逃げた嫁
薬売りは、三年前に女を乗せた荷駄の主を覚えていた。
木椀を城下へ運ぶ男で、北の山裾に小屋を持つ。冬が深くなる前なら一日で往復できるが、今の雪では分からない。午後からまた荒れると、薬売りは軒の風を聞いて言った。
惣吉は夜明け前に馬へ鞍を置いた。
「半日で見つからなければ戻る」
おたえが縋った。
「娘がそこにいてもですか」
「いるかどうかを確かめるために、生きて戻る」
惣吉は荷縄を締めた。
小萩は澄乃へ残れと言った。雪道の追跡に瞽女が加わる理由はない。だが澄乃は、お紺に入った足取りと、本人の足取りが同じか確かめなければ、終わりの句を作れないと答えた。
小萩はしばらく黙り、千代へ澄乃の杖を取らせた。
「歌うために行くのではない。聞き違えたら、その場で戻れ」
惣吉、薬売り、澄乃、千代の四人で出た。馬には荷を載せず、替えの藁沓と縄、干し飯、火口だけを括る。林道は水車小屋の先から細くなり、吹き溜まりでは馬の胸まで雪が来た。
惣吉が先へ回って雪を踏む。薬売りは木の皮を削り、帰りに見失わぬよう枝へ挟んだ。澄乃は千代の肩ではなく、馬の荷縄を握った。馬が足場を選ぶたび、縄の高さが変わる。下がった時は窪み、急に張った時は登りだった。
途中で千代の藁沓が片方脱げた。
見つける間にも雪が穴を埋める。薬売りが手を突っ込み、惣吉が馬を風上へ立たせた。千代は謝り続けたが、澄乃は止めた。
「息を言葉に使わないで」
新しい藁沓を履かせる。片方だけ乾いているため、歩く拍が左右で違った。
木地師の小屋へ着いたのは、昼を少し回った頃だった。
斜面を削って建てた低い家で、軒下に挽きかけの椀が吊られている。中から刃物が木をさらう音がした。薬売りが戸を叩くと、女が返事をした。
戸を開けたのは木地師の妻だった。お里は奥にいる。妻は四人をすぐ入れず、庄次家の者か、市兵衛の手代か、村役の使いかを一人ずつ訊いた。
お里が三年を生き延びたのは、一人で山へ隠れ続けたからではない。この家が名を聞かずに泊め、働いた日数を椀の数とは別に覚えていたからだった。
妻は、持ってきた下書きを先に見せろと言った。惣吉が紙を広げると、自分で端を持ち、火へ近づけすぎぬよう距離を取った。
その一声で、澄乃はお紺との違いを知った。
お紺の口に出た声より低く、息の終わりが掠れている。似ているのは言葉を短く切る所だけだった。
女は戸を開けた。薬売りが名を訊いても答えない。惣吉が簪を差し出すと、手を伸ばさなかった。
「それは、捨てたものです」
澄乃は女の顔を見られない。濡れた足袋を脱ぐ音、戸板へ背を預ける音、右足を少し庇う衣擦れを聞いた。
「さよ」
わざと呼んだ。
女が振り向く衣の音がした。
薬売りが息を呑む。
「お里さんですね」
「その名は、あの家へ置いてきました」
惣吉は庄次家で見つけた下書きを広げた。紙の名を読んだ途端、女の呼吸が変わった。
「お紺の名まで書いたのですか」
「日付も年季も空だ。市兵衛という男だけ、先に名がある」
お里は初めて紙へ触れた。右下を折る。お紺の手がしたのと同じ角度だった。
三年前、お里は庄次の借金を知った。持参金はもうなく、実家の母が押していない印まで証文にあった。庄次の母は、若い妹を奉公へ出せば家も実家も立つと言った。
お里は下書きを持ち出そうとした。
姑に見つかり、水車小屋へ逃げた。床下へ隠れた所へ追って来たのは、庄次ではない。
「母です」
女は言った。
「おたえさんが」
「私を連れ戻せば、話を穏便にできると思ったのでしょう」
腕を掴まれ、床下へ押し戻された。おたえは女一人で逃げれば何を言われるか知っていた。男と逃げたことにされる。実家の妹も縁談を失う。だから一度家へ戻り、村役へ訴えようと言った。
お里には、家へ戻ることと閉じ込められることの違いがなくなっていた。
簪で掛け金を外し、林道へ逃げた。母を振り切った時、背後で男の荒い息だと思ったのは、自分を追う母の息だった。
「庄次に殺されると思ったのは」
千代が言いかけた。
「思っていました」
お里は遮った。
「あの人が小屋にいなかったとしても、戻れば私を家へ入れ、紙を焼いたでしょう。怖かった相手を取り違えただけです。怖かったことまで違いにはしないでください」
千代は口を閉じた。
三年間、お里は木椀の荷と一緒に村を二度移った。名を訊かれれば「さよ」と答え、庄次家の嫁だったことは話さなかった。木地師の妻から炊事と椀の荷造りを任され、働いた分の米を自分で受け取っている。
ただし、自由にどこへでも行けたわけではない。村役へ身元を問われれば、木地師夫婦は遠縁の女だと答えた。その嘘が破れれば、家も罰を受けるかもしれない。お里は人の集まる市へ出ず、椀の荷へ自分の名を書かなかった。
自分で受け取る米と、自分の名で生きることは、まだ同じではなかった。
澄乃はお紺のことを告げた。
姉の織り方を知ること。水車への道を歩くこと。奉公の下書きを隠して逃げようとすること。与吉の名を知りながら、身体だけが春の祝言から離れていくこと。
お里は黙っていた。
外で、馬が一度嘶いた。風向きが変わり、軒下の椀が触れ合った。
「あの子は、私より器用です」
お里は笑おうとして、できなかった。
「役まで渡せば、あの家は私より大事にするでしょう」
「それでよいのですか」
澄乃が訊く。
「よいわけがない」
お里は奉公の下書きを畳み、懐へ入れた。
「家へは戻りません。お紺を、家から出してください。そのためなら、本人だと名乗ります」
木地師の妻が、お里の背後で息を吸った。名乗れば、この小屋に三年匿ったことも知られる。
「戻って来られないかもしれないよ」
「分かっています」
お里は、木椀を包む手を止めた。
「帰る場所を一つ失くして、あの家へ帰らないと証すのです」
惣吉が外の風を聞いた。
「今出れば、暗くなる前に沢を渡れる」
お里は木地師の家へ米の取り分を返し、着替えを一枚だけ包んだ。簪は受け取らなかった。
妻は返された米を半分だけ受け取った。残りは三年間の働き賃であり、返す物ではないと言った。お里はその半分を背負った。
帰り道、先頭はお里が歩いた。
三年前に一度しか通らなかったはずの林道で、お紺の身体が選んだのと同じ柳を避け、同じ沢の上手へ回った。
日が落ちる前、遠くで庄次家の屋根雪を下ろす音がした。
お里の足が、一度だけ止まった。
「あの音へ帰るのではありません」
女は誰にともなく言い、また歩き出した。
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