第20章 ふたりの夜明け
二人だけの、ささやかな結婚式だった。
華やかでなくてもよかった。
誰かに見せるためでもない。
ただ、この先を共に生きていくのだと、宗次郎と確かめ合えれば、それで十分だった。
そう思っていたはずなのに。
家へ戻り、玄関の扉が閉まった途端、胸の奥が落ち着かなくなった。
静かな部屋だった。
結婚式の余韻だけが、まだ薄く残っている。
振り返ると、宗次郎がこちらを見ていた。
その視線に触れただけで、喉がかすかに熱くなる。
昼間からずっと隣にいたのに。
こうして二人きりになっただけで、急に何もかもが違って見えた。
もう、夫婦なのだ。
そう思った瞬間、胸の奥が甘く震えた。
「……なによ」
平気なふりをしてみせても、声は少し掠れていた。
宗次郎は答えず、ゆっくりと近づいてくる。
足音ひとつで、心臓が跳ねた。
逃げたいとは思わなかった。
むしろ――もっと近くにいてほしかった。
目の前で足を止めた宗次郎を、しのぶは見上げる。
近い。
息が触れそうなほどだった。
「今日から、本当に夫婦なのね」
ようやくそう言うと、宗次郎は低く答えた。
「そうだな」
たったそれだけなのに、胸がいっぱいになる。
しのぶは堪えきれず、そっと宗次郎の胸元を掴んだ。
指先の下にある体温が、やけに熱い。
「……宗次郎」
名を呼ぶ。
それだけで、胸の奥が震えた。
宗次郎の目が、わずかに細められる。
次の瞬間、抱き寄せられた。
「……っ」
思わず、小さく息が漏れた。
強く、けれど優しい腕だった。
逃がさないように抱きしめられているのに、少しも怖くない。
むしろ、その腕の中にいることが、たまらなく嬉しかった。
宗次郎の胸に頬を寄せる。
鼓動が聞こえる。
生きている。
ここにいる。
その当たり前のことが、今は何より尊かった。
「離さないで……」
縋るように囁くと、耳元ですぐ低い声が返った。
「離すわけないだろ」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
重なった唇は、触れては離れ、また重なった。
急ぐ必要などない。
それでも、離れていた時間を埋めるように、二人は何度も互いを確かめた。
しのぶも宗次郎の肩へ腕を回す。
もっと近くにいたい。
もっと、この人のそばにいたい。
言葉にするより先に、その思いが伝わっていく。
「……しのぶ」
掠れた声で名を呼ばれ、背筋がかすかに震えた。
その呼び方ひとつで、胸の奥まで温かくなる。
「宗次郎……」
返す声は、自分でも驚くほど柔らかかった。
抱きしめられるたび、髪を撫でられるたび、身体の芯から緊張がほどけていく。
ひとりでいることに慣れすぎていた。
誰かに寄りかかることも。
誰かの温度を求めることも。
ずっと避けてきた。
けれど今は。
この腕の中から、離れたくなかった。
宗次郎の手が、壊れものに触れるように頬を包む。
優しい指先だった。
その優しさの奥には、切実なものがある。
「しのぶ」
呼ばれて、しのぶは顔を上げた。
「もう離さない」
低い声だった。
迷いがない。
しのぶは一瞬、息を止めた。
その言葉を、どれだけ待っていたのだろう。
「……宗次郎」
名を呼ぶ。
それ以上は、うまく言葉にならなかった。
宗次郎は、しのぶの髪へ顔を寄せる。
そして。
「……やっと、おまえをこの腕に抱ける」
その一言に、しのぶの胸が締めつけられた。
半年。
失いかけた時間。
離れていた時間。
そのすべてを、今こうして取り戻しているような気がした。
しのぶは震える指で、宗次郎の着物を掴む。
「……私も」
それだけを告げる。
宗次郎の腕に、わずかに力がこもった。
*
その夜。
二人は、これまで言葉にできなかった想いを、静かに確かめ合った。
何度も名前を呼び。
何度も抱きしめ。
何度も互いの存在を確かめる。
それは、激しさだけの夜ではなかった。
失いかけたからこそ知った、かけがえのない温度。
もう二度と手放したくないという願い。
そして。
この先も共に生きていくという、静かな決意。
それらが、夜の静けさの中でゆっくりと重なっていった。
やがて二人は、深く結ばれた。
それは、ようやく辿り着いた場所だった。
ひとりで生きるしかないと思っていた女が。
誰かと生きていく未来を、初めて恐れずに受け入れた夜だった。
*
長い夜の先に、朝が来た。
カーテン越しの光が、部屋を淡く照らしている。
しのぶは宗次郎の腕の中で、ゆっくりと目を覚ました。
隣では、宗次郎が静かな寝息を立てている。
その横顔を見つめるだけで、胸の奥が温かくなった。
昨夜のことを思い出す。
頬が、少しだけ熱くなる。
けれど、それ以上に。
こんな朝を迎えられたことが、嬉しかった。
誰かと眠り。
誰かと目を覚ます。
それだけのことが、以前の自分には遠いものだった。
しのぶは、そっと視線を落とした。
そして、ためらうように自分の下腹へ手を当てる。
まだ、何も変わっていない。
そんなことは分かっている。
それでも。
いつか。
もし本当に、この腕に小さな命を抱く日が来たなら。
その子は、どんな顔をしているのだろう。
宗次郎に似るだろうか。
それとも、自分に似るのだろうか。
そんなことを考えるだけで、胸の奥が柔らかくなる。
しのぶは目を伏せた。
焦らなくていい。
急がなくてもいい。
ただ。
来てくれたら嬉しい。
それは、以前の自分なら決して口にできなかった願いだった。
未来を望むことが怖かった。
望めば、失うかもしれないと思っていた。
けれど。
もう、何も望まないことで自分を守るのはやめよう。
そう思えた。
そのとき。
背後から腕が伸びてきた。
「……何してる」
まだ寝起きの掠れた声が、すぐ耳元に落ちる。
しのぶは小さく肩を揺らした。
「起きていたの」
「今、起きた」
宗次郎はそう言いながら、後ろからしのぶを抱き寄せる。
そのまま、しのぶの手ごと下腹へ触れた。
一瞬、しのぶの呼吸が止まる。
「宗次郎……」
宗次郎は、しばらく何も言わなかった。
ただ、その手を重ねたまま、低く呟く。
「……いつか、来てくれるといいな」
しのぶは目を見開いた。
自分と同じことを考えていた。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
しのぶは、そっと背中を預ける。
「ええ」
それしか言えなかった。
けれど。
その短い言葉には、今の自分が抱いている願いのすべてが詰まっていた。
宗次郎の腕の中で、しのぶは目を閉じる。
朝の光が、二人のいる部屋をゆっくり満たしていく。
昨日までとは違う朝だった。
ひとりで迎えるのではない。
これから先も、共に迎えていく朝。
しのぶは、宗次郎の手を握った。
その温度を確かめる。
生きている。
ここにいる。
そして、自分もここにいる。
もう、失うことだけを恐れて未来を手放す必要はない。
未来は、誰にも分からない。
怪異も。
境界も。
この先に待つ運命も。
それでも。
この人と生きていくことだけは、自分で選べる。
しのぶは、宗次郎の胸へ頬を寄せた。
「……これからも、よろしくね」
眠そうな声が、すぐ頭上から返る。
「ああ」
短い返事だった。
けれど。
それで十分だった。
二人の夜は終わった。
そして。
ふたりの朝が、始まった。
まだ、しのぶは知らない。
宗次郎も知らない。
二人がこれから歩いていく未来の、その先に。
まだ誰にも知られていない、新しい命が静かに息づき始めていた。
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