夜の学区

帳 ゆう

第1話「夜の学区」

 夜のプールは、音で満ちている。

 循環ポンプの低い唸り。フェンスを揺らす風。金網に絡んだ桜の枯れ枝が擦れる音。

 日置千早は、その音をひとつ、数え間違えていることに、遅れて気づいた。


 ひた、と水が鳴った。

 午後九時の鵜森市立汐見小学校に、泳ぐ者などいるはずがない。

 千早がこんな時間に学校へ戻ったのは、初任者研修のレポートを入れたUSBを、机に忘れたからだった。

 USB。この響きだけで、大学の同期・真山実来には笑われる。実来のひばり野小は校務がクラウドで、家から書けるらしい。汐見小は、データはUSBで、持ち出しは手書きの許可簿。学級費にいたっては、いまどき現金の集金袋が教室を回る。実来に話したら「どこの昭和?」と絶句されたやつだ。どこを何から守っているのか、よくわからない。わからないが、一年目に決まりは変えられない。

 だから、夜の学校に戻る羽目になる。教員一年目の五月。持ち帰る仕事の量を、まだ自分の鞄が覚えてくれない。教頭に電話で頭を下げ、警備の切り方まで教わって、職員玄関の鍵を借りた。廊下の非常灯だけを頼りに机まで往復して、あとは帰るだけ――のはずだった。

 プールサイドの水音は、帰り道の途中で聞こえた。

 ひた。ひた。

 規則正しい。呼吸のようだ、と思ってしまってから、思わなければよかったと後悔した。

 フェンス越しに、プールが見えた。

 五月のプールは、まだ濁った水を張ったままだ。掃除は六月。水面は本来、夜空を映して黒く、平らであるはずだった。

 立っていた。

 水面の中央に、水でできた子どもの形が、立っていた。

 背丈は低学年くらい。顔はない。輪郭だけが月明かりを透かして、ゆらゆらと揺れている。それは千早のほうへ、顔のない顔を向けた。

 ――つめたい。

 声ではなかった。水音が、そういう形に聞こえた。

 ――あがれない。あがれない。

「……っ」

 叫ぶべきだった。逃げるべきだった。頭ではわかっているのに、千早の足はフェンスの切れ目へ、プールサイドの入口へ、一歩ずつ近づいていく。手を引かれるようだった。冷たい水の中から、小さな手に、袖の端をつままれているようだった。

 サンダルの先が、水に触れた。

「日置先生」

 声は、静かだった。

「動かないで、そのまま」

 振り向く。プールサイドの入口に、男が立っていた。

 六年一組の担任、塞森静一。同じ職員室で机を並べて、ひと月と少し。話した回数は数えるほどしかない。授業は淡々、板書の字だけが異様に綺麗で、何を考えているのかわからない先生。

 その塞森が、夜のプールサイドを、まっすぐに歩いてくる。急がず、遅れず、水たまりを踏んでも音を立てない。千早を追い越すとき、一言だけ落とした。

「――下がっていなさい。ここから先は、学区の外だ」

 口調が、変わっていた。

 昼の職員室の、丁寧で平坦な敬語ではない。短く、低い。別人のようで、しかし声は同じだった。

 塞森は水際に立った。水でできた子どもと、向かい合う。

 ――つめたい。あがれない。

「知っている」

 塞森は言った。責めるでもなく、宥めるでもなく、ただ事実を置くように。

「三十年、そこにいたな。よく浮かんできた」

 男の右手が、水面に触れた。

 千早は見た。黒い水面に、月明かりが糸のように走るのを。水の子どもの輪郭が、無数の細い糸の絡まり――結び目の集まりでできているのが、その一瞬だけ透けて見えた。

「もう、あがっていい」

 指が、動いた。何かをつまんで、ほどくような、それだけの仕草。

「――解く」

 音が、消えた。

 ポンプの唸りも、風も、水音も、ぜんぶ。世界がひと呼吸ぶんだけ止まって、それから、水の子どもは崩れた。倒れるのではなく、ほどけた。輪郭が糸に戻り、糸は光の筋になって水面を走り、プールサイドの亀裂へ、フェンスの根元へ、桜の古木の根へ――土へ、沁みて消えた。

 あとには、平らな黒い水面だけが残った。夜空を映して、どこまでも静かだった。

 千早は、へたり、とその場に座り込んだ。

「……いま、の……あの、塞森先生、いまのは……」

「溺れた記憶です」

 振り向いた塞森は、もう昼の口調に戻っていた。

「三十年前、このプールで溺れかけた子の。……大丈夫、死んでいません。助かった子の、怖かった記憶だけが、底に沈んで残っていた。ああいうものは時々、浮かんでくるんです」

「記憶、って……記憶が、立って、歩くんですか」

「古い土地では、たまに」

 説明はそれで終わりらしかった。塞森は千早に手を貸して立たせた。その手の感触に、千早は奇妙な引っかかりを覚えた。

 ――あれ。

 初めて触れるはずの手を、知っている気がした。ずっと昔、冷たい水の中から、こんなふうに引き上げられたことが――。

 思い出は形になる前にほどけて、消えた。

 塞森は上着の内から、古びた帳面を取り出していた。表紙の擦り切れた、小さな帳面だ。月明かりの下で頁を開き、万年筆で短く何かを書きつける。それから、顔を上げた。

「見たことは、忘れてもいいし、憶えていてもいい。……ただ、夜にあの水音を数えたら、近づかないこと。いいですね、先生」

「は、はい。……あの、訊きたいことが、山ほどあるんですけど」

「でしょうね」

 塞森は少しだけ黙って、それから帳面へ目を落とした。

「では、先にこちらからひとつ。……失礼。お名前を、もう一度伺っても」

「…………日置です。日置千早。四月から、ずっと隣の島の机ですよ。というか先生、さっきプールで、私のこと名前で呼んでたじゃないですか」

「日置先生」

 塞森は繰り返して、帳面にそれを書いた。書きながら、独り言のように言った。

「いい名前だ。忘れないように、書いておきます」

 冗談なのか、本気なのか、わからなかった。わからないまま、その夜は終わった。


 翌朝の職員室は、いつもどおりだった。

 蛍光灯。お茶の匂い。印刷機の音。昨夜の水音とは別の世界のようで、千早は自分の記憶のほうを疑いそうになった。

「日置先生、おはようございます」

 塞森は昼の顔で、平坦にそう言った。ただ、挨拶の直前、机の上の帳面へ一瞬だけ目を落としたのを、千早は見てしまった。

 ――書いておきます、と言った。

 あれは、冗談ではなかったのかもしれない。

 考えかけたところで、教頭の声が職員室に通った。

「回覧でーす。各学年、目を通して印鑑お願いします」

 回ってきたクリアファイルには、見慣れない社名の入った、上質な紙の文書が挟まっていた。


 『貴校区における文化財・記憶資源調査へのご協力のお願い――常世興産株式会社』


 記憶資源、という言葉を、千早は知らなかった。

 ただ、隣の島で印鑑を持ったまま、その文書を見下ろしている塞森の目が――昨夜、水際に立ったときと同じ目をしていることだけは、わかった。

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