第14話 腹を満たしてから
圧縮した木屑の燃料を売り出してから、二週間あまりが過ぎた。
最初のうちは、見慣れない黒褐色の塊を手に取っても、本当に薪の代わりになるのかと首を傾げる者の方が多かった。
それでも、薪より安く、一度に少しだけ買うこともできる。実際に使った者から「火をつけるのに少し手間はかかるが、長く燃える」という話が広がるにつれ、貧民区に近いアマルガムの店では少しずつ買い求める者が増えていった。
火付きは薪ほど良くないため、最初に細い枝や少量の薪を使う必要がある。それでも、一度火が回ればすぐには燃え尽きず、暖炉や竈の熱を長く保ってくれる。
なにより大きかったのは、冬を越すための燃料をまとめて買う金がない者でも、その日に必要な分だけ買えることだった。
薪を買えない者すべてを救えるほど安いわけではない。
それでも、
――今日は火を入れられる。
そういう家を少し増やすことはできていた。
製造についても、すでにシルヴェスターが細かな指示を出す必要はなくなっている。
圧搾具は増やされ、乾燥場所が確保され、ハンデル製造所から出るおがくずを定期的に運び込む仕組みも商会側で整えられた。
今後さらにハンデル製造所が二棟、場合によっては三棟増えれば木屑の量も大幅に増えるだろうが、以前のように倉庫へ積み上げ、場所を塞ぐだけにはならない。
燃料を作るためにも人が必要になる。
材料を運ぶ者。
乾燥させる者。
圧搾具を扱う者。
出来上がった燃料を店へ運ぶ者。
そこにはまた、新しい働き口が生まれていた。
仕事を作る。
安く燃料を売る。
そのどちらも、以前より多くの人間の暮らしを支えることにつながっている。
けれど、実際に貧しい者たちの暮らしを見るほど、それだけでは届かない相手がいることも分かってきた。
◇
ある日の午前、シルヴェスターはリゼットと護衛を伴い、貧民区に近いアマルガム系列の店を訪れていた。
帳面の数字だけではなく、実際に誰が燃料を買い、どのように使っているのかを見ておきたかったからだ。
店先では、籠へ二つだけ燃料を入れて帰る女がいた。手の中の銅貨を何度も数えながら、一日分だけ求める老人もいる。薪を一束買うには足りなくても、この燃料なら手が届く。そんな者が少なくないらしい。
店の脇には、小さな両替窓口も設けられている。
ライプツァールの住民であれば、銅貨を銀貨へまとめても、銀貨を日々の買い物に使いやすい銅貨へ崩しても手数料は取られない。旅人や外から来た商人にはわずかな手数料がかかるが、地元で暮らす者については以前からアマルガムが無料で行っている仕事だった。
燃料を買った女が余った銅貨を革袋へ戻しているのを見ながら、シルヴェスターはひとまず安心していた。
安くした意味は、ちゃんとあったらしい。
そのとき、一台の荷車が店の前へ入ってきた。
荷台には布袋や木箱が積まれている。店員が何人か外へ出ると、それまで通りの端にいた子供たちも数人、荷車へ近づいていった。
その中に、一人だけ少し年上の少年がいた。
十歳になるかならないかほどだろう。服は何度も繕われ、片方の袖口には別の布が当てられている。
「手伝うよ」
少年は荷車から降りた男へ声をかけた。
「今日は軽いの少ないぞ」
「箱なら持てる」
男は荷台を見回し、比較的小さな木箱を指した。
「じゃあ、それを中まで。落とすなよ」
「うん」
少年はすぐに箱を抱えた。
大人ならそれほど苦労しない重さなのだろうが、少年にはそうでもないらしい。両腕で胸へ抱え込み、少し身体を反らしながら店の中へ運んでいく。
一つ運び終えると、すぐに戻ってきた。
二つ目。
三つ目。
最後の箱を運び終えると、荷運びの男が腰につけた小袋から銅貨を何枚か取り出した。
「ほら」
「ありがとう」
少年は受け取った銅貨を掌の中で数えた。
それから店先の商品へ目を向ける。
燃料や乾物、その横にはパンも置かれていた。
少年はしばらく迷ってからパンの方へ歩いたものの、値札を見たところで足を止めた。
もう一度、掌の銅貨を数える。
結局、何も買わずに離れた。
その様子が気になり、シルヴェスターは店の者へ尋ねた。
「あの子、よくここで仕事してるの?」
「時々来ますよ」
「店の人じゃないよね?」
「ええ。荷が来たときに人手が足りなければ、少し運ばせて銅貨を渡すくらいです」
「毎日?」
「仕事があれば、ですね」
店員は少年の背中を見た。
「あれくらいの年なら、この辺りでは珍しくありませんよ。親の仕事を手伝う子もいますし、使い走りや荷運びで小銭を稼ぐ子もいます」
シルヴェスターは少年へ目を向けた。
前世の感覚なら、十歳はまだ家計を支えるために働く年齢ではない。
もっとも、それを言えば、自分は六歳で商売に関わっている。
けれど、同じではなかった。
シルヴェスターにとって、ハンデルも製造所も、まだ趣味や道楽の延長に近い。
今日一日何も稼げなくても夕食は出る。
思いついた商売に失敗しても、眠る場所を失うことはない。
両親も、祖父母も、商会の大人たちもいる。
目の前の少年は違う。
箱をいくつ運べたか。
銅貨を何枚もらえたか。
それが、その日の食事へ直接つながっている。
少年は店から少し離れたところへ移り、また次の荷車が来ないか通りを見ていた。
シルヴェスターは少し迷ってから、リゼットがすぐ後ろにいることを確かめ、そちらへ歩いた。
「まだ仕事するの?」
声をかけられた少年は、六歳ほどの子供が話しかけてきたことに少し驚いたらしい。
「荷が来たら」
「さっきのお金で、何か買わないの?」
「足りない」
「何に?」
少年は少し黙った。
「パン」
「自分の?」
「妹の」
シルヴェスターは少年の顔を見た。
頬が、年齢のわりに痩せている。
「……お腹、すいてる?」
少年はすぐには答えなかった。
やがて、小さく頷く。
「昨日から、何も食べてないの?」
もう一度、頷いた。
「お父さんとお母さんは?」
「父ちゃん、荷運びしてたけど、足やった。母ちゃんは洗濯」
「きょうだいは?」
「妹が二人」
「妹たちは食べた?」
「昨日は食べた」
「君は?」
「水飲んだ」
少年は、さほど珍しいことでもないように答えた。
話を聞くと、一家は貧民区の外れにある古い長屋で暮らしていた。
父親は荷運びの仕事中に足を痛め、今はまともに働けない。母親は洗濯仕事を続けているが、それだけで五人分の暮らしを支えるには足りない。
少年も何もしていないわけではなかった。
母親が預かった洗濯物を届け、二人の妹の面倒を見ながら、こうして荷下ろしや使い走りの仕事を見つけては、わずかな銅貨を稼いでいる。
今日も母親の仕事を手伝ったあとで、この店へ来たのだという。
圧縮燃料なら薪より安い。
少量から買える。
けれど、何も食べていない家にとっては、燃料より先に必要なものがある。
製造所で仕事を得た者もいる。
安い燃料で夜の寒さをしのげるようになった家もある。
それでも、そこから外れる者は残る。
シルヴェスターは、次の荷車が来ないか通りを見つめている少年を見ながら、そのことを改めて思い知らされていた。
◇
「食事を配りたい」
その日の夕食後、シルヴェスターは両親にそう切り出した。
メルキュールはすぐには答えず、ゼーベイアも手にしていた茶器を卓上へ戻した。
「一度だけか。それとも続けたいのか」
「続けたい」
ゼーベイアは少し考えたあと、頷いた。
「それなら、最初から続ける前提で考えた方がいいな」
三か月前なら、まず金の話になっていただろう。
今は違う。
ハンデルは売れ続けており、製造所の増設、人員の拡充、新しい燃料事業への投資を進めてもなお、新たな取り組みに使えるだけの利益が残っている。
貧民区を見て、自分の金で何かをしたいと考えたところから始まったハンデルは、いまではその目的のために金を使っても、簡単には揺らがないだけの事業になっていた。
「余った料理を集めて持っていくのは?」
シルヴェスターが尋ねると、ゼーベイアは首を横に振った。
「それはやめた方がいい。日によって量も違うし、いつ作ったものかも揃わない」
メルキュールも続ける。
「続けるなら、そのための食事を最初から用意した方がいいでしょうね。今日は余ったからある、次は余らなかったからない、では困るでしょう?」
「うん」
「それに、余り物を恵むような形にする必要もありませんよ」
シルヴェスターは素直に頷いた。
「じゃあ、ちゃんと作る」
用意する料理は、豪華なものにはしなかった。
豆と野菜を中心にした温かい煮込みへ、少量の肉を加える。そこにパンを一つ。
毎回まったく同じである必要はないが、大鍋でまとめて作ることができ、身体が温まり、腹にたまるものを優先する。
そしてシルヴェスターは、もう一つ加えた。
「子供には、お菓子もほしい」
メルキュールが確認する。
「焼き菓子ですか?」
「うん」
「食事だけでも十分だと思いますが」
「食事は、お腹のためでしょ」
「そうですね」
「お菓子は、うれしいから」
メルキュールは少しだけ目を細めた。
「それなら、用意できるものを考えてみましょうか」
高価な砂糖を大量に使う必要はない。
蜂蜜を少し使ったものや、干した果実を練り込んだ小さな焼き菓子なら、数を揃えることもできるだろう。
生きるために必ず必要なものではない。
けれど、生きるために必要なものだけが、人に必要なもののすべてではないと、シルヴェスターは思っていた。
「配る時間はどうしますか?」
メルキュールが尋ねる。
「夕方」
シルヴェスターは迷わず答えた。
「昼ではなく?」
「うん」
「どうして夕方に?」
シルヴェスターは少しだけ首を傾け、それから当たり前のことを言うように答えた。
「お腹がふくれたら、夜は眠れるでしょ」
メルキュールが一瞬黙った。
ゼーベイアも何も言わず、しばらく息子の顔を見ていた。
「……そうですね」
それだけだった。
シルヴェスターも、それ以上説明しなかった。
「毎日やるの?」
「最初から毎日は難しいですね」
メルキュールは少し考えてから答えた。
「食材は用意できますけれど、料理を作る人も、運ぶ人も、配る人も必要になります。無理をして始めて、すぐ続けられなくなる方が困るでしょう?」
「じゃあ、どれくらい?」
「まずは三日に一度くらいでどうでしょう」
シルヴェスターは少し考えた。
三日に一度なら、毎日食事を届けられるわけではない。
それでも、これは一度食べさせて終わるために始めるものではない。
「うん。それで続けたい」
「では、まず三日に一度。様子を見ながら、必要ならあとで考えましょう」
ゼーベイアも頷いた。
「最初は何人くらいだ?」
「五十人ほどでもいいと思いますが」
メルキュールの言葉に、シルヴェスターは少し考えた。
「六十人」
「五十ではなく?」
「ちょっと少ない気がする」
ゼーベイアが笑った。
「では六十で始めよう。足りなければ次から増やせばいい」
最初から何百人分も用意する必要はない。
三日に一度、同じ場所で、夕方に温かい食事を出す。
まずは六十人分から始め、実際に何人来るのか、どれだけ持ち帰る者がいるのかを見ながら、その次、そのまた次と量を調整していけばいい。
ハンデルの製造でも、似たようなことを何度も繰り返してきた。
話が決まれば、その先を動かすのは大人たちだった。
貧民区に近く、それなりの広さがあり、人が集まっても道を塞ぎにくい場所が選ばれた。
大鍋や食器が用意され、料理人だけでなく、その補助、食材を運ぶ者、配膳をする者、器を洗う者、周囲を整理する者も雇われる。
当然、その人数分の賃金も必要になる。
食材を買えば終わりではない。
三日に一度続けるなら、料理を作る者にも、運ぶ者にも、配る者にも、片づける者にも、そのたびに仕事と賃金が発生する。
けれど、それもシルヴェスターが望んでいたことの一つだった。
食事を配るために使った金の一部が、そのまま別の誰かの働く場所になる。
ここにもまた、いくつかの仕事が生まれた。
◇
それから一週間ほどして、最初の配食の日を迎えた。
日はまだ沈みきっていなかったが、空はすでに夕暮れの色へ変わり始めている。
大鍋からは湯気が立ち、豆と野菜、それに少量の肉を煮込んだ匂いが周囲へ広がっていた。
隣にはパンの入った籠が置かれ、そのさらに横には、子供へ渡す小さな焼き菓子が並べられている。
用意したのは六十人分だった。
ところが、配り始めるころには、それでは足りないかもしれないことが分かった。
「思ったより来たね」
「最初としては多いですね」
コルテノも集まってきた人々を見ながら答える。
大勢が押し寄せるほどではない。
老人。
子供を連れた女。
仕事帰りらしい男。
子供だけで来ている者。
噂を聞いて半信半疑で来たらしい者も多かった。
商会側は順番を整理しながら、小さな子供を抱いた者や、長く立っているのがつらそうな老人には先に食事を渡していく。
食事は、その場で食べてもいい。
家族のところへ持ち帰ってもいい。
名前は聞かない。
どこに住んでいるのかも尋ねない。
何かを約束させることもない。
ただ、食べるものを受け取る。
それだけだった。
「もう一杯もらえる?」
鍋の前で、小さな少年が尋ねた。
配膳を担当していた女が少し困った顔をする。
「みんなに行き渡ってからね」
「僕のじゃない。妹の」
「妹?」
「熱あるから来れない」
女は近くにいた責任者へ確認した。
少し話したあと、持ち帰れるよう一人分の煮込みとパンが別に用意される。
シルヴェスターは、そのやり取りを少し離れたところから見ていた。
決まりは必要だ。
けれど、決まりを守ること自体が目的になってはいけない。
こうした細かな事情まで全部自分が決めることはできないし、する必要もない。
その場を見て判断できる大人を置いておけばいい。
結局、六十人分では少し足りなかった。
近くの系列宿から追加の煮込みとパンを運んでもらい、最終的に食事を受け取ったのは七十人あまりになった。
「次は?」
片づけが始まったころ、シルヴェスターが尋ねる。
「百人ほど用意しておいた方がよいでしょう」
コルテノは答えた。
「今日来た方から話が広がるでしょうから、次はもう少し増えると思います」
「じゃあ百人」
「そこから、また様子を見ましょう」
「うん」
必要に応じて、少しずつ増やしていけばいい。
◇
焼き菓子は、食事以上に子供たちの目を輝かせた。
「一人一個ですよ」
配っていた女が言うと、まだ幼い男の子が両手を差し出した。
「二個」
「一個です」
「小さいの二個」
「どれも同じ大きさですよ」
男の子はしばらく菓子と女の顔を見比べていたが、結局一つだけ受け取って走っていった。
その場ですぐ口へ入れる子もいれば、大事そうに懐へしまう子もいる。半分に割り、隣にいた弟らしい幼い子へ渡す少女もいた。
少し離れたところには、見覚えのある少年の姿もあった。
一週間ほど前、アマルガムの店先で荷運びの手伝いをしていた、十歳ほどの少年だ。
今日は、まだ幼い二人の少女と一緒だった。
おそらく、話に出ていた二人の妹なのだろう。
少年は自分の器を脇へ置き、片方の妹へパンを渡し、もう一人の器が傾かないよう手を添えている。
三人とも、温かい煮込みを前にしていた。
シルヴェスターは、しばらくその姿を見ていた。
焼き菓子を受け取った二人の妹が顔を見合わせて笑うと、少年も少しだけ表情を緩める。
食事だけでも腹は満たせる。
けれど、菓子を受け取ったときの子供たちの顔は、温かい煮込みを受け取ったときとはまた違っていた。
用意してよかったと思う。
やがて日は傾き、広場を囲む建物の影が長く伸び始めた。
食事を終えた者の多くは、それぞれの家へ帰っていく。
それでも全員がすぐに姿を消すわけではなかった。
腹が満ちて元気が出たのか、子供たちは広場の端で追いかけっこを始め、大人たちも何人か残って話をしている。
七十人あまりの人間が同じ場所へ集まれば、当然、きれいなものだけが見えるわけでもなかった。
列の途中へ割り込もうとして止められる者がいた。
年下の子供が持つ焼き菓子へ手を伸ばし、配膳を手伝っていた者に叱られる少年もいた。
置いてあったパンを自分のものだと言い張り、別の男と揉める者もいる。
その一方で、足の悪い老人の器を代わりに運んでやる若者がいた。
転んだ子供を起こして、服についた土を払う女もいた。
自分の焼き菓子を兄弟で分ける子供もいる。
同じ広場の中に、どちらもあった。
シルヴェスターはしばらく、それを見ていた。
貧しいから悪くなる。
そんな単純な話ではない。
貧しくても人に手を貸す者はいるし、暮らしに困っていなくても人を騙す者はいる。
ただ、足りないものを取り合う暮らしが長く続けば、譲るより先に取った方がいいと覚える者が出ることはあるだろう。
自分だけ正直にして損をするなら、次からは自分も騙す側へ回ろうと考える者だっている。
そういうものを、食事だけで変えられるとは思わない。
そもそも、六歳の自分が前へ出て、人のものを取るな、弱い者をいじめるな、嘘をつくなと説教したところで、誰が真面目に聞くだろう。
前世でも、正しいことを言えば、その通りに人が動くわけではなかった。
けれど――物語ならどうだろう。
そこまで考えたところで、記憶の奥から一つの光景が浮かんだ。
暗い場所。
白い幕。
その向こうから当てられる灯り。
幕の上を動く、黒い人形。
「……影絵」
思わず声に出した。
少し離れたところで周囲を見ていたラギールが、ちらりとこちらへ視線を向ける。
何も言わない。
いつものことだった。
シルヴェスターは広場の一角へ目を向けた。
白い布を張る。
その後ろへ灯りを置き、人形を動かす。
ただ話を聞かせるより、影が動き、声がつき、音楽まであれば、子供だけでなく大人も足を止めるかもしれない。
食事を受け取ったからといって、見ることを条件にはしない。
食べ終わったら帰ってもいい。
反対に、食事を必要としない者が芝居だけを見に来ても構わない。
腹を満たしたあとに、少しだけ楽しい時間を作る。
その中へ物語を置く。
正しい答えを教えるためではない。
登場人物を見て、笑ったり、腹を立てたり、かわいそうだと思ったりする。
そのあとで少しだけ、自分ならどうするだろうと考えてもらえれば、それでいい。
「コルテノ」
片づけの確認をしていたコルテノを呼ぶ。
「はい」
「影でお芝居するのって、できるかな」
突然の話に、コルテノは少し首を傾けた。
シルヴェスターは、白い幕の後ろから灯りを当て、人形の影を映すものだと簡単に説明した。
思いついたばかりなので、細かなところまでは決まっていない。
それでもコルテノは、広場と日暮れかけた空を見比べながら話を聞いていた。
「できなくはないと思います。ただ、すぐというわけにはいきませんね」
「やっぱり?」
「幕を用意して、人形を作るだけでは済まないでしょう。灯りをどう置くかも試さなければなりませんし、人形を動かす人、声を担当する人も必要です」
「楽器もほしい」
「それなら、なおさらですね」
シルヴェスターは頷いた。
頭の中で思い浮かべるのは簡単でも、実際に人へ見せるものを作るとなれば話は別だった。
人形ひとつにしても、細かな彫刻を施す必要はないだろうが、影として何を表しているのか一目で分からなければ意味がない。
関節を動かすなら、その作り方も考える必要がある。
幕も、ただ白い布なら何でもいいとは限らない。
灯りについても、実際に試してみなければ分からない。
そして何より、物語がいる。
「お話は、ぼくが考える」
「分かりました。ただ、実際に演じる人たちと一緒に直した方がよいでしょうね」
「うん」
そこはシルヴェスターにも異論がなかった。
前世で知っている物語はいくつもある。
けれど、この世界には存在しない土地や習慣もあれば、宗教や身分の考え方が違うものもある。
元の文章をそのまま再現する必要はない。
この世界の人間にも分かる形へ直して、それでも物語の中にあった大切な部分は残す。
その方がいい。
コルテノは、必要になりそうな人間を頭の中で数えているようだった。
「人形を作る職人は探せます。操作する者は、役者に限らず手先の器用な者を試してみた方がよいでしょう。声についても、読み書きができて、人前で声を出せる者を何人か集めてみます」
「楽器の人も」
「そちらもですね」
また仕事が増える。
食事を配るために人を雇い、その食事をきっかけに影絵を始めれば、今度は人形を作る者や演じる者、楽師にも賃金を払うことになる。
誰かを助けるために使った金が、別の誰かの仕事になる。
ハンデルを始めてから、そんなことが少しずつ増えていた。
問題は、実際に面白いものを作れるかどうかだ。
次の炊き出しは三日後だが、影絵までそこへ合わせる必要はない。
急いでつまらないものを見せれば、次は見てもらえなくなるかもしれない。
ハンデルのときもそうだった。
思いついただけでは商品にならない。
作って、試して、直す。
影絵も同じだろう。
「どうしました?」
コルテノが尋ねた。
「なんでもない」
シルヴェスターは、人の減った広場の一角を見た。
今はまだ、そこには何もない。
けれど、いつか白い幕を張り、その向こうで影が動く。
その前に何人が残ってくれるのかは分からない。
十人かもしれない。
子供ばかりかもしれない。
最初の話がつまらなければ、途中で帰る者だっているだろう。
それでも、やってみなければ分からない。
シルヴェスターは暗くなり始めた広場をもう一度見渡してから、屋敷へ戻るため歩き出した。
次の炊き出しは三日後。
影絵が始まるのは、もう少し先になる。
それまでにまず、最初の物語を形にしなければならなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます