第32話 何も進んでいないわけではない

 翌朝。


 合同班は、出発する前から揉めていた。


「だから、その荷車は西側だって言ってるだろ!」


「昨日は東側って言ったじゃねえか!」


「昨日と今日で積む物が違うんだよ!」


「じゃあ最初に言え!」


 朝食を終えたばかりの本部前に、怒鳴り声が響く。


 空はまだ白っぽく、草の先には夜露が残っていた。炊事場では大鍋を洗う音がしている。荷車の馬は騒ぎなど気にせず、鼻先で地面を探っていた。


 私は手帳から顔を上げた。


「何の話ですか?」


「荷車!」


 トーマスさんが答えた。


「どの荷車ですか?」


「二台目!」


「二台目は石材です」


「ほら!」


「ただし、午前は西側の撤去作業、午後は北側の基礎確認に回します」


「ほらじゃねえじゃん!」


 反対側から声が飛ぶ。


「途中で変わんのかよ!」


「工程表に書いてあります」


「誰が朝から工程表読むんだよ!」


「読んでください」


 一瞬だけ静かになった。


 誰かが小さな声で、


「正論だ」


 と言った。


「うるせえ!」


 また始まる。


 昨日あれだけ飲んだのだから、少しくらい静かな朝になるかもしれないと思っていた。


 甘かった。


 むしろ昨日より声が大きい。


 ただ、よく見ると少し違っていた。


「ジョエル、縄持ってきて!」


「今行く!」


「マーク、そっちじゃねえ! 三台目!」


「わかってる!」


 名前が飛んでいる。


 昨日までは、「アルブのやつ」「エルウィンの二人」「そっちの村の誰か」だった。


 揉めていることには変わりない。


 でも、誰が何をできるのかは少しずつわかってきている。


 テッサが私の横へ来た。


 片手に水の入った杯を持っている。


「昨日の酒、意味あったと思う?」


「どうでしょう」


「そこは自信満々に言えよ」


「まだ朝ですから」


「便利だな、それ」


 昨日も言われた気がする。


 そのとき、炊事場の方からクララさんが出てきた。


 両腕に布包みを抱えている。


「弁当、持っていってください!」


 声を掛けると、作業員たちが一斉にそちらを見る。


 さっきまで荷車で揉めていた人たちまで、急に動きが揃った。


「おい、先行くな!」


「俺の分!」


「番号順です!」


 クララさんが包みを一つずつ渡していく。


 パンと、冷まして固めた肉、それから豆を煮たものを薄いパンで包んだ簡単な昼食だった。


 手に渡るたび、麻布が小さく沈む。


「はい、次」


「俺」


 トーマスさんが前に出た。


 クララさんが顔を上げる。


「名前を言ってください」


「知ってんだろ」


「確認です」


「トーマス・レイン」


「はい」


 クララさんは弁当を差し出した。


 トーマスさんが受け取る。


 そのまま行くのかと思った。


「今日も煮込み?」


「昼は煮込みじゃありません」


「じゃあ何?」


「食べればわかります」


「冷たいな」


「お弁当ですから」


「そういう意味じゃねえよ」


 近くにいた誰かが吹き出した。


 クララさんが眉を寄せる。


「何ですか?」


「いやあ?」


 エルウィン側の男性がにやにやしながらトーマスさんを見る。


「朝から仲いいなと思って」


「は?」


 今度はアルブ側から声が飛んだ。


「クララ、昨日からずっとトーマスの世話してない?」


「してません!」


「手ぇ洗えって言ってたよな!」


「汚かったからです!」


「弁当も手渡し!」


「全員に渡してます!」


「でも今、トーマスだけ話長かったぞ!」


 笑いが起きた。


 エルウィン側からも。


 アルブ側からも。


 ほぼ同時だった。


「うるせえ!」


 トーマスさんが怒鳴る。


 それが余計に面白かったらしい。


「顔赤いぞ!」


「朝から元気だなあ!」


「クララも赤い!」


「違います!」


 二人とも同じくらい声を張った。


 また笑いが起きた。


 さっきまで荷車の割り振りで本気で揉めていた人たちが、今だけは全員同じ方向を向いている。


 トーマスさんとクララさんの方へ。


 私は少しだけ驚いた。


 こういうこともあるのか。


「何笑ってんですか」


 クララさんがこちらを見る。


「いえ」


「ロザリーさんまで!」


「笑っていません」


「笑ってます」


 頬に力が入っているのが自分でもわかった。


 私は手帳へ視線を落とした。


「出発時間を過ぎますよ」


「逃げた!」


「逃げてません」


 今度は私まで笑われた。


 テッサが隣で腹を抱えている。


「いいじゃん。もうちょいやらせろよ」


「遅れます」


「はいはい。ほら、出るぞ!」


 テッサが手を叩く。


 荷車が動き始めた。


 車輪が湿った土を踏み、馬具が鳴る。


 さっきまでトーマスさんをからかっていたアルブの男性が、そのトーマスさんと同じ荷車の後ろを押している。


 クララさんは炊事場へ戻りながら、まだ何か言われている。


「だから違うって言ってるでしょう!」


 声だけは、しばらく聞こえていた。


     ◇


 午前の後半。


 本部の天幕へ戻ると、セドリック様はルシアン殿下と話していた。


 大きな地図が机いっぱいに広げられている。


 道。


 橋。


 井戸。


 作業場。


 仮設市場。


 色の違う印が、数日前より明らかに増えていた。


「戻った?」


 ルシアン殿下が私を見る。


「はい」


「ちょうどよかった。君のところ、明日の材木搬入を午後にずらせる?」


 挨拶より先だった。


「理由を伺っても?」


「午前中、北側の道をガレスに使わせたい」


 殿下が地図を指でなぞる。


 エルウィン村の北。


 そこからさらに山側へ伸びる細い道。


「井戸が一本使えるようになったから、あっちは燃料に移る。伐採場所から荷車を通したいんだって」


「もう燃料へ?」


「早いよねえ」


 殿下は笑う。


 笑っているけれど、指は止まらない。


「で、午後はヴィンセント。商人がまた増えるらしい」


「またですか」


「宿屋まで来るって」


「宿屋?」


「正確には、仮設宿。大工と布屋が組んで、寝台だけ並べた小屋を作るんだってさ」


 私は地図を見る。


 昨日まで小さな市場だった場所に、新しい印が三つ増えている。


「ヴィンセント様の陣営は、ずいぶん進んでいますね」


「進んでるよ。僕の道を一番使ってる」


 殿下は楽しそうだった。


「金が回り始めると早いね。人が来る。人が来ると物が来る。物が来るとまた人が来る」


 セドリック様が別の紙へ目を落としたまま言う。


「ロザリー」


「はい」


「明日の材木は午後でいい」


「承知しました」


「午前の人員が余る。帰還希望者の住居確認を前倒ししよう」


「何名ほど回しますか?」


「六名」


「合同班からですか?」


「いや。調査班から二名、記録班から一名。残りは臨時で組む」


 セドリック様はそこで初めて顔を上げた。


「テッサは合同班から外さないで」


「はい」


「まだ必要だ」


 まだ。


 その言葉が少しだけ引っかかった。


 殿下が地図の上へ小さな木札を置く。


「あと、この道」


 今度は村の東側だった。


「今日中には荷車一台なら通せるようになる。明日から交互通行」


「時間を分けますか?」


 私が聞く。


「そう。午前は西向き、午後は東向き。正午前後だけ歩行者優先」


「業者へ伝えます」


「助かる」


 殿下は次の紙へ手を伸ばす。


 その手元には、各陣営から上がってきた希望時間がびっしり書かれていた。


 ガレス様の石材。


 ヴィンセント様の食料。


 こちらの材木。


 工事業者。


 帰還者。


 商人。


 どの荷車を、どの道へ、何時に通すか。


 全部が殿下のところへ集まっている。


 候補者の一人というより。


 復興全体の交通整理をしている人だった。


「殿下」


「ん?」


「今、一番エルウィン村の復興を動かしているのは殿下なのではありませんか?」


 ルシアン殿下がきょとんとした。


 それから笑った。


「いやいや。僕、道しかやってないよ」


「その道を全員が使っています」


「そうなんだけどさ」


 殿下は肩をすくめる。


「僕が何か作ってるわけじゃないし」


 セドリック様が紙をめくった。


「作っているよ」


「何を?」


「時間だ」


 殿下が少し黙る。


 セドリック様は気にせず続けた。


「道が使えれば、ガレスは井戸と燃料を進められる。ヴィンセントは市場を広げられる。私たちも業者を入れられる。全員の時間を増やしている」


「褒めてる?」


「事実を言っている」


「もうちょっと嬉しそうに言ってよ」


「嬉しいよ」


「見えないなあ」


 殿下が笑う。


 私は地図へ目を落とした。


 ガレス様の井戸。


 ヴィンセント様の市場。


 ルシアン殿下の道路。


 どれも、見ればすぐわかる。


 水が出る。


 店が並ぶ。


 荷車が通る。


 成果が形になっている。


 それに比べて、こちらは。


 瓦礫を片づけて。


 帰還希望者を調べて。


 住居の状態を確認して。


 アルブとエルウィンの人たちを同じ班へ入れて。


 毎日揉めている。


 今朝も荷車で揉めていた。


 何度目だっただろう。


 私は手帳の端を指でなぞった。


 そのとき。


 弁当を渡していたクララさんの顔が浮かんだ。


 隣でトーマスさんが何か言って。


 エルウィンの人が笑って。


 アルブの人も笑って。


 ついさっきまで喧嘩していた全員が、二人をからかうときだけ同じ顔をしていた。


 思い出したら、少し笑ってしまった。


「どうかしたか?」


 セドリック様がこちらを見ている。


「いえ」


「今、笑っただろう」


「少しだけ」


「何かおかしいことを言ったか?」


「いいえ」


 私は手帳を閉じた。


「セドリック様のお考えは、素晴らしいなと思いまして」


 セドリック様の眉が少し動いた。


「……からかっているのか?」


 自分たちが一番目に見えて進んでいないことは、当然わかっているのだろう。


 ほんの少しだけ、むっとしている。


 それが珍しくて。


 私はまた笑いそうになった。


「本心です」


「その顔で言われても信用できない」


「どの顔ですか?」


「今の顔だ」


「普通の顔です」


「違う」


 ルシアン殿下が、私とセドリック様を交互に見た。


「僕、ここにいていい話?」


「仕事の話です」


 私が答えると、殿下がますます笑った。


 セドリック様だけが納得していない顔をしている。


「ロザリー」


「はい」


「午後の業者打ち合わせ、私も出る」


「承知しました」


「その前に、合同班の進捗をまとめておいて」


「はい」


 私は手帳を開き直した。


 今朝のことを書こうかと思った。


 やめた。


 荷車の割り振り。


 作業人数。


 弁当の数。


 今日の工程。


 書くべきことは他にいくらでもある。


 あの笑い声は、まだ数字にはならない。


 でも。


 たぶん、何も進んでいないわけではなかった。

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