第4話「言い分」
その男は、木曜の三時間目に、体育館の正面の扉から入ってきた。
「六年生のみなさん、こんにちは。常世興産の、明道徹といいます」
ふるさと学習のゲスト講師。市教育委員会からの紹介で、校長が二つ返事で受けた話だという。体育館に集められた六年生の前で、明道は綺麗に礼をした。夜の神社で塞森に礼をしたのと、寸分違わぬ角度だった。
千早は補助役として体育館の壁際に立っていた。児童席の後ろには参観の保護者が十人ほど。その反対側の壁際に、六年一組担任として、塞森静一が立っていた。
スクリーンに、最初の写真が映った。
山あいの村だった。茅葺きの屋根。石垣の道。運動会らしい万国旗。
「この村の名前を知っている人は、いますか」
誰の手も、挙がらない。
「水久保村といいます。ここから山を二つ越えたところに、四十年前まで、ありました。いまはダムの底です」
明道は、写真を淡々と替えていった。祭りの写真。分校の写真。最後の写真は、満々と水を張ったダム湖だった。
「村の人たちは引っ越しました。それは仕方のないことです。問題は、そのあとです。――この村の祭りの歌を、いま、正確に歌える人は、日本に一人もいません。誰も録らなかったし、誰も書かなかったからです。人が忘れると、その記憶は、二度と戻りません」
体育館が、静かになっていた。
「みなさんの鵜森も、人が減っています。おじいちゃん、おばあちゃんの憶えている祭りの由来、昔の川の遊び方、屋号、方言。……放っておけば、水久保と同じことが、ゆっくり起きます」
そして明道は、声をひとつ明るくした。
「そこで、私たちの仕事です」
スクリーンに、月色のロゴ。『思い出アーカイブ事業』。
家族の記憶を、映像と音声で記録して、永久に保存する。提供された記憶は「記憶資源」として大切に管理され、提供者には協力金が支払われる。町の記憶が、町を支えるお金になる。
「思い出は、消えるものだと諦められてきました。私たちは、諦めません。……みなさんの『おばあちゃんの話』は、宝物です。宝物には、宝箱が要ります」
六年生たちが、ざわめいた。よいほうの、ざわめきだった。
「うちのばあちゃん、神楽やってたって言ってた!」「協力金って、もらえるんですか」「アプリで見られるの?」
千早の背中を、冷たいものが走った。境内で一人ずつ消されていた、袖の長い踊り手たち。あの子のばあちゃんは、あの輪の中で踊っていたのかもしれない。
挙がる手に、明道はひとつずつ、丁寧に答えていく。
うまい、と千早は思ってしまった。
導入に喪失の実話、本題は希望、子どもの発言をすべて拾って、否定をひとつもしない。教育実習で教わりたかったくらいの、満点の授業だった。
頷きかけて、怖くなった。学級費の袋を、いつも遅れて出す子の顔が浮かんだのだ。協力金は、あの子の家を確かに助ける。おばあちゃんの話は、確かに残る。……何かを間違えている気がするのに、どこが間違いなのか、千早には指させなかった。
満点の授業のあいだ、壁際の塞森は、一度も動かなかった。
放課後、応接室に茶を運んだのは千早だった。
偶然ではない。教頭に頼まれた盆を、廊下で自分から引き取った。応接室には、校長と明道――のはずが、校長は電話で呼ばれて席を外し、ソファには明道と、見送り役の塞森だけが残っていた。
茶を置く千早を気にも留めず、二人は静かに向き合っていた。下がるきっかけを、二人の沈黙が奪った。
「率直に申し上げます」
明道が先に口を開いた。昼の、丁寧なままの声で。
「神社跡での調査手順には、行き過ぎがありました。現場には是正を指示しています。……ですが塞森先生。事業そのものは、止まりません。あなたも本当は、おわかりのはずだ」
「何がでしょう」
「あなたの繕い物が、間に合っていないこと――です」
湯呑みに、手も伸ばさずに言った。
「地蔵は撤去され、社は取り壊され、憶えている人から順に、この町からいなくなる。あなたは夜ごと糸を掛け直す。立派です。ですが杭は年々減っていく。……先生。あなたが守っているのは土地ですか。それとも、ご自分の役目ですか」
「明道さん」
塞森の声は、昼の敬語のままだった。
「置き場所を失った記憶が、どうなるかご存じですか」
「ええ。あなたより詳しいかもしれない」
即答だった。
「凝って、荒れて、いずれ人を傷つける。だから私どもは、凝る前に汲む。安全に、丁寧に、対価まで払って。……あなたのなさっていることと、私どものしていることは、実は同じなんですよ。記憶に、置き場所を与えている。違いはひとつだけ。私どもの置き場所は、消えない」
明道は、初めて茶を一口飲んだ。
「思い出では、飯は食えません。……食えるようにするのが、私の仕事です」
「――水久保の歌は」
塞森が、言った。
「録れていれば、救われましたか」
千早は、盆を持ったまま動けなかった。明道の表情は、変わらなかった。変わらなさすぎた、というのが正しい。四十年前に沈んだ村の話を、この男はさっき、天気の話と同じ顔でしていた。いまも、している。
「……ええ。救われましたとも」
明道は立ち上がり、鞄を取った。ドアの前で振り返る。
「近いうちに、市民説明会を開きます。先生もぜひ。――ああ、それと」
視線が、すっと下がった。塞森の上着の、内ポケットのあたりへ。
「その帳面も、いずれ要らなくなりますよ。すべての記憶に、置き場所を差し上げます。……あなたの分にも、ね」
礼は、今日も綺麗だった。
ドアが閉まってから、千早はやっと気づいた。塞森の右手が、上着の上から、帳面をずっと押さえていたことに。
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