第15章 喪われた日の先へ

その日は、朝から気分が沈んでいた。

日付を目にした瞬間、その理由を思い出す。


今日は、東堂伊織の命日だった。


かつて環境省特務0課の隊長を務めていた女であり、西崎にとって、かけがえのない仲間でもあった。


そして――かつて、恋人だった。


隊の誰よりも強く、誰よりも容赦がなかった。

情に流されず、怪異には一切の慈悲を見せない。


現場では、絶対に背中を預けられる相手だった。


だから西崎は、あの人だけは最後まで喰われないのだと、どこかで勝手に信じていた。


――だが、現実は違った。


怨念体に群がられ、喰われた。


西崎の目の前で。

隊員たちが見ている、その前で。


遺体は残らなかった。


あの光景は、今も記憶の底に貼りついている。


日付を目にしただけで、食い千切る音が蘇る。

血の臭いが鼻の奥に戻り、断末魔が耳の奥で響く。


そして何より――あの時、足が動かなかった感覚だけが、今も鮮明に残っている。


西崎は目を閉じ、記憶を振り払うように息を吐いた。


考えたところで、戻ってくるわけではない。


分かっている。

分かっているのに、こういう日はどうしても駄目だった。


胸の奥が塞がったように重い。

息を吸っても、どこか浅い。


うまく息ができない。


部屋にいても、気が滅入るだけだった。


その時、不意にひとりの女の顔が浮かんだ。


藤真しのぶ。


なぜ彼女なのかと問われても、自分でもうまく説明できない。


ただ――。


彼女の傍にいると、不思議と息がしやすかった。


初めて共闘した夜もそうだった。


あれほど張り詰めた現場で、しのぶと並んでいる時だけは、妙に呼吸が合った。


その後、見鬼の力の経過を見るという名目で顔を合わせるようになってから、気づけば三か月が過ぎている。


定期的に訪ねて、茶を飲み、少し話す。


たったそれだけの時間なのに、ここへ来ると、不思議と肩の力が抜けた。


――会いたい。


その言葉が浮かんだ瞬間、西崎はわずかに眉を寄せた。


今日は、そういう気分なのだ。


それだけだ。


そう自分に言い聞かせるように、西崎は支度を整え、家を出た。


*


いつもの坂を上り、呼び鈴を押す。


ほどなくして戸が開いた。


「西崎さん」


名前を呼ばれただけで、胸の奥に張りつめていたものが、ほんの少し緩んだ。


その瞬間、自分がどれほど彼女に救いを求めていたのかを思い知らされる。


「急に悪い」


「いいえ。ちょうど手が空いていたところ」


それが本当かどうかは分からない。


だが、少なくとも迷惑そうではなかった。


むしろ、ほんのわずかに目元が和らいだように見えた。


「入って」


「ああ」


通された座敷も、出された茶も、もう見慣れたものになりつつある。


それなのに、ここへ来るたび、妙に安心する。


向かい合って座ると、しのぶは西崎の顔を見て、すぐに言った。


「今日は顔色がよくないわね」


「そうか」


「ええ。少し疲れてる」


ごまかそうかとも思った。


だが、しのぶの目は、そういう類の嘘をあまり見逃さない。


西崎は湯呑みを見つめたまま、低く言った。


「……命日なんだ」


「誰の」


「昔、0課にいた隊長だ。……俺の恋人だった女の」


しのぶは余計な相槌を打たなかった。


驚いた顔もしない。


ただ静かに、西崎の次の言葉を待っている。


その沈黙がありがたくて、西崎はぽつりぽつりと話し始めた。


「強い人だった。隊の誰よりも強くて、容赦がなくて。現場じゃ、誰より頼りになった」


「ええ」


「でも、死んだ。怨念体に囲まれて……目の前で喰われた」


しのぶは何も言わない。


安っぽい慰めを挟まない沈黙が、かえって優しかった。


「助けられなかった」


「あなたが?」


「……隊のみんなが、だな」


乾いた笑いが漏れる。


笑える話ではない。


それでも、そうでもしなければ喉の奥が詰まりそうだった。


「毎年、この日は少し駄目だ」


「そう」


しのぶは短く答えると、静かに立ち上がった。


ほどなくして戻ってきた手には、いつもの茶とは違う湯呑みがある。


「こっちを。少し落ち着く香りのものだから」


「……気を遣わせたな」


「気を遣っているわけじゃないわ」


そう言って、しのぶは湯呑みを差し出した。


西崎は受け取り、立ち上る湯気を見つめる。


たったそれだけのことなのに、胸の内に張りついていたものが、少しずつほどけていく。


「ありがとな」


「いいえ」


しばらく、ふたりの間に静かな時間が流れた。


無理に言葉を探さなくていい沈黙だった。


やがて西崎が、小さく息を吐く。


その音を聞いていたしのぶが、ふいに口を開いた。


「……落ち着くわ」


西崎は顔を上げた。


「え?」


「あなたといると」


あまりにも自然に言われて、一瞬、意味が分からなかった。


数秒遅れて、その言葉が胸に落ちてくる。


「……おまえ、急に何言って」


「事実を言っただけだけど」


しのぶはいつもと変わらない顔をしている。


それが余計に困る。


「あなたといると、気を遣わなくていいから楽」


「……それ、褒めてるのか」


「褒めてるつもりだけど」


「つもりかよ」


「違うの?」


しのぶは小さく首を傾げた。


本気で分かっていないらしい。


西崎は思わず視線を逸らした。


「……いや。もういい」


すると、しのぶの口元がほんのわずかに緩んだ。


「でも、本当よ」


「何が」


「無理に励まそうとしないところ。黙っていてくれるところ。あなたは、そういう意味で一緒にいて楽だわ」


西崎は返事ができなかった。


胸の奥に溜まっていた重たいものが、少しずつ形を失っていく。


命日の憂鬱が消えたわけではない。

過去が軽くなったわけでもない。


それでも今は、それを抱えたままでも息ができる。


――しのぶがいるからだ。


その事実を、今度は否定できなかった。


「……俺も」


「え?」


「おまえといると、落ち着く」


言ってしまってから、ひどく気恥ずかしくなる。


だが、しのぶは笑わなかった。


ただ静かに目を細め、湯呑みを両手で包み直す。


「そう」


「ああ」


「なら、よかった」


たったそれだけの言葉が、妙にあたたかかった。


西崎は湯呑みに口をつける。


熱い茶が喉を通っていく。


さっきまであれほど苦しかった呼吸が、今は驚くほど自然だった。


命日だからといって、過去を忘れられるわけではない。


喪ったものは戻らない。


それでも――今、ここにいる誰かと過ごす時間まで、過去に縛られる必要はない。


そう思えた。


*


しばらくして、西崎は湯呑みを置いた。


「……悪かったな」


「何が?」


「こういう日にまで来て」


しのぶは、わずかに目を瞬いた。


「別に」


「別にって……」


「迷惑なら、通さないわ」


あっさりした言い方だった。


けれど、その言葉は妙に優しかった。


西崎は少しだけ視線を落とす。


「……そうかよ」


「ええ」


短い沈黙のあと、しのぶは湯呑みを指先で撫でながら、ふと思い出したように口を開いた。


「また来てもいいのよ」


「……え?」


西崎が顔を上げる。


しのぶは、いつもと変わらない顔をしていた。


気負いも、照れもない。


ただ、ごく自然にそう告げている。


「あなたのこと、嫌いではないから」


「……しのぶ」


思わず名前がこぼれた。


「何?」


「いや……」


何でもないわけではない。


そんなことを平然と言われて、どうして平気でいられる。


胸の奥が、また熱を持つ。


しのぶは、そんな西崎の動揺に気づいているのかいないのか、静かに続けた。


「今度は、私的な住所のほうに呼ぶわ」


「私的……?」


「ええ」


西崎は目を瞬く。


これまで会っていたのは、あくまで境界祭祀管理局の管轄にある場所だった。


公的な用件のための場所。


そこには、しのぶなりの線引きがあったはずだ。


「……いいのか、それ」


「いつまでも事務所では味気ないでしょう」


「そういう問題か?」


「私には、そういう問題よ」


あまりに淡々と言われて、西崎は苦笑した。


けれど、その意味を取り違えるほど鈍くはない。


「……そんな簡単に決めていいのか」


「簡単には決めていないわ」


「じゃあ、何で」


しのぶは一瞬だけ西崎を見つめた。


「あなたなら、平気だと思ったから」


まっすぐな言葉だった。


西崎は返事を失う。


信用されている。


そのことが、思っていた以上に嬉しかった。


しのぶは少しだけ視線を外す。


「……何だかんだ言っても、もう三か月だもの」


「もうそんなに経つのか」


「ええ」


「俺は、そんなに通ってたか?」


「それなりに」


「数えてたのかよ」


「覚えているだけよ」


しのぶらしい答えだった。


西崎は小さく笑う。


「で、俺は合格したのか」


「何の話?」


「人を家に呼ぶ基準」


しのぶは少し考えるように黙ってから、


「たぶん」


と答えた。


「たぶんかよ」


「そこは喜んでおけばいいでしょう」


ほんのわずかに、しのぶの口元が和らぐ。


それだけで、西崎はまた嬉しくなった。


もう、理由を探す必要はない。


この女と、もう少し一緒にいたい。


その気持ちだけは、はっきりしていた。


「……また来る」


「ええ」


「本当に、いいんだな」


「同じことを何度も確認するのね」


「確認したくもなるだろ」


しのぶは一瞬だけ黙った。


それから、静かに言った。


「来てほしくなければ、最初から言わないわ」


西崎は返事の代わりに、ひとつ息を吐いた。


胸の内に残っていた重さが、少しずつほどけていく。


しのぶはそんな西崎を見て、ほんの少しだけ声を和らげた。


「あなたは、ひとりで抱え込みすぎるの」


「そう見えるか」


「ええ」


「……そうかもな」


「だから、来たい時は来ればいいわ」


「……」


「もちろん、毎日来られても困るけれど」


「そこは釘を刺すんだな」


「必要でしょう」


西崎は思わず笑った。


その笑いにつられるように、しのぶの目元もわずかに和らぐ。


静かな部屋に、穏やかな時間が流れた。


命日の重さが消えたわけではない。


失ったものが戻るわけでもない。


それでも今は、それを抱えたまま、誰かと同じ時間を過ごせる。


それだけでよかった。


やがて、西崎は腰を上げた。


「そろそろ帰る」


「ええ」


しのぶも玄関まで見送りに出る。


夕暮れの光が、障子越しに柔らかく差し込んでいた。


「住所は、今度書いて渡すわ」


「ああ」


「なくさないで」


「なくすかよ」


「……あなた、たまにぼんやりしてるから」


「誰のせいだと思ってる」


そう返すと、しのぶがふっと笑った。


あまりにも淡い笑みだった。


けれど確かに、自分へ向けられたものだと分かる。


西崎は一瞬だけ言葉を失った。


「じゃあな」


「ええ。また」


――また。


その一言だけで、次があるのだと分かる。


西崎は戸口を出て、坂を下り始めた。


足取りは、来た時より軽かった。


命日の重さが消えることはない。

失ったものも、取り戻せない。


それでも今の自分には、次に会える場所がある。


そのことが、不思議なほど心強かった。


坂を下りながら、西崎は一度だけ空を見上げる。


朝から重かった空が、夕暮れの向こうで少しずつ色を変えていた。


喪われたものの先に、何かが待っている。


そんなふうに思えたのは、久しぶりだった。


*


一方、しのぶは戸口に立ったまま、西崎の背中を見送っていた。


足音が遠ざかっていく。


やがて聞こえなくなってから、しのぶは静かに息を吐いた。


「……嫌いではない、ね」


自分で口にしてみて、少しだけ可笑しくなる。


あれでは、あまりにも素っ気なかったかもしれない。


けれど。


実直で、不器用で、妙なところで素直な男。


一緒にいて落ち着く。

沈黙を無理に埋めなくていい。


そして今日。


苦しい日に、自分のところへ来てくれた。


そのことが、思っていた以上に嬉しかった。


だから次は、公的な場所ではなく、自分の場所へ招こうと思った。


それが何を意味するのか。


しのぶにも、もう分かっている。


けれど、急ぐ必要はない。


今はまだ、この距離でいい。


次に会う約束がある。


それだけで、十分だった。


しのぶは閉じかけた戸に手を添え、坂の先へ視線を向ける。


「……また来るのね」


誰に聞かせるでもなく、呟く。


今度は、その言葉に隠すものはほとんどなかった。


しのぶはほんの少しだけ笑って、静かに戸を閉めた。

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