第11章 渡せなかった想い
それから、さらに二日が過ぎた。
しのぶは病院内を歩いていた。
調査のため、病棟を一室ずつ見て回っている。
昼の病院は明るい。
白い壁。
磨かれた床。
規則正しく行き交う人々と、絶え間なく響く足音。
すべてが、整いすぎるほど整っている。
けれど、その清潔さは、底に沈んだものを覆い隠す薄い膜にすぎない。
この病院には、まだ澱が残っている。
目に見えないまま、静かに。
それでも確かに、息づいている。
三階の廊下を曲がり、いくつかの病室を通り過ぎかけた、そのときだった。
ふいに、女の話し声が耳に触れた。
しのぶは足を止める。
声は、通り過ぎようとしていた病室の内側から聞こえていた。
静かな声だった。
取り乱しているわけでもない。
泣いているわけでもない。
それなのに、妙に耳に残る。
ドア脇のプレートには、三〇二号室。
ちょうどそのとき、廊下を通りかかった看護師が、しのぶに気づいて会釈した。
しのぶは病室へ視線を向けたまま、何気ない調子で尋ねる。
「……あのお部屋の方は?」
看護師が足を止めた。
「三〇二号室ですか?」
「ええ」
「南條暁生さんです。二年前、ご友人の家で遺品整理をしている最中に倒れて……それ以来、意識が戻らないままで」
「二年も?」
「はい。今も植物状態です」
看護師は一度、病室の中を窺った。
「付き添っている女性は、ご友人のお姉さんで、葛西由里子さんです」
「そう。ありがとう」
礼だけを返し、しのぶは再び病室へ目を向けた。
その瞬間だった。
背筋を、ひやりとしたものが走る。
――ここだ。
この病院を蝕んでいる怨念が、もっとも濃く溜まっている場所。
それが、この三〇二号室だった。
病院全体に染みついていた澱とは、濃さが違う。
建物全体に広がった歪みが、まるで見えない水路を伝うように、この一室へ吸い寄せられている。
そこだけ、空気の色が違った。
澱が、静かに。
執拗に。
積み重なっている。
南條暁生の眠る身体には、どす黒い怨念と瘴気が幾重にも絡みついていた。
生気の薄れた肉体へ、見えない手が何本も食い込み、離れようとしない。
二年ものあいだ、ただ眠っている人間に宿るには、あまりにも深い濁りだった。
そして、傍らにいる葛西由里子にも、同じ色の気配が纏わりついている。
患者ほど濃くはない。
だが、無関係な人間に触れるには、明らかに深すぎる。
ただ寄り添っているだけの女ではない。
この病室に沈殿しているものと、どこかで強く結びついている。
しのぶは静かに目を細めた。
病院全体を覆う怪異。
裏手に潜んでいた、異獣じみた怨念体。
そのすべてが、ここへ繋がっている。
――見つけた。
ようやく、核に届いた。
そう思った。
けれど。
次の瞬間、しのぶはわずかに眉を寄せた。
妙だった。
病院中に広がっていた澱が、この部屋へ集まっている。
それは間違いない。
だが――集まったものが、ここで途切れていない。
三〇二号室を中心に濃くなっているはずなのに、その気配はさらに奥へ向かっている。
病室の壁の向こう。
床の下。
あるいは――もっと別の場所へ。
しのぶは息を潜めた。
終着点ではない。
ここは、核そのものではない。
核へ繋がる場所だ。
そう理解した瞬間、胸の奥が冷えた。
ならば、この二日間の調査も。
裏手で遭遇した怨念体も。
まだ、終わっていない。
むしろ――ようやく本当の入口に立っただけだ。
思考より先に、声が出ていた。
「少し、お話を伺ってもいいかしら」
病室の奥にいた女が、ゆっくり振り返った。
年の頃は三十代半ばほど。
派手さのない服装に、きちんと整えられた髪。
疲れてはいる。
だが、やつれているというより、長いあいだ張りつめたものを崩さずにいる顔だった。
その目が、しのぶを見る。
瞬間、しのぶは息を詰めた。
――深い。
まとわりついている怨念と瘴気は、外から触れただけの濃さではない。
この女性は、もっと長く。
もっと近くで。
これに晒されてきた。
それだけではない。
ただ蝕まれている者の目ではなかった。
恐れと疲労の底に、何かを知っている者の色が沈んでいる。
葛西由里子は、しのぶを前にしても取り乱さなかった。
驚きはした。
だが、それだけだった。
むしろ一瞬の後には、訪問者を受け入れるように表情を整えてみせる。
「……どちらさまでしょうか」
柔らかな口調だった。
礼を欠いてはいない。
けれど、その声の底には、簡単には踏み込ませまいとする硬さがある。
しのぶは病室へ足を踏み入れず、戸口に立ったまま答えた。
「この病室のことで、少し気になることがあって」
あえて所属は先に明かさない。
まず、この女がどこまで知っているのかを見たかった。
由里子の目が、ほんのわずかに揺れた。
ごく小さな変化だった。
けれど、それだけで充分だった。
――心当たりがある。
しのぶはベッドへ視線を移した。
南條暁生は、眠るように横たわっている。
ベッド脇の医療機器が刻む電子音だけが、病室の静けさをかろうじて現実へ繋ぎ止めていた。
けれど、その身体に絡みつくどす黒い気配は、生者に寄り添うものではない。
沈めるためのものだ。
押さえつけ、引きずり込み、二度と浮かび上がらせないための重り。
その濁りの端が、由里子の指先にも触れている。
しのぶは目を細めた。
「二年前のことを、聞かせてもらえますか」
由里子の表情が、そこで初めて固まった。
病室に落ちた沈黙は短い。
なのに、その一瞬だけで空気の温度が変わった。
やはり。
知っている。
しのぶは確信した。
この病院を蝕む怨念は、ただ南條暁生の身に起きた異変から生じたものではない。
その隣に立つ葛西由里子もまた、鍵のひとつだ。
そして――三〇二号室でさえ、終着点ではない。
由里子はすぐには答えなかった。
ベッド脇に置いた手を、気づかれないほどわずかに強く握る。
それから、ゆっくりとしのぶを見返した。
「……どうして、そのことを」
掠れた声だった。
怯えではない。
隠してきたものの輪郭に、とうとう他人の手が触れた。
そんな声だった。
しのぶは静かに答える。
「見えているからよ」
その一言が落ちた瞬間。
ベッドの上で――
南條暁生の指が、
ほんのわずかに動いた。
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