第3話 走る

 走った。

 道は一本しかない。現場から南へ、石だらけの斜面をなぞって下りていく。荷車が通れるように均してあり、身を隠す場所がない。それでも走った。足の方が先に決めていた。

 横に、ヴェルがいた。

 走っていない。歩いてもいない。ただ、ルドの横にいる。裾が揺れていなかった。


「この先を見てくれ」


 ルドは息の合間に言った。走ってもいない女なら、先の道くらい見てこられるだろうと思ったのだ。


「無理だ」

「なんでだ」

「行けないからだ」


 ヴェルの息は上がっていない。


「私はお前から一定より離れられないようだ。どれだけかは分からないが、遠くはない。犬をつなぐ縄より短いと思え。お前が行くところへ行き、お前が止まるところで止まる。哀れという言葉を知っているか」

「知らねえ。じゃあ、はぐれなくていいな」


 ヴェルが黙った。


「よかった。おれは道がわからない」


 そう言ってから、しばらく黙って走った。


「さっきの……あれは、何だったんだ」


 ルドは訊いた。


「お前の力が、あの男に効いた。それだけのことだ」


 ヴェルの声に、笑いが滲んでいた。ルドが驚くのを面白がっているようだった。


「触れていなければ、力は通らない。目を合わせて、声に出す。それだけの手間で、あの男を跪かせたのだ。安い買い物だろう」

「効くまで、どれくらいかかるんだ」

「すぐには来ない。それだけは言っておく」


 ルドはとにかく前へ足を進めた。


「あいつらはお前を捕らえに来るか? 捕まったらどうなる」


 だいぶ経ってから、ヴェルが訊いた。


「殺される。人夫を全部集めて、その前で」

「見せしめか。効くのか、それは」

「十年、逃げ切った奴はいない」


 それきり、ヴェルは何も言わなくなった。



 日が傾く前に、後ろから声が来た。

 振り向くと、坂の上に人影が並んでいた。五人いた。棒を持っている。人夫を追い立てるときに使う棒だ。一人だけ棒を持たず、胸に帳面を抱えていた。

 道はこの先で、涸れた沢を渡る。丸太を三本渡して、板を並べただけの橋だ。荷車が一台やっと通る幅で、渡れば平地に出そうだった。渡るまでは、どこへも逃げられない。


 ルドは走るのをやめた。


 先頭の男が坂を下りてくる。顔は知っている。名前は知らない。十年、同じ坑にいた。

 道は細い。先頭の一人が下がれば、後ろは詰まる。


「ヴェル、あれはまたできるのか」

「やってみろ」


 ヴェルが手を差し出した。

 ルドはその手を握った。冷たいのではない。冷たいなら分かる。温度が無かった。握り込もうとしても、掌の中の何かが先に膨らんで、指が根元まで閉じない。何度やっても同じだった。

 男と目が合った。


「押せ」


 男は走るのをやめなかった。


 一つ数えた。二つ数えた。あの時も、すぐには来なかった。だからルドは待った。

 十数えたが、何も起きない。

 棒が、来た。

 とっさに肩で受ける。骨が鳴った。二人目が横から入って、腹に棒の先が刺さった。膝が地面についた。背中を踏まれる。頬が土についた。目の前に誰かの靴があった。すり減った底に現場の赤い土が詰まっている。ルドの靴も同じだ。

 手は開かなかった。開かないだけで、何も起きなかった。


「おい、どういうことだ」


 ヴェルの声は落ち着いていた。


「血を引いていないのだろう。そいつに何度やっても同じだ。この力が届くのは、決まった家の血筋にだけだ。棒を持って人を追い回している男に、そんなものが流れているものか。言っておくが、お前にも効かんだろう」

「じゃあ、あいつらは、おれと同じか」

「そうだ」

「なら、話が早い」


 ルドは手を離した。

 立った。

 相手の足が浮き上がる。棒を掴んで、思いっきり引いた。男が前へつんのめった。そこへ拳を入れた。

 鼻の潰れる音がした。

 次の男の膝を蹴った。三人目が棒を振りかぶったので、下から入って顎を突き上げた。骨が手に響いた。

 十年、土を掘ってきた。掘るのは腕の仕事ではない。腰と背中の仕事だ。棒より重いものを毎日運んでいる。

 距離をとっていた他の男は動けずにいる。

 隙を見て、ルドは橋へ走った。



 板が鳴った。下は見なかった。水の音を探したが、聞こえなかった。渡った先は平地だった。低い草と、乾いた土しかない。走ったところで、背中はいつまでも見えている。

 振り返った。

 橋の向こうに男たちが出てきた。先頭が足を止めた。その後ろに、帳面の男が立っていた。

 追ってきたのではない。渡らずに、たもとから見ているのだ。こちらを見て、指を動かしていた。ルドはその男が何をしているのかまったくわからなかったが、ヴェルの手を握り直した。

 沢の幅は荷車一台分だ。この距離なら目が合うと思った。

 男もこちらを見ている。


「押せ」


 一つ、二つ。

 先頭の男が橋に足をかけた。

 三つ、四つ。

 板が鳴る。二人目が続く。

 五つ、六つ。

 間に合わない。


 七つ目で、届いた。


 男の目から、ルドが消えた。

 帳面が手から落ちた。落ちたのを見もしなかった。男は橋のたもとにしゃがみ、石の縁に載っている丸太の腹へ肩を入れた。

 押した。

 足で土を掻いて、横へ押した。指の先が擦り切れても、同じ速さで押し続けた。普段、丸太を押していない男の動きだった。

 丸太が縁から外れた。

 板が傾いだ。橋の上の二人が四つん這いになって戻る。向こう岸で誰かが怒鳴った。男は聞いていない。

 二本目に肩を入れた。

 三本目は、押す前に落ちた。

 板が先に落ちて、丸太が後から落ちた。帳面も一緒に落ちた。音が遅れて届いた。

 沢の底に、板と丸太が折り重なっていた。その上に、帳面が開いたまま載っている。すべて、たもとに残った男がやったことだった。

 向こう岸で、男が二人、縁から下を覗き込んでいた。下りる気だ。


「無駄だ」


 ヴェルが言った。


「あそこを下りて登り返すには縄が要る。持っていれば、とうに使っている。橋を落としたところで沢が消えるわけではないが、沢は上へ行けば浅くなる。あの辺りの土は昔から柔い。荷車は無理でも、人の足で渡れるところが必ずある」

「どれくらいだ」

「半日はいるだろうな」


 逃げ切ったのではなかった。

 半日、手に入れただけだ。

 ルドの手に入るものは、いつでもそのくらいだ。

 日が傾いていた。影が長くなっている。

 朝から何も飲んでいない。走っている間は忘れていた。止まったら舌が上顎に貼りついた。

 力が効くやつと、効かないやつがいる。分かったのはそれだけだった。

 どっちなのかは、やってみるまで分からない。


「これからどうする」


 ヴェルが訊いた。答えを持っている者の訊き方だった。

 ルドは平地の先を見た。低いところに、細い緑の筋が続いている。あれが草なら、下に水がある。

 無ければ、明日の朝にはルドの方が先に止まる。


「水だ」


 とにかく行くしかなかった。

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