第十七話 カタリ
雨上がりの朝、裏の繕いの場所で、ぱたりの吊り布が取れた。
ドロテアが結び目をほどく。そのあいだ、稽古の音は、やんでいた。
ぱたりの右腕が、ゆっくり持ち上がった。ひじが、曲がる。伸びる。骨の継ぎ目が、かた、と小さく鳴った。布が畳まれるころ、稽古の音が、また始まった。
指は、二本ぶん、欠けたままだ。それは戻らない。ぱたりは持ち上げた右腕をしばらく眺めて、それから左手で、腰の包みに一度だけ、触れた。確かめる手つきだった。誰も、何も言わなかった。
その日から、壁際の採点が、両腕になった。転びを見て、あごが動き、吊られていたほうの腕が、小さく振れる。稽古の連中は、転ぶたびに壁際を見る。ぱたり、いまの、どうだ。
繋がりたがるのが骨だとしても、それにしても、早かった。
飯はみんなと同じ椀で、仕事は軽くしたまま。条件は、何も変えていない。変わったものといえば、呼び名くらいだ。
呼び名のある骨は、直りが早い。直りが早いなら、休む日が減って、演目が回る。
——気がする、の域を出ない。比べる相手がいないし、数えた日も浅い。気のせいは、帳面に書かない。書かずに、数え続ける。理由の欄が埋まる日まで、いつもの棚に置いておく。
他の連中にも呼び名を、と考えかけて、やめた。生えてくるものを、上から配るのは、たぶん違う。もう少し、見る。
◇
夜前の裏は、繕い物の針の音がする。
ドロテアの膝の上に、誰かの上着。針の主の隣に、俺は座っていた。今日の数字を頭の中で並べ直す、いつもの時間だ。
「そういえばさ」
針を進めながら、ドロテアが言った。
「あんたのとこの帳簿係。いつも、語ります、って言うんだねえ」
「……ああ」
夜の集計の前置きだ。数えたものを、読み上げるのではなく、語る。いつからだったか思い出せないくらいには、いつもだ。
「数えるのが好きで、語るのも好きなんだ、あれは」
「ふうん」
針が、二針ぶん進んだ。
「呼び名はね、あると、忘れにくいのさ。——呼ぶほうが」
同じことを、前に俺も言った。壁際の白い骸骨に、名前を付けた夜だ。呼ぶ側が忘れないためのものでもある、と。骨たちに番号を書きなと勧めて回っていたこの人の、そのまた受け売りが、針の手元から、俺のところへ帰ってきた。
針が、また二針。
「で、あんたの名前は?」
不意打ちだった。
帳面の数字なら、すぐに出る。灯の数でも、客の数でも、今月の再訪の組数でもいい。名前は、出なかった。
毎晩、指折りで確かめている三つの、ひとつ目。ある。あるのに、出さなかった。あれは、呼ばれるための名前じゃない。
「——番号で、いい」
「ふうん」
ドロテアは、それ以上聞かなかった。針が進む。俺が立ち上がりかけたところで、針が止まった。
「じゃあ、こっちで決めるよ」
「は?」
「骨はカタカタ鳴るし、あんたは、うちの誰より語る。帳簿係の言い方を、借りるならさ」
ドロテアは針を持ったまま、こちらを見た。
「カタリ。あんた、カタリだ」
……語る者。
数える係の口癖から、勝手に生えた名前だった。
「いい名前だろ。覚えやすい」
ぱたりの名が生えたときと、同じなりゆきだった。
言い返す言葉を探しているうちに、ドロテアは針仕事に戻っていた。それ以上は、何も聞かれなかった。
聞かなかったくせに、そのあとの鼻歌は、少しだけ機嫌がよかった。
◇
翌日の昼には、もう広がっていた。名前というのは、噂より足が早い。出どころは、たぶん朝の飯場のドロテアだ。骨たちは、耳ざとい。
誰かが転ぶ。壁際のぱたりが採点する。その採点に、誰かが不服を鳴らす。裁定を求めて、連中はこちらへあごを向ける。
カタリ、いまの、どうだ。
あごが——俺のあごが、上がった。
上げたつもりは、なかった。呼ばれて、勝手に上がった。ぱたり、お前もこれか。番号では上がらないあごが、名前だと上がる。理屈は、まだ帳面のどこにも書いていない。ただ、呼ばれるたびに、骨の芯のあたりが、わずかにあたたまる——気がする。
これも、書かずに覚えておくやつだ。
考えてみれば、この洞窟で名前を持っているのは、声の出る連中ばかりだった。ドロテア。ピン。裏市場のグレテ。センパイは、別勘定だ。声のない骨は、番号で並んでいる。そこに、ぱたりと、カタリ。声のないほうの帳面が、下から埋まりはじめている。
◇
昼すぎには、ひよこの二人が来た。
いつもの追いかけっこの最中も、骨たちは呼び合っていた。転ぶたび、裁定のたび。ぱたり、いまの。カタリ、どうだ。
客には、聞こえない。正しくは、聞こえてはいる。かた、かた、という、骨の鳴る音として。
帰りぎわ、ミナが入口で首をかしげた。
「ねえ。ここの骨、なんか最近、よく鳴るね」
「にぎやかだよな。景気がいいのかな」
景気は、いい。そういうことにしておく。
音の中に名前が二つ増えたことを、客は知らない。知りようがない。俺たちの名前は、客には届かない。届かないまま、麓の酒場では、うちの話が椀に換わっている。あそこで語られているのは、「三ノ三の骨」だ。名前では、まだ、誰も語られていない。
……まだ、な。
気の早い宿題は、帳面の白いところに置いておく。
◇
夜、観測点の岩陰で、ピンが帳面を開いて待っていた。
ぱたりの行の、隣。白い場所に、数え棒の先が、もう置いてある。
「かいて、いいですか。……もう、みんな、よんでるので」
書いていいも何も、ないだろう。載る名前は、俺が決めるものじゃない。もう呼ばれているかどうか。それだけだ。
うなずくと、ピンは真剣な顔で、三文字を書いた。
かたり。
ぱたりの隣に、俺の行ができた。うちの側の名前が、これで二つになった。
「さてい、まで、あと、みっか、です」
聞いていないのに、ピンが言った。数える係は、こういうところがある。三日後、この帳面ごと、答え合わせだ。
その足で、壁際の窪みの前に立った。いつもの報告に、今日はひとつ、数字でないものが混ざった。
「客、ふたり。また来た顔、ひと組。足りない物——駆けつける脚が、ひとつ。……それと、名前を、もらった。カタリだそうだ。あんたに呼び名をつけた新入りが、こんどは、呼び名の後輩になった」
こつ、と。
今日は、待たされなかった。
白い骸骨は、壁際で動かないままだ。センパイの名前は、俺が上から勝手に付けた。ぱたりとカタリは、下から生えた。付け方は逆でも、並びは同じ壁際だ。そういう店も、あるだろう。
……よし。今日は、いい音の日だ。
岩陰では、ピンがまだ帳面を見ていた。書いたばかりの三文字の行を、乾いていくインクを、いつまでも。
載ったものは、消えない。
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