消火できない消防士

火衛局第九区隊の訓練場は、朝から焦げていた。


正確には、焦げるように作られた訓練導管が、石造りの壁際で赤く脈打っている。太い管の中を魔力が流れ、先端の術具から火柱が上がる。火を消す訓練なら、レンにもできることはある。水桶を運ぶ、燃えやすい物を遠ざける、逃げ道を確保する。けれど、魔法を使って火そのものを消すことはできない。


「候補者、前へ」


ドグ・マルクが腕を組んだ。昨夜の路面車火災で使った土術用の手袋を、もう修繕している。縫い目が新しい。


「名前は」


「レン・アークライト」


「魔法適性は」


「消因だけです」


「つまり、消火不能、攻撃不能、治癒不能」


「はい」


「よく自信を持って言えるな」


「試験にそう書かれました」


背後で、誰かが笑った。第九区隊の隊員はまだ四人しかいない。土術を使うドグ、通信係のトワ、救助犬のガルム。そして、昨日の現場で銀板を持っていたセナ・ヴァルハルト。彼女は訓練場の隅で、宙に浮く圧力線を反照盤へ写し取っていた。


「笑うなら、火が出てからにして」


セナが目を上げずに言う。


「レンの力は、消火の代わりにはならない。でも原因を切れば、次の一手を作れる」


「次の一手を作るために、まず火を消せないと困るんだよ」


若い隊員が吐き捨てると、ドグが手袋で地面を叩いた。


「だから試験をする。レン、あの導管を切れ」


訓練用の管には、三つの弁がついていた。一本目は燃料を送る。二本目は火を安定させる。三本目は安全弁だ。赤い炎は、二本目の弁を開けた操作を起点にしている。


レンは近づく前に、火の向きを見た。炎はまっすぐ上へ伸びているようで、先端だけが左へ曲がっている。左の壁に、次の術具がある。訓練用とはいえ、放置すれば壁を焦がす。


「燃料を止めればいい?」


「それは消火。あなたの仕事は違う」


セナが反照盤を回した。青い線が一本、赤い炎の根元から弁へ伸びる。


「開いた原因を見て。今、切っていいのは一つだけ。間違えれば、火は別の弁へ跳ねる」


「切ったあと、どうなる」


「あなたが見て判断する。私が全部答えたら、現場で役に立たない」


レンは少しだけ笑った。


セナは厳しい。しかし、分からないことを分かったふりはしない。


彼は燃える導管の横へ手を伸ばした。


「触る前に言え」


ドグが声を張る。


「対象、二本目の弁。切断後、炎は残る。左の術具へ伸びたらドグ隊長が土壁を」


「よし」


「右の弁へ跳ねたら、私が圧力を逃がす」


セナが続けた。


トワが伝鳴管を唇に当てる。短い合図が響いたあと、また低い音が混じった。トワは眉を寄せたが、吹き直さなかった。


レンは弁へ触れた。


昨日と同じ白い痛みが、掌を貫いた。


切る。


炎は消えなかった。赤い火が、二本目の弁から離れて左の術具へ向きを変える。レンは反射的に足を引いた。ドグが土壁を立て、セナが反照盤をひねる。圧力が壁へ逃げ、訓練用の炎が低くなった。


「今のは失敗か?」


若い隊員が言った。


「違う」


セナが答えた。


「原因は切れた。結果の炎は残った。でも、原因が変わったことで、私たちが対応できる場所へ移った」


レンは訓練管を見た。炎はまだ燃えている。消せない自分の力が、いつもなら欠点に見えた。けれど、ドグが立てた土壁の向こうでは、燃料を閉じる隊員が安全に近づけている。


「五つ、覚えて」


セナは反照盤を閉じた。


「消因は、燃えているか、燃えた直後の魔法導管にしか使えない。炎を消さない。傷も戻さない。意志や罪も消せない。そして同じ導管に二度使うと、原因が別の場所へ跳ねる」


「最後のは、昨日の現場で言わなかった」


「昨日は一度しか使っていないから」


レンは掌を握った。白い熱痕の周りだけ、温度がぼやけている。


「この痕は?」


「代償。温度感覚が鈍る」


ドグが短く言った。


「五回を越えて使えば、肺に残熱が溜まる。六回目からは、隊員の監督なしに使うな」


「昨日は一回でした」


「一回でその顔なら、五回使った顔を見たくない」


ガルムがレンの足元に鼻を寄せた。犬の鼻先が、熱痕ではなく、地面へ向いている。低い唸りが石床を震わせた。


訓練が終わると、ドグはレンを事務机へ呼んだ。机の上に、薄い灰色の通知が置かれている。


「お前の妹の治療施設からだ」


レンは紙を取った。白灰薬の配給が遅れる。次の炉の交換まで、薬の使用量を三割減らす。灰眠患者の状態によっては、治療の順番を見直す。


「ミナは、今のまま眠らせておけますか」


「施設に聞け。隊長の俺には答えられん」


「でも、白灰薬がなければ」


ドグは黙った。


セナが横から通知を見た。彼女の指が、紙の端で止まる。


「配給庫は中央第七区にある。第九区への搬送だけが遅れている」


「それは、今の火事と関係がありますか」


「分からない。分からないから、記録を取りに行く」


ドグが立ち上がり、隊員章を一枚、机へ置いた。正式なものではない。黒い革に、仮の銀線が一本だけ入っている。


「レン・アークライト。第九区救助隊の仮隊員とする」


「火を消せません」


「知っている」


「魔法消防士として、役に立たないかもしれない」


「役に立つかどうかは、火が出たあとに決める」


ドグはセナへ向いた。


「セナ。今日からお前を副隊長代行にする。俺が支柱を取る。お前が進路を読む。レンが原因を切る。順番を間違えるな」


セナは一瞬だけ驚き、それから反照盤を腰へ収めた。


「了解です、副隊長代行」


訓練場を出る前に、セナはレンを呼び止めた。彼女は燃え終わった訓練管の横へしゃがみ、灰の中から弁の欠片を拾った。


「あなたは、原因を切る前に必ず言葉にして」


「現場で?」


「現場だから。能力が珍しいからではなく、あなたが見ているものを他の人が見られないから」


「見えているというより、線が見えるだけです」


「それで十分なことがある。でも、十分でないこともある」


セナは弁の欠片を手袋の上で転がした。


「宮廷技師だったころ、私たちは圧力の数字を正しく読むことを求められた。数字が合っていれば、暮らしも安全だと思っていた」


「違ったんですか」


「数字の向こうにいる人間を、読む欄がなかった」


レンは、机の上の白灰薬の通知を思い出した。配給の遅れは数字になり、ミナの眠りは炉番号になっている。


「妹さんの名前を、現場帳に書いておいて」


セナが言った。


「火事の記録と関係が?」


「まだ分からない。でも、分からないから書く。名前がなければ、後で確かめることもできない」


トワが伝鳴管を握り直す。今度は高い音のあとに、低い音を吹き消した。


遠くの地下で、路面車の火災と同じ白い息が、もう一度だけ鳴った。


レンは隊員章を胸につけた。


ミナを起こすために入った救助隊で、彼はまだ、何を救うべきなのかを知らなかった。

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