第27話 書かずに憶える

 水曜の朝、珠緒は控帳を全部出した。


 六年ぶん、二十九冊ある。作業台に並べきれないので、床に二列にした。倉庫の床は掃いていなかった。灯が掃かないと、二日で埃が目に見える。


 轡田は十時に来て、床の帳面を見て、何も言わずに机へ行った。


 珠緒は自分が記録係になってからの分から始めた。四年前の四月、最初の一冊。表紙をめくり、頁を繰る。


 作業員の欄がある。控帳の右上に小さく刷ってあって、そこに名前を書く決まりだった。


 四年前四月十二日、沖端町。作業員、藤代。


 書いてある。


 四月二十日、東雲町しののめちょう。作業員、藤代。


 書いてある。


 珠緒は指で追いながら繰った。五月、六月、七月。全部書いてある。彼女の字で、同じ大きさで書いてある。


 安心しかけて、彼女はその安心を止めた。


 名前が書いてあることと、記述があることは違う。


 珠緒は繰り直した。今度は本文のほうを読んだ。


 工程の記述。定着何時開始、写し取り何時、地片の種類、着床何時。依頼主の言葉。像の内容。


 灯が出てこない。


 出てこないのではない。工程の主語が省かれている。「定着開始」「写し取り、十四時二十分」「素手にて実施」。誰が、が書かれていない。


 珠緒は四年ぶんを二時間で繰った。


 灯が主語になっている文が、四年間で十一か所しかなかった。


 そのうち九か所は、灯が普通と違うことをした日だった。網代の件で分けずに運んだ日。手が四分動かなかった日。桐生ノブに憶えていますかと問うた日。


 残り二か所は、彼が怪我をした日だった。


「そんなはずが、ないです」


 珠緒は声に出した。誰にも言っていない。轡田は伝票をめくっている。


 彼女は書いた記憶を確かめた。六年前の七月一日、深津千代の着床の日。あの日の控帳は前任者が書いている。彼女は営業補助だった。前任者の頁を開いた。


 作業員、藤代。工程、瓦を地片として実施。着床十三時四十分。


 灯が軍手を外したことは、書かれていない。


 珠緒は憶えている。灯は途中で軍手を外した。外して、瓦を素手で持った。深津千代の家のカーテンは閉まっていた。それも書かれていない。


 書かれていないのは当然だった。前任者はそれを重要だと思わなかった。


 けれど珠緒は、自分の書いた四年ぶんを見ている。彼女はすべてを重要だと思う。すべて書く。それが彼女の仕事だった。


 なのに、灯だけが書かれていない。


 彼女は自分の私物のノートを開いた。九月五日から書き始めた二十一頁。


 読み返した。


 藤代さんが言った、藤代さんが訊いた、藤代さんが掘った。名前は何度も出てくる。出てくるのに、何をどう言ったかが、住民の言葉ほど細かく書かれていない。間宮の三秒は書いてある。岸の弟の名前は書いてある。轡田の台詞は一字一句書いてある。


 灯の台詞だけ、要約されている。


 珠緒はノートを閉じた。


「社長」


 轡田が顔を上げた。


「四年間、私は藤代さんのことを書いていません」


「そうか」


「書いたつもりでいました」


「そうだろうな」


「なぜですか」


 轡田は伝票を置いた。


「書けんのだ」


「書けない」


「あいつのことを書こうとすると、手が別のことを書く」轡田は言った。「わしもそうだ。二十年、そうだ」


「気づいていて、放っていたんですか」


「放ってはおらん。書けんものは書けん」


 珠緒は床の帳面を見た。二十九冊が二列に並んでいる。四年分に、灯は十一回しかいない。


 彼女は膝をついて、いちばん近い一冊を閉じた。それから、次を閉じた。順に閉じていった。閉じながら、考えていた。


 書けないなら、書かなければいい。


 彼女はこれまで、憶えていることの意味を、書くことに預けてきた。書けば残る。書かなければなかったことになる。六年前にそう決めた。深津千代の電話が同意書に負けた日に、そう決めた。


 けれど、灯は書けない。


 書けないものは、なかったことになるのか。


 珠緒は帳面を全部棚へ戻した。背表紙の位置を指で揃えた。揃えてから、揃える必要がないことに気づいた。誰も見ない。


 彼女は作業台の前に立ち、私物のノートを鞄へしまった。ペンを胸ポケットに戻した。


 そして、目を閉じた。


 閉じてから、口に出した。


「藤代灯。二十八歳。作業員。勤続六年」


 轡田が顔を上げた気配があった。珠緒は続けた。


「身長は私より十五センチ高い。痩せている。手は大きい。指が長い。爪が短い。荷を扱うときだけ手つきが速い。人と話すときは半歩下がる。名乗るとき二度言う。藤代です、残響引越センターの藤代です、と言う」


 言いながら、順番を作った。外から内へ。見えるものから、聞いたものへ。


「敬語が抜けない。たぶん、かもしれません、を挟む。断定しない。質問には事実だけ答える。感想を言わない。すみませんと言う回数が多い。謝らないでよ、と桐生さんに言われた。八月二十九日に手が四分動かなかった。鶴代川の荷を着床させたあとだった。数えたのは私だ」


 轡田は何も言わなかった。


「軍手を後ろのポケットに差す。使うかどうかは見てから決めると言う。荷があるときは坂の急なほうを通らない。傘を持っていても、持っていないように見える」


 珠緒は目を開けた。


 作業台の木目に節が一つあって、そこだけ色が濃い。灯はいつも、そこに手をついていた。


 彼女はノートを出さなかった。


「毎朝やります」珠緒は言った。「起きてすぐと、寝る前です」


「書かんのか」轡田が訊いた。


「書きません」


「書いたほうが確実だろう」


「書いたら、頭が手放します」珠緒は言った。「私は六年間、書くことで安心してきました。安心した分だけ、たぶん、手放してきました」


 轡田は伝票を持ち上げ、そのまま持っていた。


「書かずに憶えるのは、初めてです」珠緒は言った。「やったことがないので、保つかどうか分かりません」


 彼女は倉庫のシャッターのほうを見た。腰の高さではなく、胸まで上がったままになっている。二日、そのままだった。


「でも、書けないものを残すには、それしかありません」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る