第6話 黒パン
目を覚ますと、天井があった。
丸太を組んだ低い天井に、藁が挟んである。煙のにおいがした。薪と、獣の脂のにおい。体の下は硬い筵で、背中が痛んだ。起き上がろうとすると、腕に力が入らなかった。喉の奥が、ひび割れたように痛い。
最後に覚えているのは、地面の冷たさだった。あとは何も無い。誰かに担がれた覚えもない。潰れた手を、目の前に持ち上げてみる。傷は増えていない。誰かがここまで運んだのだろう。
部屋の隅に囲炉裏があった。火のそばに、あの棍棒を握っていた男が座っている。膝の上の両手を、じっと見つめている。指の節が白くなるほど、握り込んでいた。土間の隅に、その棍棒が立てかけてあった。黒く乾いた汚れがこびりついている。母親らしい女は鍋をかき回したまま、振り向かなかった。肩が、時おり細かく震えていた。
家の中には、ほとんど何も無かった。壺が二つ、干した草の束が一つ。壁の隙間から、外の物音がかすかに漏れてくる。誰かの足音、低く抑えた話し声。村の朝は、いつもよりずっと静かだった。
父親の頬に、乾いた泥がこびりついていた。拭う様子もない。目だけが、囲炉裏の火をじっと追っていた。
物音に気づいたのか、戸口から少女が入ってきた。手に欠けた椀を持っている。ルドの前にしゃがみ込み、黙って差し出してきた。
受け取って、飲んだ。ぬるい水が喉に染みた。
少女は椀を置くと、今度は黒い塊を差し出した。硬いパンだった。手のひらの上でひび割れている。
「食べて」
小さな声だった。少女の目は赤く腫れていた。ルドは受け取って、齧った。硬くて、味がほとんどしない。それでも噛むほど、固まりが胃へ落ちていった。腹の中が、少しだけ温かくなった気がした。久しぶりの食事だと思い出した。
少女は何も言わず、椀を抱えたまま床に座り込んだ。ルドの顔を見ようとしなかった。
しばらく、囲炉裏の火が爆ぜる音だけがした。
父親が、ようやく口を開いた。
「あんたのおかげで、娘は無事だった」
礼を言っているようにも、責めているようにも聞こえた。
「だが、もう終わりだ」
男の目が棍棒に向いた。
「屋敷の男を、二人殺した。黙っていても、じきに知れる」
ヴェルの姿が、囲炉裏の脇に見えた。何も言わず、腕を組んで男を見ている。
「村ごと、男爵とやり合う。話し合いで決まった」
家の外で、鶏が鳴いた。誰も答えない静けさの中に、その声だけが間の抜けて響いた。
母親の手が止まった。振り向かないまま、背中がこわばった。
「あんた」
母親の声が震えていた。それだけ言って、続きが出てこない。
ヴェルが口を開いた。誰にも聞こえない声だった。
「村ぐるみでやれば、皆殺しにする理由になる。よそ者ひとりの仕業にしておけば、村を潰す理由が立たなくなる。損得の話だ」
ルドは黙ったまま、動かなかった。
「それだけで十分だろう。感情ではなく、算段の問題だ」
ルドは父親の方へ向き直り、首を振った。
「やめろ」
「なぜだ」
「村ごとやったら、村ごと殺される」
父親の目つきが鋭くなった。
「だが黙っていても同じだ。じき知れる」
「知れる前に、おれがやる」
「意味が分からん」
男の声が荒くなった。棍棒を握る手に、また力がこもった。
「おれが、あの二人を殺したことにする。よそ者がやったことなら、村は関係ねえ」
父親が食い下がった。
「お前一人に、全部背負わせろというのか」
「おれは、もともと村の者じゃねえ」
「村の者全員が見ていた。黙っていられると思うか」
ヴェルが口を挟んだ。
「あの二人を殺したのは流れ者ひとりだと言え。村は止めようとした。そう言い張れば、村を潰す理由が無くなる」
ルドは即座に返した。
「殺したのは、おれだ。村は止めようとした。そう言え」
「なぜだ。おれたちのために、そこまでする理由が、あんたにあるのか」
「知らねえ」
ルドは、それ以上言葉が続かなかった。ただ、放っておけないと思っただけだった。
父親は口を閉じた。何か言い返そうとして、言葉が出てこない様子だった。母親が、初めてこちらを向いた。
「せめて、無事で」
それだけ言って、また顔を伏せた。少女も、床に座ったまま動かなかった。父親は棍棒を睨んだまま、しばらく黙っていた。荒い息が、少しずつ静まっていく。両手の震えは、まだ止まっていなかった。
「……あんた一人で、男爵の屋敷に行ってどうする気だ」
「行けば、なんとかなる」
言ってから、自分でもばかな答えだと思った。だが他に言えることがなかった。父親は目を伏せ、棍棒を、そっと壁に立てかけ直した。それが、答えだった。
「村長には、おれから話しておく。村長の倅だ、それくらいはできる」
ヴェルが小さく息を吐くような気配を見せた。
「馬鹿正直な男だ。だが、そういう手合いの方が、後で裏切らない」
ルドは筵から立ち上がった。足元がまだふらついたが、歩けた。戸口へ向かう。
少女が立ち上がり、水を満たしたルドの水袋と、黒いパンをもう一つ、無言で差し出してきた。道中の分だろう。ルドは水袋を肩にかけ、パンを懐へ入れた。それだけだった。少女は何か言いかけたが、結局、口を閉じたまま俯いた。名前は、訊かなかった。
ルドは棍棒を手に取った。赤黒い染みが、まだ乾ききっていなかった。それを持って、家を出た。
「その屋敷の場所は分かるのか」
ヴェルの声だった。ルドは足を止めずに答えた。
「あの丘の上だ」
村からの行き方なら知っていた。村外れの向こう、朝もやの中に丘が見えた。あれだ、とルドは思った。
背中で、父親の声がした。
「……すまない」
「いや、そのつもりだった」
ヴェルは少し気にするような顔をしたが、結局何も言わなかった。
柵を出るとき、井戸端に数人の女がいた。こちらを見て、口をつぐんだ。何か噂しているらしいが、声は聞こえなかった。誰も、声をかけてこなかった。老人が門のそばに座っていたはずの場所は、今は空だった。桶を提げた足音だけが、遠ざかっていった。
「歩いて一日はかかる距離だ。着く頃には、体力が残っているのか」
「そんときになったら、考える」
村を出たところで、脚に、昨日の疲れがまだ重く残っているのが分かった。足を止める理由にはならない。
土を踏んで、丘の方へ歩き出す。日はまだ低く、道の土は冷たいままだった。畑の畦が終わると、道は緩やかに登り始めた。丘の輪郭が、朝もやの向こうで少しずつはっきりしてくる。十年前、同じ屋敷を目指して、水が尽きて引き返したことがあった。今度は、引き返す気はなかった。
振り返らなかった。振り返れば、もう歩けなくなる気がした。
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