでいた時期もある。だが、ある任務で、自分以外の仲間全員を目の前で失ってしまった日から、アルドは何かが決定的に変わってしまった。庇いきれなかった、助けられなかった、そんな後悔が骨の髄まで染み込んで、二度と誰かをパーティに誘うことができなくなった。それ以来、依頼を遂行する上で必要な最低限のやり取りを除けば、他者と深く関わりを持つこと自体を、無意識のうちに避けるようになっていた。
それから十数年、アルドは単独行動を貫いてきた。誰かと組めば強くなれることは分かっている。それでも、また誰かを失うくらいなら、自分一人で完結する生き方を選んだ。その頑なさが、結果としてA級という個人としては破格の地位にまで彼を押し上げることになったのは、ある種の皮肉だったのかもしれない。
十一階層の空気は、それまでの階層とは明らかに異質だった。肌に纏わりつくような重い魔力、耳の奥で微かに響く低い唸り。何より、足元に広がる光景そのものが、これまでの階層とはまるで違っていた。土や岩肌がむき出しだったそれまでの通路とは打って変わり、緻密に敷き詰められた石畳が、奥へ奥へと続いている。踏み込んだ瞬間から、アルドの経験と勘のすべてが、ここが危険域であることを告げていた。それでも足を止めなかったのは、A級冒険者としての矜持と、誰も見たことのない景色を自分の目で見てみたいという冒険者としての根源的な衝動があったからだ。
松明も要らないほど淡く発光する苔むした石壁を横目に、アルドは足音を殺して歩いていた。四十を越えた身体は、若い頃のように無闇に飛び回ることこそできなくなっていたが、その分だけ死線をくぐり抜けてきた回数だけは誰にも負けない自負がある。腰に佩いた剣は、幾多の激戦をくぐり抜けてなお刃こぼれ一つない業物で、これまでの人生でただ一つ金に糸目をつけずに手に入れた宝物だった。
「……静かすぎるな」
独り言が癖になったのは、いつからだったろうか。天涯孤独の戦災孤児として孤児院を出てから、身内と呼べる者を持ったことは一度もない。誰かに何かを背負わせるくらいなら、自分一人で背負うほうが、余程性に合っていた。それが、彼なりの生き方の哲学だった。
その考えが、今日という日に限って命取りになるとは、この時のアルドはまだ知る由もなかった。
岩の陰から滲み出るように、それは現れた。ちょうどアルドと入口の間、一本道のこの通路を完全に塞ぐ位置に。
人の形をしてはいる。だが纏う気配が、これまで相対してきたどの魔物とも根本から違う。空気そのものが重くなり、アルドの背筋を冷たい汗が伝う。A級冒険者として世界中の死地を渡り歩いてきた男の直感が、警鐘という生易しい言葉では到底足りないほど、激しく鳴り響いていた。
――退路は、ない。
一瞬でそう判断した。振り返ったところで、目の前の相手との距離を保ったまま走り抜けられる道理がない。腰の鞄には、いざという時のための転移のコインが忍ばせてある。迷宮の第一階層に必ず産出する帰響石を加工して作られる、地上への生還だけを目的とした一回限りの消費アイテムだ。どの迷宮であれ、何故かこの石だけは第一階層に必ず存在する。それ故に、迷宮に挑む冒険者にとって、まずこの帰響石の獲得こそが最初の目標となる。使用者のほんの僅かな魔力を糧に発動し、問答無用で地上まで送り返してくれる、冒険者にとっての最後の命綱だった。生成加工するための費用はかかるが、一般的な冒険者ならば必要な経費と判断できる金額である。だが、今この場でそれへ手を伸ばす愚は犯さなかった。無駄に動いてこの得体の知れない相手を刺激するよりも、まず状況を見極める方が先だ。長年培った冷静さが、辛うじてアルドの足を止めさせていた。
「ほう。逃げようともしないか。無駄と悟ったか、それとも、それだけの肝があるということか」
声に嘲りの色は一切なかった。むしろそこにあったのは、対等な相手に向けるような、率直な敬意だった。漆黒の外套の下から覗く瞳は金色に輝き、額には二本の角。魔族――それも、アルドがこれまで戦ってきたどの個体とも比較にならない、桁違いの存在感を放つ一体だった。
死ぬつもりなど、微塵もなかった。だが、逃げ場がない以上、選べる道は多くない。ならばせめて、この未踏の階層に巣食う強者の情報を、一片なりとも持ち帰ろう。斬り結びながらでもこの魔族の強さの片鱗を見極め、必ず生きてこの目で見たものを持ち帰る。それがアルドにできる、最後まで諦めない冒険者としての仕事だと、腹を括った。
――ただし、コインを使う瞬間だけは、絶対に見誤るな。
自分自身にそう強く言い聞かせる。生き延びる目がある限り、それを最後まで捨てはしない。だからこそ、逃げの一手を切るタイミングだけは、冷静に、慎重に見極め続ける。それが、これまでアルドを幾度となく生かしてきた鉄則だった。
剣を抜いた。
「往くぞ」
踏み込みは、自分でも驚くほど速かった。剣先が魔族の喉元を掠める――はずだった。だが、当たらない。存在ごと“ずれた”ような、不可解な回避だった。
「見事だ。人でありながら、その領域まで至るとはな」
賞賛を口にしながら軽く放たれた拳が、アルドの右腕を粉砕した。骨の砕ける鈍い音が階層に響き渡る。だが、それでもアルドが撤退の二文字を頭に浮かべることはなかった。A級という位階まで至った冒険者にとって、腕の一本や二本を折られる程度の負傷は、致命傷にすら数えられない。並の人間であれば戦闘不能に陥るはずのこの一撃も、常人離れした頑健な肉体と絶え間なく巡り続ける魔力によって、治療の手を一切加えずとも戦いながら勝手に接合されていく。実際、粉砕されたはずの右腕は、痛みこそ消えないものの、瞬く間に元通りの可動域を取り戻しつつあった。人の身でありながら、既にどこか人外の域に片足を踏み入れている――それが、アルド・ヴェインという冒険者の正体だった。
それでもアルドは怯まず、左手だけで剣を握り直し、痛みを奥歯で噛み殺しながら斬りかかった。右足に喰らった蹴りで骨が軋み、視界が白く点滅する。だが、この程度の損傷も、瞬く間に薄れていく感覚があった。それでも止まらない。情報を、少しでも多く。今この瞬間の攻防そのものが、いずれ誰かの命を救う糧になるはずだと、己に言い聞かせながら。
何合、斬り結んだだろうか。呼吸は乱れていく。だが、右腕の痛みは既にほとんど引いていた。それでも、際限なく浴び続ける一撃一撃の重さは、自然回復の速度をも上回り始めていた。全身から流れる血が石畳を黒く濡らしていく。それでも剣を振るうたびに石畳が抉れ、壁の一部が崩れ落ちる。目の前で繰り広げられる破壊の規模に、アルドは背筋の凍る思いがした――このままでは、階層そのものが崩落しかねない、と。
もっとも、それはあくまでアルドの目に映った光景に過ぎない。深層の迷宮そのものは、これしきの衝撃で崩れるほど脆弱には作られていなかった。むしろ、この階層より深くに横たわる空間は、強者同士の激突にも耐えうるよう迷宮そのものの成り立ちに組み込まれた頑健さを備えている。魔族と人間、双方の実力者が真っ向からぶつかり合う――そうした激突をこそ受け止めるための土台が、この場には最初から用意されていたのだ。事実、崩れ落ちた壁の欠片や抉れた石畳は、周囲一帯に被害が広がるよりも早くその場に踏みとどまっていた。荒々しく見えるやり取りの中にも、破壊が際限なく拡散しないだけの均衡が、確かに保たれていたのである。
魔族の側にも、静かな昂りが生まれていた。これほどの死地を単身でくぐり抜けてきた人間と刃を交える機会など、悠久の時を生きる魔族にとってすら滅多にない。敬意が、いつしか純粋な戦意へと形を変えていく。抑えていたはずの力の均衡が、僅かずつ、しかし確実に崩れ始めていた。
「よくぞここまで保たせた。称えよう、人間」
その言葉と共に、魔族の輪郭が揺らいだ。人の形を保っていた輪郭が弾け、漆黒の体毛に覆われた巨躯が現れる。獅子の獣人としての本来の姿――全身から立ち上る圧力は、それまでとは比較にすらならなかった。骨の髄まで凍りつくような恐怖が、初めてアルドの背筋を這い上がる。これまで幾多の死地をくぐり抜けてきた男の本能が、はっきりと告げていた。この化物には、逆立ちしても勝てない、と。だが、その恐怖に呑まれて足を止めることだけはしなかった。震えそうになる手を、意志の力だけで押し留める。その姿を目にした瞬間、アルドの中で警報にも似た確信が走った。
――今だ。ここが、コインを使う瞬間だ。
命と引き換えにしてまで得るべき情報など、そもそもあり得ない。ここが引き際だ。冷静に見極め続けてきた判断が、ようやく答えを出した。震える指を懐へと走らせ、素早くコインを取り出そうとする。判断そのものに、迷いも遅れもなかった。
だが、間に合わなかった。
昂った戦意によって加速したその一撃は、既に人間の反応速度で捉えられる範疇を超えていた。アルドが動くよりも早く、巨大な爪が振り下ろされる。
その一撃が、アルドの胸を貫いた。心臓を穿たれる感触は、痛みというよりも、途方もない静寂として全身に広がっていく。
――ああ、決断自体は、遅くなかったはずなんだがな。
不思議と、恐怖も後悔もなかった。ただ、これまでの人生の断片が、走馬灯のように脳裏を過ぎる。孤児院での日々、初めて剣を握った時の高揚、幾人もの仲間との出会いと別れ。誰の記憶にも深く残ることのないまま消えていく自分の人生を、アルドはどこか他人事のように眺めていた。
視界が完全に暗転する。最後に聞こえたのは、明らかな動揺と、深い悔恨の滲んだ魔族の呟きだった。
「……済まぬ」
そうして、A級冒険者アルド・ヴェインは、人類未到の十一階層にて絶命した。誰に看取られることもなく、誰に悼まれることもなく。ただ、迷宮の冷たい石畳の上に、その骸だけが静かに残された。逃げるべきか、戦うべきか、コインを使うべきか――その全ての判断において、アルドは最後まで一切見誤ることはなかった。それでもなお命を落としたという事実だけが、この一戦の実力差の大きさを、何よりも雄弁に物語っていた。
だが、これは終わりの物語ではない。
むしろ、ここから始まる物語だった。
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