欲しがる俺のQ.E.D.番外編 ―今日から明日へ―
黒崎 優依音
第1話 罪と罰、嘘と青・上
締め付けられた、帯が苦しかった。
それが露呈したのだろう、手に持った扇子をぴしゃりと打ち付ける音が耳へと届いた。
びくりと肩が跳ねる。
それを咎めるように眉が寄せられた。
「家元の娘ともあろう人間が。
何ですかその姿勢は」
「……申し訳ございません」
茶席に蹲るように、頭を下げた。
畳の目を見つめる。
こうやって、何度見つめてきただろうか。
「……もうすぐ婚姻を結ぶと言うのに。
あなた、ちゃんと“片桐”の嫁が出来るのかしら」
見慣れたこの景色を見つめるのも、後少しだと思うと耐えられた。
純和風の、門構え。
茶室から覗くきれいに整えられた庭木が、父の自慢。
母の実家から仕入れられる、きれいな和菓子。
新緑の季節に合わせて青葉を模ったはずの練り切りが、まがい物の緑に見えた。
引き寄せた、きれいに立てられた抹茶を見つめる。
この緑も、どこか作り物のようで。
嚥下したお茶は相変わらず、苦い。
大学卒業まで、あと一年足らず。
卒業後は、決められた婚約者との結婚が決まっている。
このご時世で、自分の意思はどこにも存在していなかった。
ただ、決められた婚約者の子を産むことだけが求められる。
こちらに興味など微塵も持っていないのだろう、無表情に近い婚約者の顔を思い出した。
わたしは、何なのだろう?
ふっと、思考回路がそちらに寄ってしまったからだろうか。
もう一度、扇子が手を打つ音が聞こえた。
大学からの帰り道。
卒論で忙しいの、という言い訳を忙しい両親は疑いもしなかった。
実際は大して真剣に取り組んでいない。
卒業さえすればいいという思いで、“ゆるい”と評判のゼミを選んだ。
世間知らずのお嬢様と扱われることが、不満だった。
良家の子息の多く通うこの学校で、そういう遊びに誘う友人が出来るなど両親も思わなかったのだろう。
こっそりと、一人暮らしの友人の家で服を着替えて、彼女と夜の世界へと飛び出した。
超がつくほどのミニスカート。
厚底の、歩くのに慣れが必要なブーツ。
ストレートの髪は、そのまま結わずに後ろに流して。
空けられないピアスの代わりに、ピアスに見えるイヤリング。
露出の多いこの姿は、きっと親ですらわたしと気が付けない。
店のドアを開けると、そこは別世界だった。
インディーズバンドが、ノリよく楽曲を奏でる。
爆音で鳴らされるその音が、気持ちいい。
やがて、お気に入りのバンドが出てくる。
どこか世の中を捻くったような、彼らの歌う歌詞がお気に入りだった。
ボーカルが、関西のイントネーションでMCをする。
「あの人、面白いよね」
友人の言葉にこくりと、頷く。
「関西人ってだけで面白い気がする」
わたしの雑な纏めに、確かにねと彼女が笑った。
「でも、あのボーカル、前に関西弁突っ込まれて生まれも育ちも関東って言ってなかったっけ」
「そうなんだ?」
あはは、と笑いが零れ落ちた。
口を開けて、声を出して笑っても誰も咎めない。
彼の関西訛りも“まがい物”なのかと思うと、おかしかった。
一瞬だけ、ボーカルと目が合った気がした。
狭いライブハウスは、客席との距離も近い。
手を振ると、にこりと笑って振り返された。
サービスのつもりなのか何なのか、長い黒髪をかき上げて投げキッスまで寄越してくる。
かぁっと頬が熱くなるが、薄暗い独特のライトの下ではわからないだろう。
もう、と思いながらも楽しかった。
お酒を飲みながら友人と語り合っていると、セットで男性から声を掛けられた。
茶色い髪と、ほどよく着崩された服装。
軽い言葉と、近い距離感。
女慣れしてるその姿に、同じく男慣れしてる友人はすぐに隣を許す。
「ねぇ、どこかで飲み直そうよ」
「いいね、奢り?」
「もちろん」
友人のその距離感は、さすがに背伸びをしていてもマネできなかった。
もう一人の男が、わたしの髪に触れた。
「すげぇきれいな髪。
オレ、髪の長い女好き」
「ありがとう。
……実際は、結構面倒くさいんだよ」
ふぅん?と軽く返しながら、髪にキスをされた。
ちょっと、と思いつつも悪い気はしなかった。
「ねぇ、君も行こうよ」
行きたくないわけではないけれど、遅くなり過ぎることで両親に目を付けられるのが怖かった。
今のこの自由ですら、手放さないと行けなくなったらと思うと嫌だ。
きっと、結婚したら許されない。
今だけの間くらい、謳歌していたかった。
「ごめんね、親がうるさいの」
「親って、酒が飲める年なのに、おかしくね?」
するりと、腰に手が回された。
逃がさないと言うようなその手が、困るはずなのに嬉しかった。
「……そうなんだけどね。
本当にうるさいから、困ってる」
だいたいの男は、面倒な女に関わらないでおこうと、これくらいで離してくれた。
なのに、今日の彼は違った。
「なら、オレの家においでよ。
オレと、住む?」
さっき会ったばかりの人間に同棲を持ちかけてくることが、信じられない。
満足したら追い出される未来が見えて、離れようとしたところで逃げられない。
店のスタッフに声を掛けようかと思ったところで、別の声が掛けられた。
「何をしている?」
その声はどこかで聞いたことのあるような声だった。
振り返り、見つめて息を飲む。
「……なんだよ、お前」
男が、不快を隠すことなく睨んだ。
「……その子の、婚約者だ」
「あん?」
男が、確認するようにこちらを見てくる。
目が合わせられないまま、静かに頷いた。
「……んだよ、早く言えよ」
乱暴に手を離され、男は離れていく。
よろけたところに厚底靴が影響して、本当に転け掛ける。
まずい、と思ったところで婚約者がすっと手を伸ばした。
あまり派手な動作もなく、当たり前のように支えられる。
「……その靴で、よく歩けるな」
「……余計な、お世話」
ライブハウスに似つかわしくない、きっちりとした分けられた髪と、着崩しのない服装。
「……あなたこそ、何してるのよ」
彼は心外だと言わんばかりにため息を吐いた。
「ライブハウスでの目的は、音楽を楽しむ以外にあるのか?」
再び、爆音が流れる。
今度の曲は、どこか危うい色気があった。
女性ボーカルがねっとりと歌い上げるそれを、誘うようにギターとベースが走る。
刻まれるリズムとキーボードも絶妙だった。
ステージから視線を逸らし、もう一度目の前の男を見つめた。
彼はよく知っている無表情に近い真面目な顔のまま、指先だけでリズムを刻む。
あり得ないくらい、不釣り合いだった。
曲が終わったところで、ぐいっと手を引かれた。
驚く間もなく、出口へと連れて行かれる。
「帰るぞ」
ぱちりと瞬いた後、今の格好を思い出して背中に冷たい汗が流れた。
慌てて手を引っ張り、抵抗する。
「……あなた、真面目そうに見えてそういう目的?」
「帰ると言っただけだろう」
何が問題だと言うような声音。
「……わたし、本当に婚約者がいるの」
信じないでしょうけど、と言う目で見つめるが、彼の顔はその目一つ揺らがなかった。
「当たり前だろう。
先ほども、そう言ったはずだ」
表情一つ変えずに言ってのけるその姿が、信じられなかった。
「……あなた、わたしのこと……」
「……だから、最初からわかっている。
君は、十年以上も前から俺の婚約者だ」
タクシーに乗せられ、そのまま彼が実家の住所を伝えたところで慌てて場所を訂正した。
友人の家に、いつものように合鍵で入って着替えると、待っていてくれた彼と再び家へと戻る。
その日は、両親に咎められることはなかった。
夏休みに入ると、もっと気持ちは開放的になった。
ライブハウスへ行くことも増え、例のお気に入りのバンドが出るときには必ず聞きに行った。
その日も友人と二人、露出の増えた格好で音楽に身を委ねていた。
残された時間は、そんなに多くはない。
結納の日取りも、着物も、全て決まっていた。
短い爪を隠すように、ネイルチップを貼った指先がかわいい。
グラスを持つ手がちらちらと視界に入るたびに、嬉しくて頬が緩んだ。
「きれいやね」
突然横から掛けられた言葉に、肩が跳ねた。
関西の、イントネーション。
まさかと思って見つめると、先ほど歌っていたはずの彼が、サングラスを掛け、服装だけを少し変えたスタイルでそこに立っていた。
どきどきしながらも、周りをそっと見渡す。
ステージに夢中だからか、周りは誰も気が付いていない。
「……インディーズとはいえ、こんなところに来て大丈夫なの?」
ファンです、とか、会えて嬉しいです、よりも先に飛び出した言葉に自分で苦笑する。
素直じゃない性格が自分で嫌いだ。
「気が付いてない?
結構みんなやってるよ」
何でも無い風に言われると、そうなのかと思ってしまう。
「まぁ、普段はもっとバレないようにやるけど。
君に声掛けるなら、この方が効果的かと思ったんや」
悪びれもせずに言ってのける姿に、笑いが出た。
確かに、あのボーカルとわからなかったらもっと警戒しただろうから。
「女の子ナンパするときだけ、それ利用するんだ?」
言ってしまったら台無しでしょ、と笑うと、彼もその通り、と笑う。
言葉選びは関東寄りなのに、イントネーションだけが関西なのが、また笑えた。
「面白いね、そのしゃべり方」
「ほんま?
母親が関西人で、移ったんだけど周りには不評で。
特に、母さんが怒るの!」
「原因なのに?」
「そう、原因なのに!
エセ関西人が一番腹立つとか言われて!」
コクコク頷きながら、彼の話に耳を傾けた。
知らない世界の話を聞くのが、楽しかった。
大学生なこと。
バンドメンバーが中学高校時代の友人たちなこと。
そして、大学卒業になるこの年、この夏で活動を休止することを聞いた。
残念だな、と思ったところで君のために歌おうか、なんて言葉を掛けられた。
普段だったら、お断りだった。
二人きりでカラオケとか、そういうのは避けてきた。
だけど、もう少し彼の声が聞いていたくて。
わたしだけのため、と言われた言葉が嬉しくて。
気が付いたら、同じベッドで眠っていた。
目を覚ましたときには、午前五時前だった。
血の気が、引いていく。
隣には、変わらずに彼が眠っていた。
温かい身体。
長い指先は、きれいに爪まで整っていた。
歌っていた彼が、ちゃんとこの世界の生きてる人間なんだと、この一晩で嫌と言うほど実感した。
経験の無い、重たい女と思われないように必死で背伸びをしたのに、どこか彼にはバレていた気がしていた。
それでも止めなかった彼も同罪だ。
恐る恐る携帯電話を開いた。
あり得ないくらいの着信件数を想像していたが、家からの着信は三件だけだった。
逆に、少なすぎて怖い。
どう言い訳をするのか、色んなことがありすぎた頭では上手く回らない。
とりあえずシャワーを浴びた後は、彼を残したまま、お金を置いて部屋を出た。
東側の空が明るい。
未だ眠っている西側の空とのコントラストが、きれいだった。
街に残る街灯と、シンとした静かな朝の空気が気持ちいい。
ああ、やってしまった。
だけど、不思議と気持ちは軽かった。
友人の家に、着替えに戻らないとと思いながらも、もういいか、とも思う。
どこかスキップするような足取りで歩いていると、後ろから走ってくる足音が響く。
彼が追いかけてきたのかと後ろを振り返るが、想像と違う姿に息を飲んだ。
きっちりとしているはずの服装なのにどこか崩れ、きれいに分けられているはずの髪の毛は走ったからか乱れていた。
「……みつ、けた」
はぁ、と息を整えながら掛けられた言葉に、猛烈な罪悪感に襲われる。
「……まさか、探してたの?」
ライブハウスから抜ける姿を見られていたのかも知れない。
婚約者という立場の人間がいるのに、つい今し方まで別の男と一緒に居た事実が気まずい。
彼の顔が、真っ直ぐに見つめられなかった。
「……帰ろう」
いつかと同じ言葉に、頷くしかなかった。
「今日は、服を着替えるのか?」
「……どっちでも」
投げやりに答えると、無言で友人の家に連れて行かれた。
そのまま着替えを終えると、やはり待っていてくれた彼が再び家まで送ってくれた。
婚約者と一緒だった事実に、両親は苦虫を潰したような、無理矢理言葉を飲み込んだような顔をして迎えてくれた。
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