第六話 上は見ていませんよ
三ノ三の計測を始めて、ピンの帳面に新しいページが三つ重なった頃。俺は初めて、上司に呼び出された。
「区画長が、よんでます」
ピンがそう言って、洞窟の奥の、普段は誰も近寄らない一角を指差した。
区画長がいる、ということ自体は、ドロテアから聞いて知っていた。二十一の頭数のうち、俺がまだ一度も姿を見ていない、最後の一体でもある。「上」への挨拶は、いずれこちらから行くつもりだった。——先を、越された形である。
「区画長様は、悪い方じゃないよ」と、すれ違いざまにドロテアが小声で言った。「ただ、その……長く、やってるんだ」
長くやっている。その言い方に含まれるものを、俺は前の世界でいくつも見てきた気がする。
そこにいたのは、骨でも、ゾンビでも、ゴブリンでもなかった。
半透明の、外套のようなものが、宙に浮いていた。中身はない。袖の先に、ろうそくほどの淡い明かりがひとつ、ゆらりとともっている。外套の胸元に、ひもで提げた印がひとつ。見えているものの中では、それだけが、はっきりと実体を持っていた。
「骨番一一四、ですね」
声は、丁寧だった。丁寧で、疲れていた。
「区画長の、ヴォルクと申します。……あなたの話は、聞いています。人間を、笑わせているとか」
「営業活動です」
「それと。勝手に、係を、お作りになったとか」
一拍、冷えた。取り上げる気か——岩陰の帳面と、ぴんと立った耳が、頭をよぎった。
「帳簿係です。優秀ですよ」
「狭い区画です。なんでも、聞こえてくるのです」
袖の先の明かりが、ゆら、と揺れた。ため息の代わりらしい。
「……やめておきなさい」
来た。お小言だ。転生してまで聞くことになるとは思わなかったが、この流れは、前の世界で何百回も浴びた。だが続いた言葉は、思っていたのと少し違った。
「悪いことは言いません。目立たず、静かに、番をして、時が過ぎるのを待ちなさい。それがこの区画の、いちばん賢い過ごし方です」
「理由を聞いても?」
「何をしても、変わらないからです」
ヴォルクは、袖をゆるく持ち上げた。淡い明かりが、洞窟の天井をなぞる。
「この区画には、月に三灯が配られます」
トウ。初めて聞く単位だった。
「灯——というのは」
「マナの、勘定の単位です。マナは、この迷宮を動かしている……燃料の、ようなものです。結界を保つのも、傷んだ通路を直すのも、みなマナです。月に三灯。そのほとんどは、結界を保つだけで消えます。残るのは、ほんのわずかです」
三灯。手取り、ほぼゼロ。
「俺たちの給料は、その残りから?」
「いいえ。給料は中央から、別の勘定で出ます。……ご心配なく。あれは、減りません。あれ以上、減りようがありませんから」
言われてみれば、この洞窟の床は、傷んだままだ。最初の興行でわざと転んでみせた、あのつまずき石も、あの日のまま転がっている。直す燃料が、ないのだ。
給料四グリムの下に、もうひとつ貧乏な帳簿があったわけだ。この区画は、個人が貧乏なだけではなく、組織としても貧乏だった。天井の、いつかの明かりのことが少しだけ頭をかすめた。聞くのは、やめておいた。
「その三灯は、誰がどう決めてるんですか」
「査定です」
ヴォルクの声が、一段、平らになった。そらで覚えた声だ。何十回も、同じ説明をしてきた声。
「月にいちど、中央が全区画を査定します。項目は決まっています。挑戦者の数。撃退の率。客足の続き具合。……それらを勘定して、灯が配られます」
「その査定表、見られますか」
「見て、どうするのです」
「見ないと、何も始まらないので」
袖の明かりが、また揺れた。長い沈黙。それから、ヴォルクは静かに言った。
「……まもなく、月の査定が来ます。妙な数字の動きをすれば、上の目に留まらぬとも、限りません。だから今日、呼びました。——お見せします。見たことは、忘れなさい」
外套の内から、古い書き付けが一枚、差し出された。
受け取る。行が、四つ。行ごとに、点の重さが書いてある。テストの配点表みたいなものだ。どの行で点を稼げば、灯がもらえるかが、これで決まる。
……ん?
読み間違いかと思って、二度見た。
撃退の率。攻略者をどれだけ追い返したか。ダンジョンの強さそのものと言っていい行が——いちばん、軽い。
かわりに重いのは、「客がどれだけ来たか」と「客がどれだけ通い続けたか」。物騒な場所の点数表のはずが、上の二行だけ見れば、まるで店の帳面である。
そして、四行目。読めない文字の行が、ひとつ。ヴォルクが読み上げなかった行だ。字は読めなくても、横の点の重さは読める。——これが、いちばん重い。
「この、四つ目は」
「……分かりません。私が来るずっと前から、そう書いてあるだけです」
強さが、安い。客が、高い。分からないものが、いちばん高い。
前の世界で、俺は点数表というものを何度も作った。だから分かる。点のつけ方は、作り手のお願いだ。ここに点をあげるよ、というのは、こう遊んでほしいよ、というのと同じ意味になる。だとすれば、この表を作った誰かが迷宮に望んでいるのは、強さではない。
戦う場所のはずだ、ここは。魔王がいて、結界があって、骨が湧いて、攻略者と殺し合う場所のはずだ。なのにこの配点表は、まるで——
「妙だと、思うでしょう」
顔を上げると、ヴォルクの明かりが、じっとこちらを向いていた。
「なぜ撃退が軽いのか。考えたことは、ありますか」
俺が聞くより先に、ヴォルクが静かに言った。
「……昔は、私も、考えたことがありました」
考えたことも、ねえなあ——と裏市場帰りのゾンビは言った。この区画長は、違うらしい。考えたことが、ある。ある上で、今の声をしている。
「答えは、出たんですか」
「出ませんでした。出る前に、終わりました」
それ以上は語らず、ヴォルクは書き付けを、俺の手からそっと引き取った。
「いいですか、一一四。査定は変わりません。配点も変わりません。この区画が最下位なのも、変わりません。変わらないものを相手に、勝手なことをして、目立って、それで——」
言葉が、そこで一度、止まった。袖の明かりが、小さく縮んだ。
「……やめておきなさい。上は、見ていませんよ」
上は、見ていない。
頑張っても誰も見ていない、という意味だろう。この上司は、事なかれの顔をして、たったいま、部下に世界の配点表を見せてくれた。
「分かりました」
俺は、頭を下げた。角度は、いつもより少しだけ、浅く。
「控えめに、やります」
「控えめに、やめるのです」
「善処します」
前の世界から持ち込んだ語彙の中で、いちばん役に立つ言葉である。ヴォルクの明かりは、しばらくこちらを向いていたが、やがて、ゆらりと奥の暗がりへ戻っていった。去り際、岩陰のピンの帳面をちらりと見て——何も、言わなかった。
ヴォルクが去るなり、俺はまっすぐピンのところへ行き、帳面の隅に配点を写させてもらった。頭に置いておけるほど、俺の記憶が当てにならないことは、先日この帳面に教わったばかりだ。数字は数字で写し、読めなかった四つ目の項目は、字の形を指でなぞって書き写した。
ピンは俺のなぞり書きに顔を近づけ、耳を伏せた。
「……よめない、です。じが、へた」
現物は、ヴォルクの外套の中だ。四つ目の正体は、次の査定まで、お預けらしい。それでもピンは新しいページに線を引いた。数える物が増えるのは、この係にとっては、祭りであるらしい。
写し終えた配点に、うちの数字を当てはめてみる。客は、来ている。新人は、必ずここへ来る。だが——羽が生えたら、出ていくのだ。続かない。うちの客で続いているのは、ひよこの二人と、似顔絵の女くらいのものだ。
上は見ていない、とヴォルクは言った。
だが、この配点表を作った誰かは——何かを、見ている。攻略者を追い返すことではなく、攻略者が通い続けることに、灯を払っている。
強さに払わず、客に払う。
「……客商売、なのか?」
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