副隊長は、炎を見ていない
副隊長は、炎を見ていない。
そう言われたのは、地下点検路から戻った翌朝だった。
火衛局の会議室には、記録官と灰冠局の監察官が並んでいる。壁に掛けられた大きな地図には、七都市の燐脈が青い線で描かれていた。第九区の地下で見つけた第十三区の線は、地図のどこにもない。
セナは部屋の中央に立ち、反照盤を机へ置いていた。
「セナ・ヴァルハルト。無許可の封鎖区域へ侵入し、灰冠局の封印設備を撮影した。さらに、存在しない地区名を含む未確認情報を公開しようとした」
記録官が読み上げる。
「弁明はありますか」
「封鎖区域には、火災後も圧力が残っていました。現場保全として確認しました」
「火は出ていない」
灰冠局の役人が言った。
「火が出ていない設備を、救助隊が判断する必要はない」
「火が出てからでは、遅いことがあります」
「あなたは、炎を見ていない」
会議室の空気が止まった。
役人はセナの反照盤を指した。
「圧力線とやらを見て、火災を予測しているつもりか。現場の炎を見た者が、原因を判断する。技師の机上計算で救助隊を動かすな」
レンはセナを見た。彼女は反論しなかった。
セナはいつも、炎の中心ではなく、炎がどこへ行くかを見ている。昨夜も、彼女は白い光を火と呼ばず、圧力と呼んだ。
「お前は、昨日の浴場で水術を止めた」
ドグが口を開いた。傍聴席に座る隊員たちが振り返る。
「水をかければ、浴場の客は助からなかった」
「結果論です」
「結果を見て判断するのが救助だ」
「原因を確かめずに結果だけを処理すれば、同じ火が戻る」
ドグの声が低くなる。
「俺たちは火の前へ行く。だから、火の前にあるものを見ている隊員が必要だ」
「隊長、あなたは彼女の能力を評価しすぎている」
「評価しているのは、切った線の数じゃない。切らずに残した線の数だ」
セナが初めて、ドグを見た。
「隊長」
「イサクのとき、俺は燃えている建物だけを見た。弟が見つけた白い線を、炎の反射だと思った。俺が信じなかったから、報告書に空白ができた」
会議室がざわついた。
役人が机を叩く。
「三年前の白火を、今の監査と混同するな」
「混同しているのは、そちらだ」
レンが立った。
ドグが目で制したが、レンは続けた。
「俺たちが見つけたのは、燃えていない導管です。火はなかった。でも、熱は流れていた。そこを無視して、火が出てから救助へ行けと言うなら、俺はその順番を信用できません」
「お前は消火できない」
「だから、消えたあとも見ています」
役人がセナへ向いた。
「副隊長代行として、隊員が勝手な発言をするのを止めないのか」
セナは反照盤を手に取った。銀板の上には、会議室の地図と同じ青い線が浮いている。けれど、実際の地図にない第十三区の線だけが、ゆっくり脈を打っていた。
「私は、炎を見ていません」
セナは言った。
「正確には、炎だけを見ていません。火が燃えた結果、誰が水を失うか。どの病院が止まるか。どの家が帰れなくなるか。燃える前の圧力が、どこへ流れるか。それを見ています」
「そんなものは中央局が管理する」
「中央局が見落としたから、住民の家名が消えた」
セナの声が揺れた。父の封印印が、彼女の手元にある。
「私の母の印が封じた線を、私は知りませんでした。知ろうとしなかった。家族の名前を守ることと、記録を閉じることを同じにしていたからです」
会議室の後ろで、トワが伝鳴管を握り直した。
「セナさん」
「何?」
「記録紙に、音が残っています」
トワは記録紙の端へ小さな印をつけた。
「地下で聞こえた低い音と、三年前の救助信号の間隔が同じです。音源はまだ分かりません。でも、分からないことを分からないまま残すなら、公開帳へ書けます」
「通信係が、監査に口を挟むのか」
「口を挟むのではなく、聞こえたことを言っています」
トワの声は震えていた。それでも、最後まで途切れなかった。
ユリウス・セムが、会議室の隅から歩いてきた。彼はこれまで黙っていた。
「処分は保留にする」
「監察官」
「封印設備の停止は命じない。第九区隊には、三日間の限定調査を許可する。ただし、中央医療揚水を止める判断は、私が行う」
「公開記録は?」
セナが聞いた。
「事実と推測を分けるなら、撤去は求めない」
「都合のいい条件ですね」
「都合が悪い条件で都市を救えるなら、私はそれを選ぶ」
ユリウスの答えは冷たい。しかし、そこには病院の揚水を止められない現実がある。レンは、彼を単純な敵として扱えないことを理解した。
会議が終わり、廊下へ出た。
セナは反照盤を閉じず、青い線を見ている。レンは隣に立った。
「副隊長代行、続けられますか」
「私を外したい?」
「逆です。俺は原因を切れる。でも、どこを切らないかは、あなたが見ている」
セナは銀板から目を上げた。
「私は、父の封印を開けることになる」
「まだ開けていない」
「いずれ開ける」
「そのとき、俺たち全員で記録します」
会議室の外で、セナは一人になった。レンが追いつくと、彼女は窓から王都の灯りを見下ろしていた。
「炎を見ていない、と言われたことはあります」
「前にも?」
「宮廷技師の訓練で。私は圧力線を先に見るから、火元の形を見落とす。父は、それを欠点にした」
「欠点では?」
「現場では、欠点になり得る。炎の色、煙の濃さ、焼けた物の順番。それを見ないと、線だけでは人を救えない」
「でも、線を見なければ、逃げ道がなくなる」
「だから、あなたがいる」
セナはレンの掌を見た。六本目の熱痕は薄くなっているが、消えてはいない。
「私は炎を見ない。あなたは炎を消せない。ドグは一人を支えるために建物を読む。トワは聞いた音を忘れないようにする。欠けたところを、別の人が埋めるしかない」
「隊長は、俺たちを仮隊員にした」
「仮のままでも、判断は本物にできる」
セナが言うと、レンは笑った。
「副隊長らしいです」
「まだ代行よ」
「では、代行らしく命令を」
セナは少し考えた。
「今夜、ミナさんの炉を見に行く。あなた一人では行かない」
それは業務命令であり、心配だという言葉の代わりだった。
ドグが後ろから歩いてきた。
「隊の判断は、四人でやる。レン、勝手に消すな。セナ、勝手に背負うな。トワ、音を残せ。ガルム、勝手に先へ行くな」
ガルムは返事の代わりに、治療施設の方向へ顔を向けた。
その夜、レンはミナの灰眠室へ行った。
六回目の消因で失ったトワの笛の音は、まだ思い出せない。炉の前で公開帳の写しを開くと、紙の端に灰が一粒落ちた。
灰は、燃えていないはずの治療炉から出ている。
レンが指で触れる前に、炉の奥から音がした。
高い音が一つ。
そのあとに、低い音が一つ。
トワの笛と同じ間隔だった。
灰の中から、誰かが名前を呼んだ。
「……レン」
声は小さく、遠い。
けれど、妹の声を聞き間違えることはなかった。
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